北齊書卷十一 列傳第三 蘭陵武王孝瓘

軍功

  • 蘭陵武王長恭(一名孝瓘)、文襄帝の第四子。累進して并州刺史。突厥が晋陽に侵入すると、長恭は力を尽くしてこれを撃った。芒山の戦いでは長恭は中軍を率い、500騎で再び周軍に突入し金墉城の下に至ったが、包囲され甚だ危急となった。城上の人々は長恭と気づかず、長恭は兜を脱いでその顔を示すと、弩手が救援に駆けつけこれを大いに撃破した。武士たちは共にこれを歌謡し、「蘭陵王入陣曲」と称された。司州牧・青州・瀛州の二州の刺史を歴任し、しばしば財貨を受け取った。後に太尉となり、叚韶と共に柏谷を討ち、また定陽を攻めた。韶が病に倒れると長恭がその軍を総轄し、前後の戦功により鉅鹿・長楽・楽平・高陽等の郡公に別封された。

猜疑と死

  • 芒山の戦勝の後、後主は長恭に「陣に深く入り過ぎ、もし敗れていれば後悔しても及ばなかっただろう」と言った。長恭は「家の事は身に切実なもの、我知らずそうなったのです」と答えたが、帝はその「家事」という表現を疑い、これを機に長恭を忌むようになった。定陽にいたとき、その部下尉相願は「王はすでに朝廷の重責を受けているのに、なぜこのように貪欲で残酷になるのですか」と言った。長恭が答えないでいると、相願は「もしや芒山の大勝により、威武を疑われることを恐れて自ら汚れようとしているのではないですか」と言った。長恭は「その通りだ」と答えた。相願は「もし朝廷が王を忌んでいるなら、このような不正を犯せば処罰の対象になるだけです。福を求めてかえって禍を招くことになります」と言った。長恭は涙を流し膝を進めて安身の術を請うた。相願は「王には以前から勲功があり、今また大勝の報を得て、威声はあまりに重い。病と称して家に留まり、時事に関わらないのがよいでしょう」と言った。長恭はその言をもっともと思ったが、退くことができなかった。
  • 江淮方面で寇の騒ぎが起こると、再び将となることを恐れ「私は去年顔が腫れた、今なぜ再発しないのか」と嘆いた。これより病と称して治療せず、武平4年(573年)5月、帝は徐之範に命じて毒薬を飲ませた。長恭は妃鄭氏に「私は忠を尽くして君に仕えてきた、天に何の罪があって毒殺されるのか」と言った。妃は「なぜ天顔(帝)にお目にかかって訴えないのですか」と言ったが、長恭は「天顔にどうして会えようか」と言い、薬を飲んで薨じた。太尉を追贈された。
  • 長恭は容貌は柔和だが心は勇壮、音声も容姿も兼ね備え、将として細事にも自ら勤め、甘美な物を得ればたとえ瓜一つ、果実一つであっても必ず将士と分かち合った。初め瀛州にいたとき、行参軍の陽士深がその贓罪を上表して免官させたことがあった。定州討伐の際、陽士深は軍中にあり自分に禍が及ぶことを恐れていたが、長恭はこれを聞いて「私にはもとよりそのような意図はない」と言い、些細な失策を口実に陽士深に杖20を科してこれを安心させた。かつて朝見して退出した際、従者がみな散ってしまい、一人だけしか残らなかったが、長恭は一人で戻り、誰も咎めなかった。武成帝はその功を賞し、賈護に命じて20人の妾を買わせたが、そのうち一人だけを受け入れた。千金の借用証書を持つ者があったが、死の直前にすべて焼き捨てさせた。