文帝
出自と生い立ち
- 周太祖文皇帝、姓は宇文氏、諱は泰、字は黑獺。代郡武川の人。先祖は炎帝に発し、黃帝に滅ぼされた子孫が朔野に逃れ住んだという伝承を持つ。子孫の葛烏兔は武勇に優れ鮮卑の推戴を受け十二部落を統べる大人となった。
- 裔孫の普回は狩りの折に「皇帝璽」と刻まれた玉璽三紐を得て天授と信じ、俗に天子を「宇文」と呼ぶことから国号を宇文とし氏とした。子の莫那は陰山の南から遼西に移り獻侯と呼ばれ、魏の外戚国となった。
- 莫那から九世の侯歸豆は慕容晃に滅ぼされ、その子陵は燕に仕え駙馬都尉・玄菟公となったが、慕容寶の敗北後に魏へ帰し都牧主・安定侯となった。天興の初め、魏が豪傑を代都に遷した際、陵も武川に移り住み、以後その地の人となった。
- 陵の子は系、系の子は韜、韜の子が皇考肱で、みな武略で知られた。肱は任侠の気概があり、正光末年に沃野鎮の破六韓拔陵が乱を起こすと、偽署の王衛可瑰を斬って衆を解散させたが、後に鮮于修禮の軍に加わり定州軍に敗れて戦死した。武成の初め、德皇帝と追謚された。
- 帝は德皇帝の末子。母は王氏。懐妊中に天に昇る夢を見たとの逸話があり、生まれつき黒い気に覆われていたという。成長すると長身で異相・美髭、垂れた手が膝を過ぎ、背に龍の形の黒子があり、人々に畏敬された。財を軽んじ賢士との交わりを重んじる大度の人物だった。
- 鮮于修禮の軍中にあった十八歳のとき葛榮が修禮を殺し、帝は諸兄と離反を図るが、計画前に葛榮が滅び爾朱榮に従って晋陽に移った。爾朱榮は宇文兄弟の英傑ぶりを忌み、無実の罪で第三兄洛生を誅殺したが、帝が慷慨して弁明すると榮は感じ入って許し、以後厚遇した。
- 統軍として榮に従い、のち別将として賀拔嶽に従い北海王元顥を洛陽で討伐。孝莊帝の復位に功があり寧都子に封ぜられた。嶽に従って関中に入り万俟醜奴を平定、原州の事を代行。恩信をもって関隴の乱を鎮め、百姓に慕われた。
魏普泰二年(532年)
- 爾朱天光が東で齊神武(高歡)と対峙し、弟の顯壽に長安を守らせ秦州刺史侯莫陳悅を召した。賀拔嶽は天光の敗北を予見し悅を抑えようとするが決断できず、帝の献策で悅を説得し嶽と共に長安を襲わせ顯壽を捕らえた。
- 嶽が関西大行台となると帝は左丞・嶽府司馬として万事を委ねられた。齊神武が爾朱氏を除いて専政すると帝は并州へ視察に赴くが、神武に危険視され引き止められかけるも機知で脱出した。
- 帝は嶽に高歡討伐の策(費也頭・夏州の解拔彌俄突・靈州の曹泥・河西の紇豆陵伊利らを従え隴に近づき威徳で懐柔する策)を献じ、嶽は喜んで採用。帝は魏帝に上奏して武衛将軍に任ぜられ、嶽は平涼に進軍した。嶽は夏州刺史に帝を推す議もあったが自らの左右手として手放さず、帝は夏州刺史に任ぜられた。伊利は帰順したが曹泥はなお齊神武と通じていた。
魏永熙三年(534年)
- 正月、賀拔嶽が曹泥討伐を図り、帝は先に信のない侯莫陳悅を討つべきと進言するが聞き入れられず、嶽は悅と共に泥を討ちに向かい、二月、河曲で悅に殺害された。軍は平涼に散り、趙貴のみが嶽の遺体を収めて営に戻った。
- 三軍の統率が定まらぬ中、寇洛が推されるが固辞し、趙貴の提案で帝を迎えることになり、赫連達が夏州へ急使した。帝は「時を得難く機を逸しやすい」として直ちに平涼へ赴き、途上、悅に応じようとした彌姐元進の謀を斬って阻止した。
- 齊神武は侯景を遣わし嶽の軍を招こうとしたが、帝は安定で侯景と対面し「賀拔公は死んだが宇文泰は健在」と言い放って侯景を退けた。平涼に着いた帝は嶽の死を悼み、将士は帝の到着を喜んだ。神武は侯景・張華原・王基を遣わし帝を慰労させたが帝は受けず、侯景・王基を留めようとしたが二人は逃げ帰った。斛斯椿は侯景を殺さなかったことを惜しみ、帝も後悔した。王基は神武に帝の英傑ぶりを告げ討伐を進言したが、神武は「計をもって取る」と応じ、後の沙苑の敗戦で悔いることになる。
- 魏帝は嶽の死を聞き元毗を遣わして軍を洛陽へ召還しようとするが、諸将は既に帝を推していた。侯莫陳悅も召還を拒み神武に付いたため、帝は悅討伐の軍を興す。魏帝への上奏では高歡・侯莫陳悅の挟撃を理由に猶予を求めつつ、内心では討悅の準備を進め、元毗や諸将と血盟を結んだ。かつて賀拔嶽の軍吏が「宇文家が東北より興る」という老翁の予言を聞いた逸話が、ここで的中したとされる。
- 魏帝は帝を大都督とし賀拔嶽の軍を統べさせた。帝は悅に殺害の罪を責める書を送るが、悅は万俟普撥に偽の詔書を送り援軍を求めた。普撥はこれを疑い帝に呈上、帝は上奏してこれを暴いた。魏帝は帝に安撫策を問い、帝は悅を召し内官と瓜・涼一藩を与えるよう進言。三月、帝は原州に進み諸軍を集めて討悅の意を諭す。四月、隴へ進軍し兄子の遵を原州鎮守に残す。軍紀は厳粛で百姓に慕われた。大雪の中を急行し不意を突くと、疑心暗鬼の悅の軍は自壊、悅は略陽に退き一万余を永洛に残すが、帝はこれを囲み降させた。悅は上邽への撤退を勧められるが、南秦州刺史李弼の内応もあり悅の軍は自壊、悅と子弟・部下数十騎は逃走した。帝は原州都督導に追わせ牽屯山で斬り、首を洛陽へ送った。上邽で得た悅の財物はすべて将士に分与し、私する者を厳罰とした。齊神武は関隴平定を聞き通好を求めたが帝はこれを拒み、書を魏帝に報告した。
魏永熙三年(534年・東遷と関中掌握)
- 神武の異志を知る魏帝は帝を厚く頼み東進を命じた。帝は梁禦に河・渭合口の鎮守を命じ河東攻略を図る。魏帝は帝を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大都督・略陽県公に進め、承制封拝の権を与えた。魏帝は駱超に洛陽への出兵を命じ、帝を尚書左僕射・関西大行台に進めた。帝は諸方鎮へ檄文を発し、高歓の逆謀と罪状を数え上げ、討伐の意志を表明した。
- 帝は諸軍に「寇洛・王羆に涇州・華州を固めさせ、歓が入洛すれば汾晋を襲う」策を示し衆は称賛した。七月、高平から出陣し前軍は弘農に至る。齊神武が京師に迫ると魏帝は河橋に六軍を屯し、元斌之・斛斯椿に武牢を守らせた。帝は「歓の急行軍を利用し渡河点を突くべき」と説き、趙貴を蒲阪から并州へ、李賢を洛陽へ派した。しかし元斌之と斛斯椿の内紛で防備が崩れ、魏帝は軽騎で関中に入った。帝は儀衛を整えて陽駅に迎え、免冠して涙し謝罪した。かくて魏帝を長安に奉じ朝廷を興し、軍国の政はすべて帝に決せられた。大将軍・雍州刺史・尚書令を兼ね、略陽郡公に進封された。
- 八月、馮翊長公主を娶り駙馬都尉となる。齊神武が潼関を陥れ華陰を侵すと帝は霸上に屯して迎撃、神武の将薛瑾を斬り兵七千を虜とし、丞相に進んだ。十一月、李虎らが靈州の曹泥を討ち、翌年降った。十二月、魏孝武帝が崩じ、帝は群公と共に南陽王元寶炬を立てて魏文帝とした。
魏大統元年(535年)
- 正月己酉、魏帝は帝を都督中外諸軍・録尚書事・大行台とし安定郡王に改封しようとしたが帝は王号と録尚書を固辞し、魏帝は安定郡公に改めた。東魏の司馬子如が潼関を寇すると帝は霸上に軍し、子如は蒲津から華州を寇すが刺史王羆が撃退した。三月、帝は有司に命じ二十四条の新制を定め奏行した。
魏大統二年(536年)
- 五月、秦州刺史・建忠王万俟普撥が部を率いて東魏に投じた。帝は輕騎で河北千余里まで追うが及ばず引き返した。
魏大統三年(537年)
- 正月、東魏が龍門を寇し蒲阪に屯して三道の浮橋を架け、竇泰は潼関へ、高昂は洛州を囲んだ。帝は諸将に「竇泰を急襲すれば歓は戦わず退く」と説き、反対を退けて奇襲を敢行、竇泰を小関で撃破し斬った。高昂は輜重を焼いて逃げ、神武も橋を撤して退いた。
- 六月、帝は行台の辞任を願うが魏帝は録尚書事を授けて慰留した。八月、帝は李弼・獨孤信・梁禦・趙貴・於謹・若干惠・怡峰・劉亮・王德・侯莫陳崇・李遠・達奚武ら十二将と東征し、潼関から盤豆・弘農を攻略、東魏将高叔禮・李徽伯を虜とし、陝州刺史高千も捕らえた。宜陽・邵郡も帰附した。
魏大統三年(537年・沙苑の戦い)
- 齊神武は蒲阪から自ら渡河を図り高昂を河南へ出した。関中は飢饉で帝は弘農に五十余日滞陣したが、神武の渡河を聞き引き返す。神武は渡河して華州に迫るが王羆が固守、渭南に至った帝は寡兵ながら李弼の献策で渭曲に布陣、伏兵で待ち、十月壬辰、沙苑で神武軍と対峙。癸巳、齊軍到来、伏兵が奮起して大破し六千余級を斬り二万余人を降した。神武は夜遁げ、追撃で兵七万を虜とし甲兵二万を留め残りは放免、輜重を長安に献じた。李穆は追撃を進言したが帝は聞き入れず渭南に還り、戦場に柳七千本を植え武功を旌した。
魏大統四年(538年)
- 魏帝は帝を柱国大将軍に進め食邑五千戸を増し、李弼ら十二将も進爵増邑。賀拔勝・李弼は蒲阪を囲み薛崇禮を降した。帝は蒲阪に進み汾・絳を平定。獨孤信は新安まで進むが高昂の反撃で洛陽まで押し戻される。東魏の堯雄・趙育・是雲寶が潁川に出るが宇文貴・梁遷が撃破し趙育が降った。任祥・堯雄連合も怡峰らが撃破。韋孝寬は豫州を取り、是雲寶は東揚州刺史那椿を殺して降った。
- 七月、東魏の侯景らが洛陽の獨孤信を囲み神武も続いた。帝は谷城で東魏将莫多婁貸文を斬りその衆を虜とし瀍東へ進軍。景らは夜に囲みを解いて逃げ、帝は河上まで追い河橋で決戦(芒山の戦い)。帝の馬が矢で驚き軍が乱れるが李穆が馬を授け立て直し、高昂・李猛・宋顯らを斬り一万五千を虜とした。しかし戦線が長く伸び連携が乱れ、獨孤信・李遠・趙貴・怡峰らが不利となり退却、洛陽も失陥。関中では留守兵が少なく捕虜の東魏兵が蜂起(趙青雀・於伏德の反乱)、長安子城・咸陽を占拠したが、帝が討伐に赴くと長安の父老は歓喜して迎え、宇文導が咸陽を攻めて伏德を捕らえ、青雀も破られ、関中は平定された。十二月、是雲寶が洛陽を襲い東魏将王元軌が逃走、趙剛が廣州を取り襄・廣以西の城鎮が西魏に復した。
魏大統五年(539年)
魏大統六年(540年)
- 春、東魏の侯景が三鴉から荊州を侵そうとし、帝は李弼・獨孤信を武関へ出すと景は退いた。夏、蠕蠕が夏州まで渡河、帝は沙苑に諸軍を屯して備えた。
魏大統七年(541年)
- 十一月、帝は十二条の新制を奏上し、百官の怠慢を戒める令を重ねて下した。
魏大統八年(542年)
- 十月、齊神武が汾・絳を侵し玉壁を囲んだが、帝が蒲阪に出兵すると神武は退き、追撃すると逃げ去った。十二月、魏帝が華陰で狩りをし将士を饗し、帝は諸将を率いて行在所に朝した。
魏大統九年(543年)
- 二月、東魏の北豫州刺史高慎が州を挙げて帰附し帝はこれを迎える師を出した。三月、齊神武が芒山に布陣し数日進まず、帝は瀍曲に輜重を留め夜に芒山へ登り明け方に攻撃、神武は賀拔勝に追われかろうじて逃れた。帝は右軍の若干惠と共に神武軍を大破し歩兵をことごとく虜としたが、左軍の趙貴ら五将は敗れ、神武が再戦を挑むと帝も不利となり夜に引き返した。神武は陝まで進むが達奚武らが防いで退いた。帝は敗軍の将らの責を負い上表して自貶するが魏帝は許さず、関隴の豪族を広く募って軍を増強した。十月、櫟陽で大閲兵。
魏大統十年(544年)
- 五月、帝は京師に朝した。七月、魏帝は帝の前後の二十四条・十二条の新制を中興の永式とし、尚書蘇綽に増損させ五巻に総括して天下に頒布、賢才を選んで牧・守・令に任じ、数年で百姓が便を得た。十月、白水で大閲兵。
魏大統十一年(545年)
魏大統十二年(546年)
- 春、涼州刺史宇文仲和が州に拠って反し、瓜州人張保も刺史成慶を害して呼応。帝は獨孤信を遣わし討たせた。東魏の侯景が襄州を侵すと帝は若干惠を遣わし穰まで進むと景は退いた。五月、獨孤信は涼州を平定し仲和を捕らえ、その民六千余家を長安に遷した。瓜州都督令狐延が挙兵して張保を誅し瓜州は平定。七月、帝は咸陽で諸軍を大会した。
魏大統十三年(547年)
- 正月、東魏河南大行台侯景が河南六州を挙げて帰附するが潁川で囲まれた。六月、帝は李弼を遣わし援け、東魏の韓軌らは退いた。景は豫州に移鎮し、王思政が潁川に拠り李弼は軍を引き返した。七月、侯景が密かに梁への内通を図ったのを帝は察知し配下の将士を召還すると景は叛いた。冬、帝は魏帝を奉じて咸陽へ西狩した。
魏大統十四年(548年)
- 春、魏帝は帝の長子覚を寧都郡公に封じた(かつて帝が元顥平定・孝莊帝擁立の功で寧都県子に封ぜられた縁による)。五月、魏帝は帝を太師に進め、帝は魏太子を奉じて西境を巡撫、隴に登り刻石して事績を記し、原州から北の長城を経て大狩し、東は五原、蒲州に至ったところで魏帝の不予を聞いて引き返す。魏帝の病が癒えると華州へ戻った。この歳、東魏の高嶽が潁川の王思政を囲んだ。
魏大統十五年(549年)
- 春、帝は趙貴に王思政の援軍を命じるが、高嶽が洧水を堰き止めて潁川を水没させ救援が届かず、六月に潁川は陥落した。梁の侯景の乱で建鄴が囲まれた際、竟陵郡守孫皓が帝に帰附し苻貴を鎮守させたが、建鄴陥落後に柳仲禮が寇し皓は再び梁に叛いた。帝は激怒し、十一月、楊忠に随州を攻略させ、仲禮の長史馬岫を安陸で包囲させた。
魏大統十六年(550年)
- 正月、仲禮が安陸を救援に来るが楊忠が漴頭で迎撃し大破、仲禮を捕らえ馬岫も降った。三月、魏帝は帝の第二子震を武邑公に封じた。七月、帝は東伐し、章武公導を大将軍として関中の留守を委ねる。九月丁巳、長安を出陣するが秋から冬にかけて長雨で軍馬が多く死に、弘農の北に橋を架けて渡河し蒲阪から帰還。以後、河南は洛陽から、河北は平陽から東が斉に帰した。
魏大統十七年(551年)
- 三月、魏文帝が崩じ皇太子が即位、帝は冢宰として百揆を統べた。十月、王雄を子午から上津・魏興へ、達奚武を散関から南鄭へ派遣し討伐させた。
魏廢帝元年(552年)
- 春、王雄が上津・魏興を平定し東梁州を置く。四月、達奚武が南鄭を囲み一月余、梁州刺史宜豐侯蕭修が降る。八月、東梁州の民が州城を囲み、帝は再び王雄を遣わして討たせた。
魏廢帝二年(553年)
- 正月、魏帝は帝を左丞相・大行台・都督中外諸軍事とした。二月、東梁州が平定され豪族を雍州に遷す。三月、帝は大将軍・魏安公尉遲迥に梁の武陵王蕭紀を蜀で討たせる。四月、帝は精騎三万を率い隴を越え金城河を渡り姑臧へ至ると吐谷渾は震え貢を献じた。七月、姑臧より帰還。八月、尉遲迥が成都を落とし劍南平定。十一月、尚書元烈の謀反が発覚し誅殺。
魏廢帝三年(554年)
- 正月、九命の典を始めて内外の官爵を序し、州郡県を改置(州四十六を改め一を置き、郡百六を改め、県三百三十を改めた)。魏帝に怨言があり、帝は公卿と議して廃帝を廃し、齊王廓(恭帝)を立てた。
魏恭帝元年(554年)
- 四月、帝は群臣を大いに饗した。魏史の柳虬は「廢帝は文皇帝の嗣子で七歳の時、文皇帝が安定公(帝)に託した恩を裏切り廃黜を招いた責はほかならぬ安定公にある」と朝廷で読み上げた。帝は太常盧辯に誥を作らせ公卿に自省の意を示した。乙亥、帝の子邕を輔城公、憲を安城公に封じた。
- 七月、原州へ西狩。梁元帝が旧図に基づく境界画定を求めつつ齊とも結び言辞が不遜だったため、帝は「天が見捨てる者を誰が興せようか」と評した。十月壬戌、於謹・中山公護(宇文護)・楊忠・韋孝寬らに歩騎五万で江陵を討たせる。十一月、江陵を包囲し克して梁元帝を殺害、百官士庶を虜として帰り、没して奴婢となった者十余万、免れた者二百余家であった。蕭察を梁主として江陵に立て魏の附庸とした。魏の当初三十六国・大姓九十九のうち断絶が多く、この時に功高い諸将を三十六国の後、次を九十九姓の後とし、統べる軍人もその姓に改めさせた。
魏恭帝二年(555年)
- 梁の広州刺史王琳が辺境を寇し、十月、帝は大将軍豆盧寧に討伐させた。
魏恭帝三年(556年・薨去)
- 正月丁丑、初めて《周礼》を行い六官を建て、魏帝は帝を太師・大冢宰に進めた(漢魏の官制の煩雑を革めるため大統中に蘇綽・盧辯に周制に倣った改創を命じていたが完成せず、この時ようやく成って施行された)。四月、帝は北巡し七月に北河を渡る。魏帝は帝の子直を秦郡公、招を正平公に封じた。
- 九月、帝は病に倒れ雲陽まで戻り、中山公護に遺命して嗣子を輔けさせた。十月乙亥、帝は雲陽宮で薨去、享年五十。長安に運ばれ発喪、十二月甲申、成陵に葬られ文公と諡された。孝閔帝の受禅後、文王と追尊され廟号を太祖とし、武成元年に文皇帝と追尊された。
- 帝は人を知りよく用い、諫言に流れのごとく従い、儒術を尊び政事に明達で恩信が広く行き渡り、英豪を統御しよく人心を得た。沙苑で得た捕虜を釈放して用い、河橋の役で戦士に充てるとみな死力を尽くした。諸将の出征には方略を授けて必ず勝たせた。質朴を好み虚飾を退け、常に風俗を古に復すことを志とした。
閔帝
出自と即位まで
- 孝閔皇帝、諱は覚、字は陀羅尼。文帝の第三子。母は元皇后。大統八年、同州で生まれる。七歳で略陽郡公に封ぜられた。相者史元華は「至貴の相があるが長命ではない」と評した。
- 魏恭帝三年三月、安定公世子となり、四月、大将軍を拝命。十月乙亥、文帝が崩じ、丙子、世子(覚)が太師・大冢宰の位を嗣いだ。十二月丁亥、魏帝は岐陽の地を帝に封じ周公とした。庚子、魏帝は禅譲の詔を下し「唐虞の故事に倣い周に位を禅る」と告げ、大宗伯趙貴が冊書を奉じた。魏帝は戸部中大夫濟北公元迪を遣わして皇帝の璽綬を送るが帝は固辞、公卿百官の勧進と太史の瑞祥奏上を受けてようやく即位を承け、魏帝はこの日、大司馬府で位を譲った。
元年(557年)
- 正月、天王に即位し柴燎して天に告げ、路門で百官に朝を受けた。皇考文公を文王、皇妣を文后と追尊し大赦。魏帝(元廓)を宋公に封じ、槐里で赤雀の瑞祥。百官は正朔を改め木徳を承けて夏の時を用い服色は黒とすることを奏し帝は裁可した。
- 大司徒趙郡王李弼を太師、大宗伯南陽公趙貴を太傅・大冢宰、大司馬河内公獨孤信を太保、大宗伯中山公護(宇文護)を大司馬、大将軍寧都公毓(明帝)・高陽公達奚武・武陽公豆盧寧・小司冠陽平公李遠・小司馬博陵公賀蘭禪・小宗伯魏安公尉迥らを柱国とした。壬寅、圓丘を祀り、始祖獻侯と文考(文帝)を南北郊に配し、明堂で上帝に配することを詔した。癸卯、方丘を祀り、甲辰、太社を祭り、市門税を初めて廃止。乙巳、太廟を享し、丁未、幹安殿で群臣に班賞。戊申、使者を分遣して風俗を巡察し高齢者を礼遇し鰥寡を恤ませた。辛亥、南郊を祀り、壬子、王后元氏を立て、癸亥、籍田を親耕した。
元年(557年・国政の動揺)
- 二月、東郊で朝日の礼。丁亥、柱国楚国公趙貴の謀反が発覚し誅殺、太保獨孤信は連座して罪を免ぜられた。甲午、大司空梁国公侯莫陳崇を太保、大司馬晉国公護(宇文護)を大冢宰、柱国博陵公賀蘭禪を大司馬、高陽公達奚武を大司寇、大将軍化政公宇文貴を柱国とした。三月己酉、衛国公獨孤信に死を賜う。癸亥、六府の士員を三分の一削減。夏四月、死罪以下の囚を降し、壬午、成陵に謁し、丁亥、太廟を享した。五月、帝は昆明池で漁を観ようとするが博士姜頃の諫めで中止。秋七月、右寝で訴訟を聴き哀れみで多く赦した。八月、太社を祭り死罪以下の囚を降した。九月、太守を郡守と改めた。
廃位と薨去
- 帝は剛果な性格で晉公護(宇文護)の専権を忌んだ。司会李植・軍司馬孫恒は先朝の佐命として側近にあり同じく護の権勢を疾み、宮伯乙鳳・賀拔提らと共に帝に護誅殺を勧め帝は許した。だが宮伯張先洛がこれを護に密告、護は李植を梁州刺史、孫恒を潼州刺史に出した。乙鳳らは重ねて帝に群臣を集めて護を誅すよう奏上するが、これも先洛が密告。小司馬尉綱が禁兵を統べており、護は綱を召して乙鳳らを次々捕らえて護の弟のもとへ送り誅殺、綱は禁兵を解いて帝の左右を空にした。帝は独り内殿にあり宮人に武器を持たせて自守したが、護は大司馬賀蘭祥を遣わして帝に譲位を迫り、略陽公に貶して旧邸に幽閉した。月余りで弑殺され、享年十六。李植・孫恒らも殺害された。
- 武帝が護を誅した後、詔して「略陽公は至徳純粋、天資秀傑であったが禍が肘腋に生じ蕭牆に釁が起こり、幽閉・弑逆の憂き目にあった」として太師蜀国公迥を南郊に遣わし孝閔皇帝と諡し、陵を静陵とした。
明帝
出自と即位まで
- 世宗明皇帝、諱は毓、小名は統萬突。文皇帝の長子。母は姚夫人。永熙三年、文帝が夏州に臨んだ際、統萬城で生まれ、これにより名付けられた。大統十四年、寧都郡公に封ぜられる。魏恭帝三年、大将軍に累遷し隴右を鎮守。孝閔帝の践阼で柱国に進み岐州刺史に転じ善政を布いた。孝閔帝の廃位後、晉公護は帝を岐州から迎え、九月癸亥、京師に至って旧邸に留まった。群臣は勧進を上表し法駕を備えて奉迎、帝は固辞するが群臣の固請でついに承けた。
元年(557年)
- 秋九月、天王に即位し大赦。乙丑、延寿殿で郡臣に朝を受けた。冬十月癸酉、太師趙国公李弼が薨去。己卯、大将軍昌平公尉綱を柱国とした。乙酉、圓丘を祀り、丙戌、方丘を祀り、甲午、太社を祭る。陽平公李遠に死を賜う。辛未、梁敬帝が陳に位を譲った。十一月庚子、太廟を享し、丁未、圓丘を祀る。十二月庚午、成陵に謁し、庚辰、大将軍輔城公邕(後の武帝)を柱国とした。戊子、長安の囚人を赦す。甲午、元氏の子女で趙貴の事件以来官口に没した者をすべて免じる詔を下した。
二年(558年)
- 春正月乙未、大冢宰晉公護を太師とした。辛亥、籍田を親耕。癸丑、王后独孤氏を立てる。丁巳、雍州に十二郡を置く。三月甲午、北豫州刺史司馬消難が州を挙げて帰附。雍州刺史を牧と改称、京兆郡守を尹と改称。庚申、三十六国・九十九姓を魏南徙以来河南人と称してきたが、周が関中に都した以上京兆人と改称する詔を下した。夏四月己巳、太師晉公護を雍州牧とした。辛未、死罪囚を一等降し五歳刑以下を原免。甲戌、天王后独孤氏が崩じ、甲申、敬后として葬る。五月乙未、大司空梁国公侯莫陳崇を大宗伯とした。六月癸亥、嚈噠国が朝貢。己巳、高齢者に刺史・守・令の称号を板授し鰥寡孤独を恤む。長安を分けて万年県を置き京城に併せ属させる。壬申、使者を分遣し州郡を巡って囚徒を審理し風俗を察し骸骨を掩埋させた。秋七月、順陽が三足烏を献じた。八月甲子、群臣が慶賀を上表し大赦、文武百官を昇進させた。九月辛卯、大将軍楊忠・王雄をともに柱国とした。甲辰、少師元羅を韓国公に封じ魏の後嗣とした。丁未、同州の故宅に行幸し詩を賦した。冬十月辛酉、突厥が朝貢。癸亥、太廟が完成。乙亥、功臣瑯邪貞獻公賀拔勝ら十三人を文帝廟庭に配享。壬午、大赦。
武成元年(559年)
- 春正月己酉、太師晉公護が政を帝に返す上表をしたが軍旅はなお護が統べた。帝が親政を始め、都督諸州軍事を総管と改称。三月癸巳、六軍を陳し帝は自ら甲冑を着け東方に太白を迎えた。吐谷渾が辺境を侵し庚戌、大司馬博陵公賀蘭祥に討伐させた。夏五月戊子、有司に周暦の作成を命じ、己亥、正武殿で訴訟を聴く。辛亥、大宗伯梁国公侯莫陳崇を大司徒、大司寇高陽公達奚武を大宗伯、武陽公豆盧寧を大司寇、柱国輔城公邕を大司空とした。乙卯、赦前の官司の摘発を今後不要とし、周有天下以来の公家財物侵盗の事跡は推窮すべしとの詔。賀蘭祥は洮陽・洪和二城を落とし吐谷渾は遁走。閏月、高昌が朝貢。六月戊子、大雨。公卿大夫士や地方官に封事を上らせ諫言を求め、水害地は巡検を命じた。庚子、潁川で従軍した将士や夏州従軍の遺族に恩賞を約す詔。この月、陳の武帝が没した。秋八月己亥、天王の称を皇帝に改め文王を文皇帝と追尊、大赦・改元。癸丑、御正を四人に増し上大夫とした。冬十月、齊の文宣帝が没した。
二年(560年・崩御)
- 春正月癸丑朔、紫極殿で群臣を大会し百戯を初めて用いた。三月辛酉、重陽閣が完成し群臣・公侯・卿大夫及び突厥使を芳林園に集め賜物。夏四月、帝は糖䊚を食して毒に中り、庚子、危篤に陥り詔を発した(人生の生死の必然、太祖以来の周室建国の経緯を述べ、九州未一の遺恨を語り、仁兄冢宰(宇文護)と先朝の公卿に協和して幼子でなく介弟の魯国公邕を推戴するよう託した。喪儀は倹約を旨とし瓦器を用い、素服・三日哭の儀礼を定めた)。この詔は帝自らの口授であった。
- 辛丑、帝は延寿殿で崩御、享年二十七。明皇帝と諡し廟号を世宗とした。五月辛未、昭陵に葬られた。
- 帝は寛明仁厚で九族を敦睦し人君の器量を持ち、幼くして学を好み群書を博覧し文を能くした。即位後は文学に通じた公卿以下八十余人を集め麟趾殿で経史を刊校し、衆書を捃采して伏羲・神農以来魏末に至るまでを敘した《世譜》百巻を編ませ、自ら十巻の文章を著した。
論
- 論じて曰く、水運(魏)が終わろうとするとき群凶が命を放ち、権威が主を震わせ、あるいは逆謀が天に満ちたが、大宝は力で得られ神器は求めて得られるものと思い込んだ者はみな誅滅され、天命に定めがあることを示した。周文(宇文泰)は潜龍の時より一人の助けもなく戎馬の間を馳せ行伍に身を投じたが、時と能に恵まれ義勇を集め同盟を糾合し、一挙に仇讎を滅ぼし再挙で帝室を匡した。内は帷幄に諮り外は材雄に頼り、至誠と大順で人を導いた。
- 高氏(高歓)は甲兵の衆・戎馬の強さを恃み再三畿内に迫ったが、周文の英謀神速により弘農では城濮の勲、沙苑では昆陽の捷を得て弱を以て強を制し、魏晋の旧を擯け六官の廃典を修めて一代の鴻規を成した。徳刑並用・勲賢兼叙により遠近が悦服し人望が帰し禅譲の機運が集まった。功業かくの如く、人臣として身を終えたことは盛んと言うべきである。ただ江陵(梁元帝)を陥した際の城内の殺戮、蠕蠕の種を尽く誅した事は権道から出たとはいえ徳教に悖り、これを過ちとする。
- 孝閔帝は既に安んじた業を承け天下推戴の運に乗じ、明皇帝は代邸の尊きより大宗の緒を継いだが、いずれも初めは権臣(宇文護)が命を専らにし終には政が私門から出て、共に芒刺の疑いを抱いたまま幽弑の禍を招いた。惜しむべきことである。