北齊書卷十三 列傳第五 清河王岳

清河王岳は高歓の従父弟(いとこ)、字は洪畧。北魏末より高歓に従い要職を歴任し、韓陵の戦いなどで軍功を挙げた。江陵・郢州攻略にも功があったが、高歸彦の讒言により文宣帝に疎まれ、天保6年(555年)に憂悸のうちに薨去した(享年44)。死後に讒言が発覚して名誉が回復され、太師・太保を追贈された。子の勱は北斉滅亡後、隋に仕えた。

年表(12件)

出自

  • 清河王岳、字は洪畧、高祖の従父弟(いとこ)。父の飜、字は飛雀、魏朝から太尉を追贈され諡は孝宣公。岳は幼くして孤児となり貧しく、当初は誰にも知られなかったが、成長すると篤実で威厳ある人柄となった。
  • 岳は洛邑に家を構えており、高祖が使いで洛陽に入るたびその家に泊まった。岳の母・山氏はある夜、高祖の部屋に光が差すのを見て密かに覗いたが灯火はなく、高祖を別室に移してもまた同じ光が見えたため、その神異を怪しみ占い師に占わせたところ「乾の大有」の卦を得て、「飛龍天に在り、大人の造るところ」の吉兆と告げられた。山氏がこれを高祖に報告し、後に高祖が信都で挙兵すると、山氏は喜び「赤光の瑞が今こそ験されよう。密かにこれに従い共に大計を図れ」と岳に告げた。岳は信都に赴き高祖に大いに喜ばれた。
  • 中興初年、散騎常侍・鎮東将軍・金紫光禄大夫・領武衛将軍に除せられる。高祖が四胡と韓陵で戦った際、高祖は中軍を、高昂は左軍を、岳は右軍を率いたが、中軍が敗れ賊に乗じられたところ、岳が麾を挙げ大呼して敵陣を横断突破し、高祖は軍を立て直し表裏から奮撃して賊を大破した。その功により衛将軍・右光禄大夫に除せられ武衛を領する。
  • 太昌初年、車騎将軍・左光禄大夫に除せられ左右衛を領し、清河郡公に封ぜられ食邑二千戸。母の山氏は郡君に封ぜられ、その娘は侍中として皇后に仕えた。爾朱兆がなお并州に拠っていた頃、高祖がこれを討つにあたり岳を京師に留守させ、驃騎大将軍・儀同三司に遷る。
  • 天平二年、侍中・六州軍事都督に除せられ、まもなく開府を加えられる。岳は当時の賢才を招き属僚としたため、世論はこれを美事とした。まもなく都監典書、また侍学となり、使持節・六州大都督・冀州大中正に除せられ、京畿大都督を拝命、六州の事は悉く京畿に委ねられた。高祖が晋陽で統務する間、岳は侍中孫騰らと共に京師で輔政した。
  • 元象二年(539年)、母の喪に遭い去職。岳は至孝で、母が病めば帯を解かず看病し、喪に遭うと哀毀骨立するほどで、高祖はこれを深く憂え日々人を遣わして労った。まもなく本任に復帰、兼領軍将軍を加えられる。興和初年、世宗が朝政を総べると、岳は使持節・都督冀州刺史・侍中・驃騎開府儀同として出鎮、興和三年、青州刺史に転じる。岳は長く権勢を握っていたため朝野に畏服され、藩鎮に出ても百姓は畏れ従った。

岳――軍功と晩年

  • 武定元年、晋州刺史・西南道大都督に除せられ、辺境を安んじた功があった。時に岳が病を患い、高祖は幷州に呼び戻し治療させ、癒えると再び任地に赴かせた。高祖崩御・侯景の叛乱に際し、世宗は岳を幷州に召還し景を討つ計を図った。梁の武帝が隙に乗じ貞陽侯蕭明に衆を率いさせ寒山で泗水を堰き止め彭城を灌漑させ景と呼応させたため、岳は諸軍を総べ南討し、行台慕容紹宗らと共に明を大破、明とその大将胡貴孫を陣中で捕らえ、その他数万を捕虜または斬首した。景は渦陽に衆を擁して左衛将軍劉豊らと対峙したが、岳は軍を返してこれを追討し、また破った。景は単騎で逃げ去った。
  • 武定六年、その功により侍中・太尉を除せられ、他は元のまま、別に新昌県子に封ぜられる。また使持節河南総管大都督を拝命し、慕容紹宗・劉豊らを統率して王思政を長社に討つ。思政は城に籠って自守したため、岳らは洧水を引いて城を灌漑し、紹宗・劉豊は思政に捕らえられ、関西からの援軍が思政を助けようとしたが、岳は内外の防禦に策謀を尽くし、城が水没しなかったのは三板のみとなった。世宗が自ら数日臨むと城は陥落し思政らを捕らえた。その功により別に真定県男に封ぜられたが、世宗はこれを自らの功としたため恩賞は厚くなかった。
  • 世宗崩御、顯祖が晋陽の守備に出ると、岳は本官のまま尚書左僕射を兼ね京師に留守した。天保初年、清河郡王に進封され、まもなく使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・宗師・司州牧に除せられる。天保五年、太保を加えられる。梁の蕭繹が周軍に迫られ援軍を求めたため、冬、岳を西南道大行台とし司徒潘相楽らを統べて江陵を救援させた。
  • 天保六年正月、軍が義陽に至った時には荊州は既に陥落しており、南に略地して郢州に至り、梁の州刺史・司徒陸法和を捕らえ、郢州を陥落させた。岳はまず法和を京師に送り、儀同慕容儼に郢城を守らせた。朝廷は江陵陥落を知り岳に帰還を命じた。
  • 岳は寒山・長社の討伐や江陵出兵で常に功績を挙げ、威名はますます重んじられたが、性は華美を好み酒色を悦び、歌姫舞女や鼎を並べ鐘を撃つ豪奢な生活は諸王の及ぶところではなかった。かつて高歸彦が幼くして孤児となった際、高祖の命で岳がこれを養ったが、その年少を軽んじ情愛は薄かった。歸彦はこれを内心恨みつつ口にしなかったが、のち歸彦が領軍として寵遇されると、岳はその恩に報いようと頼ろうとした。歸彦は密かに岳の短を構え、岳が城南に邸宅を建て庁事の後ろに巷を開いたのを、顯祖に「清河は帝宮を僭擬した永巷を造った」と讒言。顯祖はこれを聞き不快に思い、次第に岳を疎んじた。
  • 折しも顯祖が鄴下の婦人薛氏を宮に召そうとしたが、岳が先にその姉を邸に招いていたため、帝は薛氏の姉を鋸で殺し、岳を姦した民女として責めた。岳は「自分は薛氏を娶ろうとしたが、その軽薄さを嫌い用いなかった、姦ではない」と弁じたが、帝の怒りは増した。天保六年十一月、高歸彦を邸に遣わし厳しく責めさせた。岳は憂え悸え、なすすべを知らぬまま数日後に薨じた。世評はこれを鴆毒によるものとし、朝野は歎き惜しんだ。時に年四十四。
  • 大鴻臚に喪事を監護させ、使持節・都督冀定滄瀛趙幽済七州諸軍・太宰・太傅・定州刺史を追贈、假黄鉞を賜り輼輬車・賵物二千段を給し、諡は昭武とした。
  • 当初、岳は高祖と天下を経綸した際、家に私兵を有し武器を蓄え甲千余領を貯えていた。世宗の末年、岳は天下無事を理由にこれを納めることを申し出たが、世宗は至親の重を篤くし「叔父は王室の肺腑にあり城を守る職にある。有する甲は本来国用に資するもの、なぜ疑って納めるのか」と心を推して任せた。文宣の代にも頻りに納入を願い出たが固く許されず、薨去にあたり遺表で謝恩し甲を武庫に納めることを請い、葬儀が終わってようやく納入が許された。皇建中、世宗廟庭に配享された。
  • のち歸彦が謀反すると、世祖はかつての讒言を知り「清河は忠烈にして皇家に尽力したのに、歸彦はこれを毀り骨肉の間を裂いた」と述べ、歸彦の家を没収し、良賤百口を岳の家に賜り、さらに岳の功を思い太師・太保を追贈した。子の勱が嗣いだ。

岳の子・勱――伝

  • 勱、字は敬徳。早くから聡明で顯祖に愛され、七歳で皇太子に侍らせられた。のち青州刺史に除せられ、拝命の日、顯祖は「叔父(岳)が以前この地を治めた際の遺恵があるゆえ、汝を遣わして民を慰めさせる。心を用いて功績を汚すな」と戒め、勱は涙を流し「幼くして抜擢を受け、力を尽くしても先の善政に恥じることを恐れる」と答えた。帝は「その言葉があれば案じることはない」と述べた。
  • まもなく武衛将軍・領軍祠部尚書・開府儀同三司に追授され、清河の地が畿内にあるため楽安王に改封、侍中・尚書右僕射に転じ、朔州行台僕射として出鎮した。後主が晋州で敗れ太后が玉門道から京師に還ると、勱に命じて兵馬を統べ太后を侍衛させた。当時佞幸の宦官はなお暴虐で、民間の鶏豚を鷹犬に放って捕らえさせていたため、勱は儀同三司苟子溢を捕らえ軍中に晒し処刑しようとしたが、太后の令によりようやく釈放した。
  • 劉文殊が密かに勱に「子溢のような輩を処刑すれば禍福に関わる、後の非難を恐れないのか」と語ると、勱は袂を払い「献武皇帝(高歓)以来、士卒を撫養し賢を用い師を行ってきたが、いまだ挫折はなかった。今西冦が并州に迫り達官の多くが叛いているのは、まさにこの輩が政を専らにし権を弄び内外の心を離したためだ。今日この者を斬って明日誅を受けても恨みはない。王(勱)は国家の姻戚として悪を共に憎むべきなのに、そのようなことを言うとは」と述べた。
  • 太后が鄴に戻ると周軍が続いて到来し、皆恟々として戦意を失い、朝士が続々と降伏した。勱は後主に「今叛くのは多く貴人であり、卒伍はまだ離反していない。五品以上の家族を三台に置き、戦わなければ台を焼くと脅せば、彼らは妻子を惜しみ必ず死戦するだろう。加えて王師はしばしば敗れ、賊は我らを侮っている。今こそ背水の陣で一戦すれば必ず破れる。これが上策だ」と上奏したが、後主はついに用いることができなかった。
  • 斉が滅び周に入ると、慣例により開府を授けられ、隋朝では楊・楚・光・洮四州刺史を歴任、開皇中に卒した。

史論

  • 史臣曰く、易に天地の盈虚は時と共に消息すると言う、まして人においてはなおさらである。通塞には期があり、汚隆には道がある。世が治を思えば仁徳を顕してこれに応じ、小人が道を長ずれば倹徳をもってこれを避ける。博陸(霍光)の図のような重責を負い藩屏の地に処しながら国を誤ることを望んでも、それは難しいことだろう。
  • 趙郡王(叡)は宗室の近親として顧命の重を担い、進んで諫言すれば宗社は危うくなり、悪を除けば人神ともに泰らかになるという状況にあって、貞心を同じくし、危うい道を歩みながら疑わず、危機を踏みながら恐れず、この忠義をもって凶悪な者に殺された。道が四海に光っても周の成王のような明君に遇わなければ、三仁が去ったように殷墟の禍を見るに至る。そうでなければ、邦国が疲弊することがどうしてこれほど急速であろうか。
  • 清河王(岳)は経綸の会に生まれ、自ら青雲に達し、出でては将、入っては相となり鴻業を助け、漢の劉賈や魏の曹洪と比べても優劣はつけがたい。天保の治世が不遇であったため悔咎を生んだが、その風烈を覆い隠すことはできず、かえって顯祖の失徳を彰らかにするものとなった。
  • 賛に曰く、趙郡王は英偉にして風範は凝正、天道は親しむところなく、この人にこの運命が下った。赫赫たる清河王は国を経営したが、末路の小疵は徳を敗るものではない。