平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙二十年 1681年

十一月丙辰以降 哈占・蔡毓栄の復職と図海の宥免

  • 雲貴平定に功のあった総督哈占・蔡毓栄の原官を回復し、老齢病身の大将軍公図海の過失も宥免した。

癸亥 雲南省城の陥落と呉世璠の死

  • 大将軍貝子彰泰・頼塔らの長期包囲に対し、皇帝は膠着を憂えて速やかな攻略を督促する勅を発した。これを受け十月八日、彰泰らは満漢官兵を率いて城下に迫り総攻撃をかけた。二十八日夜、偽将軍線緎・呉国柱・呉世吉・黄明、旧都統何進忠、旧巡撫林天擎らが呉世璠・郭壮図を捕らえて献じようと謀り、世璠は変事を聞いて自殺、壮図と子の宗汾も自刎した。二十九日、線緎らは城を挙げて投降し、首謀の偽大学士方光琛父子・偽学士方学範は軍門で磔刑に処され、世璠の屍は戮せられ首級は京師へ送られた。
  • 皇帝はこの勝報を「籌画周到・調度得方、剿撫並用にして膚功を奏した」と称え、関係者の優叙を命じた。
  • 続けて彰泰らは、広東へ敗走した偽将軍夏国相らを西板橋で包囲し降伏させ(国相は呉三桂の婿として京師へ護送処刑)、都統希福が追撃した胡国柱は自縊、王叙・李匡は自焚して死に、偽将軍王公良らの残余も投降したと上奏した。

史論(臣謹按・雲南攻略について)

  • 編者は、諸路の大軍が雲南を包囲しながら諸将が攻城を遅延させていたところ、皇帝が民の安寧を思い勅を下して急攻を促した結果、城が陥ち呉世璠が自殺して群賊が一挙に平定されたと述べ、皇帝の民を救おうとする切なる思いと厳しい督励こそが、天下太平をもたらした所以であると結んでいる。

十二月己亥 天下大赦の詔

  • 呉三桂の反乱以来八年に及んだ戦乱の終結を受け、皇帝は大赦の詔を発した。詔では、呉三桂が国恩に背いて叛乱を起こし滇黔閩浙楚蜀關隴両粤豫章の広域を騒乱に陥れた経緯、討伐と招撫を併用して次第に鎮圧してきた経緯、三桂の死後もその孫呉世璠が雲南に拠って抗い続けたが、ついに城が陥落し首魁が誅されたことを述べ、戦禍で疲弊した軍民への憐憫と、増税に頼らず権宜の措置で軍需を賄ってきたことへの心痛を語り、平定を機に寛政を布いて民を安んじる方針を示した。

巻末・史臣総論

  • 巻末には八年間の全戦役を総括する長大な論評が付され、その要旨は次の通りである。
  • 呉三桂反乱当初、皇帝はいち早く楚南・巴蜀の要地確保を図って順承郡王勒爾錦を大将軍に任じ荊州・常徳・岳州へ急派する布石を打ったが、瓦爾喀の進軍の遅れや碩岱・珠滿らの逗留により常徳・長沙・岳州が相次いで陥落し、湖南全域が賊手に落ちて孫延齢・耿精忠の反乱も誘発した。
  • その後、皇帝は貝勒尚善に岳州、安親王岳楽に長沙、簡親王喇布に江西鎮守を命じたが、勒爾錦・尚善の遅疑と岳楽の長沙攻略の遅延、喇布の吉安失陥が重なり、事態はさらに悪化して尚之信の広東での反乱も招いた。
  • 皇帝は岳州攻略が全局の鍵と見抜き、尚書伊桑阿に戦艦を造らせ、大将軍尚善・貝勒察尼に江湖を制して賊の糧道を断たせた。これにより呉三桂は憂憤のうちに死し、岳州の賊は食尽きて敗走、湖南は次第に回復した。
  • 湖南平定後、秦地の諸将がなお進撃をためらう中、皇帝は独断でこれを退け、大将軍図海らに漢中・四川の攻略を督励し、王進宝・趙良棟の両軍を先鋒として漢中・龍安を回復させ、烏丹・鄂克済哈を後継とし、噶爾漢らに夔州方面を進めさせた。さらに彰泰に貴州から、頼塔に広西から雲南を攻めさせ、吉哈禮・趙良棟の軍も合流させて雲南省城を包囲、ついに呉世璠を斃して西南を平定した。
  • 福建では耿精忠が雲貴の混乱に乗じて閩浙を騒がせたが、大将軍康親王傑書が衢州の賊を破って仙霞関を進み、耿精忠は降伏した。のちに海賊と通じた謀反が発覚し磔刑に処された。
  • 広東の尚之信も呉三桂と通じて不軌を図ったが、拉哈達・莽依図の挟撃と頼塔の急派により鎮圧され、之信も誅に伏した。
  • 編者は、これら三逆平定はことごとく皇帝の深謀に基づくものであり、王輔臣・劉進忠・楊来嘉・譚洪・馬承廕・祖沢清ら他の叛徒の鎮定も、恩威並施・剿撫兼用という皇帝の方策によるものであったと総括する。将帥の統御、士卒への恩賞、駅站の整備、水軍の錬成、辺境防備、投降者への寛大な処遇、民への慈恵など、あらゆる施策が皇帝の周到な計略から出たものであり、皇帝の明察・果断・公正・先見の四徳が天下太平をもたらしたと称え、戦後も租税の減免・論功行賞・投降者の安置など寛政を敷いたことをもって、この八年の大業を「永清大定の勲、億万年無疆の祚」と結んでいる。