北齊書卷九 列傳第一 神武明皇后婁氏

神武明皇后婁氏(諱は昭君、?–562年)は、贈司徒内干の娘。城壁で労役に従う若き高歓(神武帝)を見初めて自ら求婚し、その私財で挙兵を助けた。倹約で嫉妬せず、東魏・北斉の勃興を内助した高歓の正妻であり、文襄・文宣・孝昭・武成の四帝の生母。

年表(2件)

出自と結婚

  • 神武明皇后婁氏、諱は昭君。贈司徒内干の娘。若くして聡明で、有力な家柄が競って求婚したがみな応じなかった。ところが城壁で労役に従事する神武帝(高歓)を見て「これこそ真に私の夫だ」と言い、婢を遣わして意を通じさせ、たびたび私財を送って自らの婚資に充てさせたため、両親もやむを得ず許した。

内助と人柄

  • 神武帝が天下を清める志を抱くと、財産を傾けて英傑を結び、密謀秘策には后が常に参与した。渤海王妃を拝命してからは、閨門の事はすべて后が取り決めた。后は高潔で決断力があり、倹約を守り、外出時の従者も10人を超えなかった。寛厚な性格で嫉妬せず、神武帝の側室にもみな恩恵を加えた。
  • 神武帝がかつて西討に出征した際、后は夜中に男女の双子を産んだが、危急のため追いかけて知らせるよう左右が請うても、后は「王は大軍を率いて出征しているのに、私のために軽々しく軍から離れさせられようか。生死は天命だ、知らせて何になろう」と聞き入れなかった。神武帝はこれを聞いて長く嘆じた。
  • 沙苑の敗戦の後、侯景がしばしば精騎二万を請い必ず(西魏を)討ち取れると言い、神武帝が喜んで后に告げると、后は「もしその言葉通りになれば、どうして帰る道理があろうか。獺(西魏)を得られず侯景を失うことにどんな利があるのか」と言い、これを止めさせた。
  • 神武帝が茹茹(柔然)に迫られてその娘を娶ろうとして決めかねていると、后は「国家の大計です、疑ってはなりません」と言った。茹茹公主が到着すると、后は正室を避けてこれに譲り、神武帝は恥じて謝し「あちらに気づかれることのないよう、慈愛を絶ってくれ」と言った。他の子らを分け隔てなく自分の子として扱い、自ら紡績に励み、人には一つずつ袍と袴を与え、自ら軍服を縫って左右の者を率いた。弟の婁昭は功名によって自ら出世したが、その他の親族のためにかつて爵位を求めたことはなく、常に「才能ある者を用いるべきで、私情で公を乱してはならない」と言った。

皇太后として

  • 文襄帝が位を継ぐと太妃に進み、文宣帝が魏の禅譲を受けようとした際、后は固く許さなかったため帝はこれを一時中止した。天保初め、皇太后に尊ばれ、宮を宣訓と称した。済南王(廃帝)の即位により太皇太后に尊ばれた。尚書令楊愔らが遺詔を受けて輔政すると、諸王を疎んじ忌んだため、太皇太后は密かに孝昭帝及び諸大将と策を定めてこれを誅殺し、廃立を命じた。孝昭帝の即位により再び皇太后となった。孝昭帝が崩じると、太后はまた詔を下して武成帝を立てた。
  • 大寧二年(562年)春、太后は病の床につき、着物が独りでに持ち上がるという出来事があり、巫女の言葉に従って姓を石氏に改めた。四月辛丑、北宮で崩じた。時に年62。五月甲申、義平陵に合葬された。

夢と徴(説話)

  • 太后は6男2女を身ごもったが、いずれも夢を感じて懐妊したという。文襄帝を身ごもったときは龍が断たれる夢、文宣帝を身ごもったときは大きな龍が首尾天地に届き口を開き目を動かして人を驚かす様の夢、孝昭帝を身ごもったときは龍が地を這う夢、武成帝を身ごもったときは龍が海で水浴びする夢、魏の二后(魏に嫁いだ二人の娘)を身ごもったときはともに月が懐に入る夢、襄城王・博陵王を身ごもったときはネズミが衣の下に入る夢を見たという。
  • 太后が崩じる前、童謡に「九龍の母死すとも孝を為さず」というものがあった。太后が崩じても武成帝は服喪の色を改めず、緋の袍を着たままだった。まもなく三台に登り酒宴を開いた際、宮女が白い袍を献じると帝は怒ってこれを台から投げ捨て、和士開が音楽を止めるよう請うと帝はさらに怒ってこれを鞭打った。帝は兄弟の中で実は九番目にあたり、これがその徴験であったという。