北史卷二十四 列傳第十二 封懿

封懿、字は処徳、勃海蓚の人。慕容宝に仕えたのち魏に帰順し都坐大官などを歴任した文人官僚で、『燕書』を著した(生没年不詳)。子孫は北魏末から隋にかけて繁栄し、封回・封隆之は動乱期に義挙と忠勤で名を挙げ、封軌・封述は律令・学問の才で知られた。

年表(9件)
  • 延昌中封隆之、開府中兵参軍として大乗の乱を討ち道人法慶を捕らえる
  • 中興初年封隆之、吏部尚書となり韓陵の戦いで鄴城の留守を任される
  • 元象初年封隆之、冀州刺史・開府として出て尚書右僕射に累進する
  • 大寧三年封子繪(隆之の子)、都官尚書となる
  • 正光末年封偉伯(軌の子)、行台郎として蕭宝夤の反乱に連座し殺される
  • 永安中封偉伯に瀛州刺史が追贈される
  • 天平中封述、三公郎中となり『麟趾新格』の刪定にあたる
  • 河清三年封述、律令の議定に加わる
  • 隋開皇中封詢(述の弟)、済南太守を経て卒す

封懿

  • 封懿、字は処徳、勃海蓚の人。曾祖釈は晋東夷校尉。父放は慕容暐の吏部尚書。兄孚は慕容超の太尉。懿は才器があり文章に長け、孚と器行の優劣はあれど名位はほぼ等しかった。慕容宝に仕え中書令・戸部尚書。宝の敗北後、魏へ帰り給事黄門侍郎・都坐大官・章安子とされた。道武帝の引見で慕容氏の旧事を問われたが応対が疎慢で廃黜され帰宅させられた。明元帝の初め、再び都坐大官に召され侯爵に進んだ。官に在り卒去。懿は『燕書』を撰し世に広く行われた。
  • 子の玄之は司馬国璠・温楷らとの謀反に連座し誅殺された。臨刑に明元帝は「決してお前の血統を絶やしはしない、一子を宥そう」と語り、玄之は弟虔之の子で早くに孤児となった磨奴(字は君明)の助命を願った。玄之の四子は殺されたが磨奴は赦され宦者とされた。崔浩誅殺の際、太武帝は磨奴に「お前は本来罪なきはずだが刑を受けたのは浩のせいだ」と語った。のち中曹監となり張掖に使い富城子を賜爵。懷州刺史で卒し勃海公を贈られ諡は定。一族の子叔念を後継とした。

封回とその子孫

  • 回、字は叔念。孝文帝の賜名。慕容暐の太尉奕の後裔。父は鑒。磨奴が回を後継とした際、獻文帝に申請し鑒に寧遠将軍・滄水太守を贈られた。回は磨奴の富城子の爵を襲った。宣武帝の時、累進して安州刺史。山中の民は質朴で、父子が客と一室に雑居する風があったが、回は着任すると別々にするよう令し、風俗を改めさせた。明帝の時、瀛州刺史。大乗の乱の後、水害も重なり、上表して振恤し兵役を免じるよう求め、州内はこれに頼った。度支・都官二尚書・冀州大中正を歴任した。
  • 滎陽の鄭雲は長秋卿劉騰にへつらい紫纈四百匹を贈って安州刺史となった。除書が届いたその日の夕、回を訪ね、座も定まらぬうちに「安州で生業を興すには何がよいか」と問うと、回は「卿は国の寵霊を蒙り位は方伯に至った、たとえ葵を抜き織婦を退けるほどの清廉には及ばずとも、方略を思って百姓を済うべきなのに、どうして商売のことを尋ねるのか。封回は商賈ではない、どうしてお示しできようか」と答え、雲は恥じて色を失った。
  • 七兵尚書に転じ御史中尉を領し、尚書右僕射元欽が従兄麗の妻崔氏と姦通したことを弾劾し人々に称賛された。のち殿中尚書・右光禄大夫。荘帝の初め河陰で遇害。司空公を贈られ諡は孝宣。長子は隆之。

封隆之――義挙と歴任

  • 隆之、字は祖裔、小名は皮。寛和で度量があった。延昌中、道人法慶が冀州で大乗の乱を起こし衆五万に及んだ際、隆之は開府中兵参軍として大都督元遙とこれを討ち法慶を捕らえ武城子を賜爵。河内太守に累進したが赴任前に爾朱兆が洛陽に入り荘帝が幽閉・崩御したため、隆之は父が遇害した恨みを晴らそうと持節して東へ帰り義挙を図った。高乾らと夜襲で冀州を克ち推されて刺史となった。斉神武が晋陽から東進する際、隆之は子の子繪を高乾に随行させ滏口で出迎えさせた。
  • 中興初年、吏部尚書。韓陵の戦いに際し隆之は鄴城の留守を任された。まもなく侍中に召され安徳郡公に封ぜられた。当時、爾朱栄を明帝廟庭に配食すべきとの朝議があったが、隆之は「栄は人臣として親しく殺逆を行った、どうして人の母を殺した者をその子と共に対食させる理があろうか」と反論した。麟趾閣の新制の議に参与し、その妻祖氏に范陽郡君を追贈させた。先に賜った富城子・武城子の爵を弟の子孝琬らに譲るよう表し、朝廷はこれを嘉し許した。のち斛斯椿らに讒言され郷里に逃げ帰ったが、斉神武が晋陽に召した。
  • 魏孝静帝の即位後、吏部尚書、まもなく侍中を加えられた。元象初年、冀州刺史・開府として出て尚書右僕射に累進。北豫州刺史高仲密が叛こうとし冀州の豪望を密かに内応に誘った際、隆之が駅を馳せて慰撫し州は静穏を保った。隆之は神武の経略に第一に参与し、密かな謀は書を削って外に漏らさなかった。斉州刺史で卒し司徒を贈られる。神武は追贈が十分でないとして太保・諡宣懿を加えさせた。神武が後に冀州北境の交津に至った折、隆之を偲び冀州行事司馬子如にその徳を語って涙を流し、太牢をもって祭らせた。隆之は五帝に仕え、謹厳質朴で知られ、都合四度侍中、二度吏部尚書、一度僕射、四度冀州刺史を歴任した。冀州に臨むたびに旧老たちは「わが封公がまた来られた」と語った。子の子繪が跡を継いだ。

封子繪とその弟

  • 子繪、字は仲藻、小名は搔。温和で器量があった。秘書郎から出仕し平陽太守に累進、散騎常侍を加えられた。晋州北界の霍山にある千里径と呼ばれる旧道は険峻で大軍往来のたびに士馬を苦しめたため、子繪は旧道の東の谷に別路を開くよう請い、神武はこれを許し十日で完成させた。召されて大行台吏部郎中。
  • 神武崩御の秘匿中、文襄は子繪を勃海太守とし、その手を執って「まだ勲臣の官望には及ばぬと知りつつも鎮撫を要する、衣錦晝游は古人の貴ぶところ、よく経略せよ、常の太守のように州に参ずるには及ばぬ」と語り、部曲一千の集結を許した。
  • 大寧三年、都官尚書。高帰彦が反逆した際、子繪は軍事に参賛し、乱が平定されると州事を代行するよう勅された。儀同三司・尚書右僕射を拝命。卒去し諡は簡。子の宝蓋が跡を継いだ。
  • 子繪の弟子繡は霍州刺史。陳の将呉明徹が淮南を侵し子繍の城が陥落し揚州へ送られたが、斉滅亡後に逃げ帰り、通州刺史で終えた。子繍は容貌は儒雅だが気性は激しく人を侮らせなかった。兄の娘婿の司空婁定遠が瀛州刺史となり子繍が勃海太守だった折、定遠が訪れ子繍の妻や娘たちの前で宴を開き言葉に無礼な戯れがあった。子繍は鼓を鳴らし衆を集め定遠を攻めようとし、定遠は冠を脱いで謝罪し、長らくして許された。

封興之とその子孫

  • 隆之の弟興之、字は祖胄。経学に明るく行いを修め、恬淡清静だった。瀛冀二州刺史・平北府長史を歴任、いずれも良吏の誉れがあった。卒去し、隆之佐命の功により殿中尚書・雍州刺史を贈られ、諡は文。
  • 子の孝琬、字は士茜。七歳で孤児となり隆之に養育され慈愛は篤かった。隆之は父の富城子の爵を孝琬に授けるよう申請した。東宮洗馬で卒去、太府少卿を贈られた。
  • 孝琬は恬静な性で文詠を好んだ。太子少師邢邵・七兵尚書王昕はともに先達の高才で、孝琬とは年齢・位が隔たっていたが晩年に相逢い交誼を深めた。孝琬の柩が帰る際、二人は郊外まで見送り悲哭して路人を感動させた。
  • 孝琬の弟孝琰、字は士光。若くして修飭し学識と風儀を備えた。秘書丞・散騎常侍として陳への聘使の主使を務め、道中で中書侍郎を仮授された。帰国後、魏収の依頼を受けたことが発覚し門客が事を訴え出て南都獄に付され鞭二百を受け除名。のち並省吏部郎中・南陽王友として晋陽に赴き機密に携わった。
  • 和士開の母の喪に際し、取り入ろうとする者が皆哭礼に奔った。鄴中の富商丁鄒・厳興らが義孝として並び、一朝士も哭に加わったが、孝琰が弔問に訪れ「厳興の南、丁鄒の北に、一人の朝士がいて甚だ哀しげに号泣していた」と語り、これが伝わり士開は激怒した。のち黄門郎李瑰が南陽王綽の驕恣を上奏した際、士開は「孝琰は綽の外出に随行しその副馬に乗り、隊伍を離れ勝手に戯言を交わしていた」と讒言。孝琰の娘が范陽王妃だったため、礼事を理由に入って弁明を求めたが、帝は馬鞭百を科して放逐し、さらに高阿那肱に五十を加えさせほとんど死にかけた。鄴に帰り集書省で上下したが、以後は沈廃した。士開の死後、通直散騎常侍となり、周と和好を結んだ際は聘使の副使とされた。祖珽が輔政すると文林館に召され『御覧』の撰に加わった。
  • 孝琰の文筆はさほど高くなかったが風流を自負し戯言に長け、威儀は閑雅で人々に慕われた。祖珽の自矜自大を好んで「衣冠の宰相、余人とは異なる」とへつらったため、近習は大いに恨んだ。まもなく本官のまま尚書右丞を兼ね、その弾劾はしばしば意図に従ったものだった。当時、道人曇献は皇太后の寵愛を得て隆厚な賞賜を得、車服も度を過ぎ、沙門統になろうとしたが後主は不許可、太后の意向で任を得たものの後主は常に憾みを抱いていた。僧尼の事件の訴えの中で曇献に言及する者があり、上は有司に推劾させた。孝琰は受賄の罪を摘発し極刑に処し、家財はことごとく没官された。これにより正式に左丞に任じられ門下の事を奏することとなった。
  • 性質は簡傲で世俗に馴染まず、意識は次第に高慢になり自負を強め、動作は緩慢で誰にも屈することなく、識者に卑しまれた。崔季舒らとともに正諫のかどで死罪となった。子の君確・君静の二人は北辺に流され、末子の君厳・君贊は蚕室に付された。南安(後主の子)が敗死した際、君確ら二人はともに連座して死んだ。

封延之とその子

  • 興之の弟延之、字は祖業。若くして明弁で世務の才があった。郯城子に封ぜられ青州刺史となったが多く受納した。のち晋州事を代行。沙苑の敗戦に際し延之は州を捨てて北走したが、隆之の縁でその死を免れた。卒去し尚書左僕射・司徒公を贈られ、諡は文恭。子の纂が跡を継いだ。

封琳・封肅

  • 鑒の長子琳、字は彦宝。中書侍郎。侍中南平王馮誕らと律令の議定に参与し識者に称された。太尉長史・司宗下大夫・南夏青二州刺史・光禄大夫を歴任。琳の弟は子肅。
  • 肅、字は元邕。経史を広く学んだ。太傅崔光がその才を賞した。尚書左中兵郎中。恭倹で妄りに交遊せず、崔勵とその従兄崔鴻とだけ特に親しかった。著した文章の多くは散逸し、残るのは十余巻。

封愷とその子孫

  • 懿の従兄の子愷、字は思悌。奕の孫。父勧は慕容垂の侍中・太常卿。愷は給事黄門侍郎・散騎常侍。代都に入ると名は懿の子玄之より上に立った。二人はともに司馬氏の事件に連座して死んだ。愷の妻は盧玄の娘。愷の子伯達は母と妻の李氏を残して河表へ南奔し房氏と再婚した。獻文帝の末、伯達の子休傑が内附。祖母盧氏はなお存命でほぼ百歳、李氏はすでに没していた。休傑は冀州咸陽王府諮議参軍。

封軌――清直と学識

  • 回の一族の叔軌、字は広度。学を好み経伝に広く通じた。光禄大夫武邑の孫惠蔚と親交を結び、恵蔚は常に「封生の経義への造詣は、私が及ばぬところが多い」と推した。修飭を重んじ容儀も堂々としており、ある人が「学者は身なりに構わぬのに、この人はどうしてこうなのか」と言うと、軌は笑って「君子は衣冠を整え瞻視を尊ぶもの、蓬頭垢面でなければ賢者たり得ないというのか」と答え、言った者は恥じて退いた。兼員外散騎常侍として高麗へ使いした際、高麗王雲は僻遠を恃み病と称して詔を受けなかったが、軌は色を正し大義を説き、雲はついに北面して旨を受けた。帰国後、考功郎中に転じ本郡中正を兼ねた。勃海太守崔休が吏部郎中に召された際、兄の考課の事で軌に頼ろうとしたが、軌は「法は天下の公事、旧主だからといって曲げるわけにはいかない」と拒み、休はその公正さに感嘆した。台中では儒雅と称された。国子博士を拝命し仮通直散騎常侍として汾州の山胡を慰労した。
  • 司空清河王懌が明堂・辟雍の修築を上表し百官に議を集めさせた際、軌は次のように論じた。
  • 『周官』匠人の職に、夏后氏の世室、殷人の重屋、周人の明堂はみな五室・九階・四戸・八窗とある。鄭玄は「あるいは宗廟、あるいは王寝、あるいは明堂と挙げるのは互文でその制が同じことを示す」と言う。すなわち三代の明堂の制は一つである。周は夏・殷から損益を加えたが、明堂については変えず、五室の義が天数に適うことを明らかにした。鄭玄はまた「五室は五行を象る」と述べる。九階は九土に法り、四戸は四時に達し、八窗は八風に通じる、これは不易の大範であり国の恒式である。上円下方で天地に則り、水を巡らせ観者を隔てる構造、茅葺で白く塗り、赤・白の綴りで戸牖を飾るのも、みな典籍に載る制度の明義である。秦は五典を焚き三代を毀し先聖の制を改め旧法によらなかった。ゆえに『呂氏月令』は九室の義を見せ、『大戴礼』は十二堂の文を著す。漢は秦の法を承け改められず、東西二京ともに九室とした。ゆえに『黄図』『白虎通』蔡邕・応劭らはみな九室を九州に、十二堂を十二辰に象ると称する。だが室は天を祭るためのもの、堂は政を布くためのもの。行に依って祭るゆえ室は五を超えず、時に依って政を布くゆえ堂は四を超えない。州や辰にはこれを法るべき理由がない。九や十二の用いる根拠がどこにあろうか。今、聖朝が道を尊び人を導き、礼を備え物を化さんとするなら、五室に則り永制とすべきである。廟学の嫌い、台沼の雑については、袁準らがすでに正しく論じている。
  • のち廷尉少卿で卒し済州刺史を贈られた。
  • かつて軌は郭祚に深く認められ、祚は子の景尚に「封軌・高綽の二人はともに国を幹する才、必ず遠くまで至るだろう。私は生涯みだりに人を薦めたことはないが、常にこの二人を薦めている。国のために賢を進めるだけでなく、お前たちの橋渡しにもなろう」と語った。それほどに重んじられた。軌は方直をもって自ら業とし、高綽もまた風概で名を立てた。高肇が司徒を拝した際、綽は送迎に往来したが軌はついに訪れなかった。綽は軌を訪ねずに帰ると「私は一生自ら規矩に外れぬと思っていたが、今日の振る舞いは封生には遠く及ばない」と言った。軌は徳を務め言を慎むことこそ修身の本、奸邪讒佞こそ世の大害と考え『務徳』『慎言』『遠佞』『防奸』の四戒を著した。文が多いためここには載せない。
  • 長子偉伯、字は君良。博学で才思があった。弱冠で太学博士。朝廷の大議には偉伯が必ず参与し、太保崔光・僕射游肇に才を認められた。太尉清河王懌に参軍事として召された。懌が自ら『孝経解詁』を著した際、偉伯に難例九条を作らせ、いずれも隠れた誤りを指摘した。偉伯はさらに『礼』『伝』『詩』『易』の疑事数十条を討論し儒者に称賛された。当時、朝廷が明堂を造営しようとし儒学を広く集めてその制度を議論したが、九五の論争が久しく定まらなかった。偉伯は経・緯の書を検索し『明堂図説』六巻を上呈した。また『封氏本録』六巻を撰した。
  • 正光末年、尚書僕射蕭宝夤が関西行台となり行台郎に召された。宝夤が反逆すると偉伯は南平王固とともに密かに関中の豪族韋子粲らと結び義兵を挙げようとしたが、事が発覚し殺された。永安中、瀛州刺史を贈られ一子の出身を聴されたが子がなく、弟の翼に授けられた。翼の弟は述。

封述――律令の才と吝嗇

  • 述、字は君義。幹用があった。天平中、三公郎中。当時、旧制を増損して『麟趾新格』を定めた際、その名法の科条はみな述が刪定した。斉の受禅後、大理卿に累進。河清三年、録尚書趙彦深・僕射魏収・尚書陽休之・国子祭酒馬敬徳らと律令の議定に加わるよう勅された。度支・五兵・殿中三尚書を歴任。
  • 述は久しく法官を務め律令に明るく、議断は平允で時人に称されたが、財産を厚く蓄えて一切分け与えなかった。至親の友人が貧病に苦しんでも救済しなかったため、朝野の評判は甚だしく卑しんだ。外貌は方正だが請託を免れられず、進退の駆け引きに嗤笑を招いた。前妻は河内司馬氏。一子のために隴西の李士元の娘を娶らせようとし大金の聘礼を贈った。婚礼を挙げようとする段になっても懸念を競って持ち出し、述はにわかに供養像を取り出し士元に向かってその像に誓いを立てさせた。士元は笑って「封公はどこから急ぎの像を得たのか、誓いのためにすぐ用いるとは」と言った。一子は范陽の盧荘之の娘を娶ろうとし、述はさらに官府に訴えて「贈った騍馬は脚が跛だと嫌われ、評価された田は薄いと言われ、銅器も古く廃れていると嫌われた」と述べた。すべて吝嗇によるもので、たびたび紛糾を招いた。子の元茜は太子舎人。

封詢

  • 述の弟詢、字は景文。経史を広く学び清素を保った。尚書左丞・済南太守。歴官いずれも幹局才具があり、郡に臨んでは著しい治績を示した。隋開皇中、卒。

史論

  • 崔逞は文学と器識に恵まれ当代の俊才であったが、目先の思案が浅く配慮が遠きに及ばず、いずれも災いとなった。休は身を立てるに本があり、官にあって称えられた。長儒(甗)の才望の美しさは、驕慢によって禍を招き、周公のような才があってもなお累となった、まして周公に及ばぬ者はなおさらである。贍は詞韻温雅、風神秀発、まことに人望であった。王憲は名公の孫として老いてなお優遇された。元景(昕)の兄弟は道を歩み人倫に映えた、美しいことである。封回は家世を輝かせ、隆之は覇業に尽力し、子繪は実に堂構(家業)を隆盛させた、まことに徳を載せる者というべきである。君義(述)は財を集め吝嗇であった、なんと卑しいことか。