北齊書卷二十五 列傳第十七 王紘

王紘、字は師羅。太安狄那の小部酋帥の子(父は王基)。文武に優れ機知に富み、東魏末より世宗(髙澄)に近侍し、その急死に際して身をもって防戦した忠節で知られる。文宣帝(顕祖)の激昂の際には機知の弁で刀下から逃れた逸話が伝わり、北斉後期まで各朝に仕えた武人官僚。

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出自

  • 王紘、字は師羅。太安狄那の人。小部の酋帥。父の基は読書を好み葛榮に従い済北王・寧州刺史を授かったが、榮敗後も城を守り尒朱栄の使者に説かれて降った。栄死後、紇豆陵歩藩に虜われ河西に逃れ、後に尒朱兆に帰した。髙祖が兆を平定すると基を都督とし義寧太守。葛栄軍時代からの知己である周文帝との使者として侯景と共に赴くも、文帝に留め置かれ後に脱出。冀州長史、肆州事代行、南益州・北豫州刺史を歴任し収斂を好んだが性は和直で吏民に嫌われなかった。興和四年、奴に殺され年六十五、征東将軍・吏部尚書・定州刺史を追贈された。

機知と忠節

  • 紘は幼くして弓馬を好み騎射に優れ、文学を愛し機敏な応対で知られた。十三歳で揚州刺史郭元貞に『孝経』の「上に在りては驕らず、下と為りては乱れず」を諳んじ、「刺史である公は驕っていないか」と問うて称賛された。十五歳の時、父に従い北豫州で行台侯景の衣冠の左右の議論に「国家は北方に興り中原を歩む、五帝三王それぞれ制度が異なる、左右をどうこう論じることはない」と述べ、景に才を認められ名馬を賜った。
  • 興和中、世宗の庫直、奉朝請。世宗が急死した際、紘は刃を冒して防戦し忠節により平春県男・帛七百段等を賜り、晋陽令。天保初め寧遠将軍。顕祖との問答で「大楽もあれば大苦もある」「長夜の荒飲で身を滅ぼすのが大苦」と諫言し、帝を黙らせた。帝が「同僚の紇奚舎楽は死んだのに何故お前は死なぬのか」と詰めると「君が亡くなれば臣も死ぬのが常だが、賊の力が弱く斫られたのが軽かったため死ななかった」と答え、燕子献に縛られ長広王に頭を押さえられ帝が手刀を振り下ろす直前、「楊遵彦・崔季舒は逃げて僕射・尚書に至ったのに、冒死の忠臣が屠戮されるのはあってはならぬ」と述べ、帝は刃を投げ捨て放免した。
  • 乾明元年、昭帝輔政期に中外府功曹参軍事、皇建元年義陽県子、河清三年突厥討伐で驃騎大将軍、天統元年給事黄門侍郎・射聲校尉、散騎常侍、武平初め開府儀同三司。突厥と宇文氏の連携を警戒し要害の防備を進言する上言が伝わる。天統五年、陳の淮南侵攻への対応を議した際、封輔相の出撃論に対し紘は「官軍は敗戦続きで人心動揺している、北狄西寇の隙を突かれる恐れがある、薄賦省徭で民を養い仁義で臨むべきだ」と反対した。髙阿那肱に賛同する者が多い中、まもなく侍中を兼ね聘周使、帰還後正式に就任したがまもなく没した。著述を好み『鑒誡』二十四篇を著した。

史論

  • 史臣曰く、張纂ら(張纂・張亮・張耀・趙起・徐逺・王峻・王紘)はいずれも覇朝に仕えその功用を尽くし、みな斉の良臣であった。伯徳(張亮)が屍に伏して慟哭した忠、霊光(張耀)が関を拒み帝の駐蹕を凌いだ慎重さには古人の風がある。

  • 張纂・張亮・張耀・趙起・徐逺は日を奉じ、王紘・王峻は風に凌いで遠く振るう。樹(張亮)は死して関を拒み、終に信順を明らかにす。