劉豐
- 劉豊、字は豐生。普楽の人。雄姿壮気があり果毅絶人、口辯に長け兵事を説くのを好んだ。破六韓抜陵の乱で豊は守城の功により普楽太守を除された。魏の永安初年、靈州鎮城大都督を除されたが、周文が衛大将軍を授けようとすると豊はこれを受けず、周文は攻囲したが陥落させられなかった。
- 豊は遠く高祖の威徳を慕い、戸数万を率いて帰順し、高祖は豊を平西将軍南汾州刺史とした。諸将とともに征討して寇乱を平定し、また高祖に従い河陰で周文を破り、豊の功が最も多く、高祖は手を執って賞賛した。左衛将軍に入り、殷州に出た。
- 王思政が長社に拠ると、世宗(高澄)は豊に清河王岳とともにこれを攻めるよう命じ、豊は水攻めの策を建て、洧水を遏き止めて城を灌がせた。水が長じて魚鱉が游ぐほどとなり、九月から四月まで攻めて城は陥落寸前となった。豊は行台の慕容紹宗と北に白気を見て共に船に乗り込んだが、忽然と東北から暴風が起こり、真昼に暗くなり、飛砂走礫のなか船の纜が忽然と絶え、城下に漂着した。豊は泳いで土山に向かったが波に阻まれて時に至らず、西人(西魏軍)に鈎で引かれ紹宗ともども害された。豊は壮勇で戦に善く諸将に推されており、その死に朝野は驚き惜しんだ。大司馬司徒公尚書令を贈られ、諡は忠。子の曄が嗣いだ。