北齊書卷三十二 列傳第二十四 陸法和
陸法和は出自不詳の異能の隠者・沙門。侯景の乱に際し占術と軍略で梁の湘東王を助け、任約軍を破ってこれを捕らえ、蜀の武陵王蕭紀の軍も巫峡で撃退した。予言や神異の逸話に富み、のち清河王高岳の南征を機に州ごと北斉に帰属して太尉となった。
年表(1件)
- 天保六年清河王高岳の南征を機に、州ごと北斉に帰属する
出自と侯景の乱への予言
- 陸法和は出自不詳。江陵の百里洲に隠棲し、苦行の沙門と同じ暮らしをした。老人たちは幼少期から彼を見知っていたが容色は定まらず人には測り知れなかった。嵩高山から遍く各地を巡り歴てきたとも言われ、荊州汶陽郡高要県の紫石山に住んだ後、理由もなくその山を離れたが、まもなく蛮賊の文道期の乱が起こり、人々は法和がこれを予見していたとみなした。
- 侯景が梁に降ろうとした時、法和は南郡の朱元英に「檀越とともに侯景を撃とう」と告げ、元英が「侯景は国のために功を立てた者、なぜ撃つのか」と問うと、法和は「その通りだ」とだけ答えた。侯景が長江を渡ると、法和は「果実は熟すのを待たねば自ら落ちない、檀越はただ侯景が熟すのを待てばよい」と語り、なお問われると「勝つとも勝たぬとも言える」と答えた。
任約討伐と侯景の乱への関与
- 侯景の将、任約が梁の湘東王を江陵で攻めると、法和は湘東王のもとに赴き討伐を願い出て、諸蛮の弟子八百人を集め江津から二日で出発した。湘東王は胡僧祐に千余人を率いて同行させた。法和は艦上で大笑し「無量の兵馬だ」と語った。江陵には多くの神祠があり人々は常に祈祷していたが、法和の軍が出てからは霊験がなくなり、人々は皆神が法和に従っているのだと考えた。
- 赤沙湖で任約軍と対峙した法和は、軽舟に乗り介冑もつけず流れに沿って下り、約軍から一里の所でとどまり引き返し、将士に「敵の龍は眠っているようだが、我が軍の龍は勇み立っている、今攻めれば明日を待たず客主一人の犠牲もなく破れよう」と語り、火船を先頭に放ったが逆風で不利になると、白羽の采配で風を招き寄せ風向きを変えさせた。約軍は梁兵が水上を歩くように見えて大潰し、多くが水に投じて死んだ。任約は逃げて行方が知れなくなった。
- 法和は「明日午の刻に見つかる」と予言し、その刻限に見つからないと問われて「以前この洲の水が乾いていた時に一本の刹(標柱)を立てた、あれは刹の形をしているが実は賊の標だ、標の下を捜すべきだ」と答え、その通りに水中で刹を抱いて鼻だけ出していた任約を発見し捕らえた。約が師の前で死にたいと願うと、法和は「檀越には死相はない、決して兵死しない、王に縁があり後に力になるだろう」と語った。湘東王はこれに免じて約を郡守に用いた。西魏が江陵を囲んだ際、任約は救援に赴き力戦した。
- 法和はこの後、王僧辯に巴陵で「私はすでに侯景の片腕を断った、これ以上何もできまい、檀越はすぐに片をつけるがよい」と告げ、湘東王に「侯景は自然に平定される、心配は要らない、蜀の賊が来る」と告げた。法和は巫峡の守備を願い出て諸軍を統べて赴き、自ら石を運んで長江を三日間堰き止め鉄鎖で塞いだ。武陵王蕭紀が蜀兵を峡口へ渡そうとしたが進退窮まり、王琳とともに一戦でこれを撃滅した。
神異譚と晩年
- 白帝城に至った法和は「諸葛孔明は名将だった、私は自らそれを知る」と語り、その通り城の傍らから弩の鏃一斛あまりが見つかった。襄陽城北の大樹の下でも地面に印をつけて弟子に掘らせ、一尺半の亀を得て「お前は数百年出られなかったが、私に会わねば天日を見られなかったろう」と杖で叩いて戒を授けると亀は草むらに入っていった。
- 八畳山に悪疾が流行した際、法和が薬草で治療し三服で治ったため人々は弟子となることを求めた。山中の毒虫猛獣にも法和が禁戒を授けると噛みつかなくなった。江湖に泊まる時は峰のそばに標を立て「この場所で放生せよ」と示し、漁師が違反すると大風雷が起こり、船人は恐れて放して初めて風雨が収まった。
- 兵を率いていた時も諸軍の漁猟を禁じ、違反者があると深夜に猛獣が来て噛みつこうとしたり船の綱を失わせたりした。ある弟子が戯れに蛇の頭を切って持ってきた際、法和が「なぜ蛇を殺すのか」と問い指し示すと、弟子は蛇の頭が自分の袴の裾に食いついたまま落ちないのを見て、法和はこれを悔い改めさせ蛇のために功徳を施した。牛を試し斬りして一撃で首を斬った者にも「一頭の牛がお前に命を求めに来る、功徳を施さねば一月以内に報いが来る」と告げ、信じなかったがまもなく死んだ。
- 法和は人のために宅地・墓地を選び禍を避け福を求めた。「馬を碓に繋ぐな」と戒めた相手が、門の側の碓の柱に馬を繋いでしまい、法和の戒めを思い出して急いで解こうとしたが、その時にはすでに馬は死んでいた。
- 梁元帝は法和を都督郢州刺史・江乗県公に封じたが、法和は臣と称さず、啓文には朱印で自ら司徒と署名した。梁元帝が僕射王襃に「私は陸を三公にする意はなかったのになぜ自称するのか」と問うと、襃は「彼は道術で自ら任じている、先に知っているのでしょう」と答えた。梁元帝は法和の功業を重んじ、司徒・都督・刺史をそのまま加えた。
- 部曲数千人を皆「弟子」と呼び、道術で治め刑法を用いず、市には市丞や牧佐を置かず、無人の櫃を道に置いて客が貨の多寡に応じ自ら銭を投じ、夕方に開いて庫に納めた。法和は普段は口数が少ないが、いったん論ずれば雄弁無双であった。ただし蛮音の訛りが残り、攻戦の道具の製作にも巧みであった。
- 江夏で大船団を集め襄陽から武関を突くことを企てたが梁元帝が止めさせた。法和は「私は仏を求める者、梵天王の座さえ望まぬのに王位など望むはずがない。ただ空王仏のもと主上に香火の縁があり、恩に報いようとしたまで。疑われるならこれも定業、変えられまい」と語り、供物を設けて薄餅を用意した。西魏の侵攻に際し法和は郢から漢口に入り江陵に赴こうとしたが、梁元帝が「賊は自ら破れよう、郢州を鎮めよ」と使者を送り引き返させた。法和は州の城門を白く塗り粗末な白布の衣袴を着け邪巾に大縄で腰を束ね、終日葦席に坐り、梁元帝の敗滅を聞くと以前の凶服を着て哭泣し弔いを受けた。梁人が西魏に入ると果たして薄餅が見つかったという。
- 法和は百里洲に寿王寺を建てた際、仏殿を建てるにあたり梁柱を切って「四十年後に仏法が雷雹の難に遭うが、この寺は幽僻ゆえ免れよう」と語った。西魏が荊州を平定して宮室が焼けた際、総管がこの寺の仏殿の材木を取ろうとしたが短すぎて断念した。後に北周が廃仏を行った際もこの寺は陳の境に隔てられ難を免れた。
- 天保六年春、清河王岳が江に臨むと法和は州ごと斉に帰属し、文宣帝は法和を大都督十州諸軍事・太尉公・西南大都督五州諸軍事・荊州刺史・安湘郡公に、宋莅を郢州刺史に、莅の弟の簉を散騎常侍・儀同三司・湘州刺史・義興県公とした。梁将侯瑱が江夏に迫ると斉軍は城を捨てて退いたが、法和は宋莅兄弟と共に朝廷に入朝した。
- 文宣は法和の奇術に心を寄せ、三公の鹵簿を城南十二里に整えて出迎えたが、法和は鄴城を遠望すると馬を降り禹歩を踏んだ。辛術が「公は万里より帰誠されたのに、なぜこのような術を行うのか」と問うと、法和は香炉を手に路車で館まで従い、翌日引見された。通幰の油絡網車・仗身百人を賜り、宮中に参内する際も官爵を称さず、ただ「荊山居士」とだけ名乗った。
- 文宣は法和とその一党を昭陽殿で宴し、法和には銭百万・物千段・甲第一区・田一百頃・奴婢二百人・生資什物を、宋莅には千段を、他の儀同・刺史以下にもそれぞれ賜った。法和は得た奴婢を皆解放して「各々縁に従い去れ」と語り、銭帛も施して一日で使い尽くし、官から賜った宅は仏寺として自らは一房に住み常人と変わらぬ暮らしをした。
- 三年の間に再び太尉となったが世人はなお「居士」と呼んだ。病なくして弟子に死期を告げ、時が至ると香を焚き仏を礼して縄牀に坐したまま没した。浴して斂める際、屍が三尺ほどに縮んでいたため、文宣が棺を開かせて見ると空だったという。
- 法和は住んでいた壁に文字を書いて塗り込めていたが、剥落すると「十年天子為尚可、百日天子急如火、周年天子逓代坐」また「一母生三天、両天共五年」との文が現れた。これは婁太后が三人の天子を生んだこと、孝昭帝即位から武成帝・後主への伝位までが五年であったことを予言したものと解された。
- 法和には荊郢にいた頃、二十余歳の少姫がいて「越姥」と自称し法服を着て嫁がず常に法和に従っていたが、これと私通していたともいう十有余年後、棄てられて他に嫁いだとされ、有司の調べで事実とされた。越姥はその後改嫁して子を数人もうけた。