北齊書卷三十 列傳第二十二 崔昻
崔昻は字は懐遠、博陵安平の人。世宗(高澄)の腹心として法を厳正に執行し、律令の刪定・礼楽の議定にも携わった清廉剛直な官。晩年は楊愔との不和で僕射を免ぜられ、除名の末に没した。
出自と初任
- 崔昻は字は懐遠、博陵安平の人。祖父の崔挺は魏の幽州刺史。昻は七歳で孤児となり、伯父の吏部尚書崔孝芬は親しい者に「この子はいずれ遠く至るだろう、我が家の千里の駒だ」と語った。
- 性質は端直、若くして華々しさは少なく沈深で志略があり、章句を好み文詞に通じた。世宗が幕府を広げると記室参軍に招かれ腹心の任を委ねられた。世宗が朝政を輔けると開府長史に召された。当時、勲将・親族・賓客の中には都下で放縦不軌な者が多く、孫騰・司馬子如の門はとりわけ甚だしかったが、昻は世宗の密旨を受けて法で正し、まもなく内外は粛然とした。尚書左丞に遷り、その年また度支尚書を兼ねた。左丞が尚書を兼ねるのは近代に例がなく、昻がその最初となり朝野の栄誉とされた。
刪定律令と直言
- 武定六年、宮闕に甘露が降ると文武百官が顕陽殿に祝賀に集まった。魏帝が僕射崔暹・尚書楊愔らに古来の甘露の瑞について問い、昻にも尋ねると、昻は「符瑞図によれば王者の徳が天に通じれば甘露が降る。吉凶は符瑞によらず、桑と雉は戒めであった。今の瑞に驕らず、陛下が休すべきを休さず慎まれることを願う」と答え、帝は容を改め「朕は徳がないのにこれを受けてよいものか」と語った。
- 斉が受禅すると散騎常侍・兼太府卿・大司農卿に遷る。二寺の職掌は繁劇とされたが昻は巧みに管理し不正を許さず、朝廷はその公正さを称えた。また横領・濫費に関する三百十四条を奏上し詔で議定させた。
- その年、太子少師邢邵と国初の礼を議定し華陽県男に封じられた。また律令の刪定・礼楽の損益を命じられ、尚書右僕射薛琡ら四十三人と領軍府で議定にあたり、昻には「意見が一致しない者は事情を奏上せよ」との勅が下り、昻は「まさに生涯の願いに合う」と喜んで奉じた。校正・増損は十のうち七、八に及び、廷尉卿に遷った。
- 本性は清厳で賄賂を憎み仇のごとく見たため、獄事は厳しくなり、世論は必ずしも平恕とは見なかった。
- 顕祖が東山に行幸し射堂で百官が陪席した際、帝は昻を御座前に召し「旧臣の多くは州の刺史に出るが、私は台閣の中枢を卿に託したい。刺史は望むな、六十を過ぎたら本州を与えよう、その間は望んでもだめだ」と語った。のち九卿以上が東宮に陪集した際、帝は昻・尉瑾・司馬子瑞を指して太子に「これらは国家の柱石だ、記憶せよ」と語った。
- 金鳳台の宴で帝が諸臣それぞれの罪過を数え上げた際、昻については「崔昻は直臣、魏収は才士。婦兄妹夫がともに罪過を省みている」と評した。
- 天保十年、儀同を策拝した際、燕子献ら百司が陪列する中、帝は特に昻を召し「群臣で綱紀・省闥を任せられるのは卿一人だけだ」と語り、即日兼右僕射に任じた。数日後、昻が奏事のため入ると帝は尚書令楊愔に「昨日昻を正官にしなかったのは早すぎると思ったからだが、来年には正すつもりだった。早晩は関わりない、正僕射に除すべし」と述べ、翌日正式に拝された。
- 楊愔とはかねて不和で、顕祖の崩後、愔により僕射を免ぜられ儀同三司となり、のち事に坐して除名され没した。祠部尚書。
- 昻は風調・才識に優れ、堅正剛直の名で知られたが、上意を探り時主に取り入る面もあり、隠私の罪過を列挙して顕祖に深く知賞された反面、批判もされた。議曹の律令・京畿の密獄・朝廷の大事は多く昻に委ねられ、性質は厳猛で鞭撻を好み、対象がどれほど苦しんでも自若としていた。かつては崔暹・崔季舒が親しく後ろ盾となり、後には高德政が中表として支え、常に権勢を恃む様子があり、これにより名流には服されなかった。子の崔液が爵を嗣いだ。