北齊書卷十一 列傳第三 廣寧王孝珩

才芸と斉再興の献策

  • 広寧王孝珩、文襄帝の第二子。司州牧・尚書令・司空・司徒・録尚書・大将軍・大司馬を歴任した。孝珩は人物を愛でて評価することを好み、経史に学び文を綴ることを好み、また技芸に優れていた。かつて庁事の壁に自ら蒼鷹を描き、見る者はみな本物と思った。また朝士図を描き、これも当時の絶妙な作とされた。
  • 後主が晋州で敗れて鄴に逃げ帰ると、詔して王公を含光殿で議論させた。孝珩は「大敵はすでに深く侵入しており、事は機変によるべきです。任城王(湝)に幽州道の兵を率いさせ土門から入らせ、并州へ向かうと見せかけ、独孤永業に洛州の兵を率いさせ潼関へ向かい長安へ向かうと見せかけさせ、私は京畿の兵を率いて滏口から出て太鼓を鳴らして進軍し敵を迎え撃つべきです。敵は南北に我が兵ありと聞けば自然に潰走するでしょう」と言い、また宮人・珍宝を放出して将士に賜うことを請うたが、帝はこれを用いることができなかった。

斉滅亡後

  • 承光帝(幼主)の即位に伴い孝珩は太宰となり、呼延族・莫多婁敬顕・尉相願と共謀し、正月5日に千秋門で高阿那肱を斬る計画を立てた。相願は内で禁兵をもって呼応し、族(呼延族)と敬顕は遊豫園から兵を率いて出撃する予定だった。しかし阿那肱が別邸から近道を取って宮中に入ったため事は成らなかった。そこで西の周軍を防ぐために出撃することを求め、阿那肱・韓長鸞・陳徳信らに「朝廷が賊撃を命じないのは、まさか孝珩が反乱を起こすのを恐れているのではないか。孝珩が宇文邕(周武帝)を破って長安に至った後で反乱を起こすというなら、国家の事とどう関わるのか。今日のこの緊急事態にあってなお疑いをこのようにかけるのか」と言った。高・韓はその態度の急変を恐れ、孝珩を滄州刺史として出した。
  • 州に至り5千の兵を率いて任城王(湝)と信都で合流し、共に国の再興を図った。周の斉王憲が討伐に来ると兵が弱く敵わず、孝珩は怒って「高阿那肱ごとき小人のせいで我が道は窮まった」と言った。斉の裏切り者乞扶令和が矛で孝珩を刺し、孝珩は馬から落ちた。奴の白澤が身をもってこれを庇い、孝珩はなお数か所を負傷して捕虜となった。斉王憲が孝珩に斉滅亡の理由を尋ねると、孝珩は自ら国難を述べ、涙を流しながらもその態度には節度があった。憲は感じ入って態度を改め、自ら傷を洗い薬を塗った。厚遇を受けたが、孝珩は独り嘆いて「李穆叔が『斉は28年で滅ぶ』と言っていたが、今まさにその通りになった。神武皇帝を除いて、私の伯父・兄弟たちのうち一人として40歳に達する者がいなかった。運命である。跡継ぎの君主(後主)には独自の見識がなく、宰相も柱石の任ではなかった。ただ悔やまれるのは、兵符を握り朝廷の謀に参与して私の力を尽くせなかったことだ」と言った。
  • 長安に至ると慣例により開府県侯を授かった。後に周の武帝が雲陽で斉の君臣を宴し、自ら胡琵琶を弾じ孝珩に笛を吹くよう命じた。孝珩は「亡国の音は聴くに値しません」と辞退したが、なおも命じられたため笛を口にあてるとすぐに涙があふれ嗚咽した。武帝はこれを見て止めさせた。その年10月、病が重くなり山東に帰葬することを願い出て許されたが、ほどなく卒した。後に鄴に還葬されることとなった。