功と讒言の果て
- 劉潔、長楽信都の人。昭成帝の時、慕容氏が女を献じた際、潔の祖父が公主家臣として随行し魏に入った。妻妾を賜り生まれた子の堤は楽陵太守・信都男に封ぜられ卒し、潔がその爵を襲った。しばしば征討に従い会稽公に進爵。永安侯魏勤・功労将軍元屈らと吐京の叛胡を討った際、捕らえられ赫連屈丐に送られたが、潔は声気を屈せず字を呼んで語らい神色は自若としていた。屈丐はその豪胆に感じ入り釈放した。帰国後、東部の事を典じた。明元帝が病臥し太武帝が監国した際、潔は古弼らとともに東宮に侍し機要を分掌した。
- 太武帝即位後、柱石の器を認められ大任を委ねられた。軍国の議には朝臣皆その能を推した。尚書令に遷り鉅鹿公に改封。車駕の西伐で潔は前鋒となったが、沮渠牧犍の弟董来が城南で戦った際、卜者の言を信じ日辰の不協を理由に鼓を撃って陣を退かせたため董来は入城を果たし、太武帝はやや不信を抱いた。潔は久しく枢密にあり寵を恃んで専断し帝の心はしだいに不平を抱いた。蠕蠕討伐を議した際、潔は「農を広め穀を積んで敵の来襲を待つべき」と主張し群臣も皆従ったが、帝は決行を選び崔浩の議に従った。出征後、諸将と鹿渾谷で会する約束をしたが、潔は自分の策が用いられなかったことを恨み諸将の足並みを乱そうと詔を偽って期日を変え、諸将は集まらなかった。当時、敵の軍勢は大いに乱れており景穆太子が撃とうとしたが潔がこれを止めた。鹿渾谷に六日留まっても諸将は集まらず賊はすでに遠く逃げ、石水まで追ったが及ばず引き返した。軍が漠中に至り糧が尽き士卒が多く死んだ。潔は密かに人を使い軍を驚かせ帝に軍を捨てて軽装で還るよう勧めたが帝は従わなかった。潔は軍の失敗を崔浩に帰そうとしたが、帝は「諸将の遅参と敵を撃たなかった罪は諸将にある、どうして浩にあろうか」と言った。さらに潔が詔を偽った事件が発覚し、車駕が五原に至った際、潔を捕らえて幽閉した。
- 太武帝の征討中、潔は密かに親しい者に「もし軍が出て功なく車駕が還らねば、私は楽平王を立てよう」と語った。潔はさらに右丞張嵩に図讖を求め「劉氏が王となり国家の後を継ぐという、私に姓名があるか」と問い、嵩は「姓はあるが名はない」と答えた。厳しく取り調べ嵩の家を捜索すると果たして讖書が見つかった。潔と南康公秋隣、嵩らはみな三族を夷され、死者百余人に及んだ。潔はすでに権勢の座にあり内外はこれを憚り目を伏せて見た。その家財を没収すると財産は巨万にのぼった。太武帝は追ってこれを憤り語るたびに歯噛みしたという。