十一月戊午 蒙古貝子固嚕斯希布への叙封
- 神木県の変に迅速に対処し部衆を励まして城堡を回復させた功により、固山貝子固嚕斯希布を多羅貝勒に封じた。
辛酉 順承郡王勒爾錦らへの処分
- 議政王らは、進撃を怠り疆土回復を遅らせた順承郡王勒爾錦・貝勒察尼をはじめ、貝勒尚善、公蘭布、都統珠満・鄂鼐、護軍統領伊勒都齊、額司泰、散秩大臣多謨克図、副都統巴喀、公図納赫、署前鋒統領噶爾弼ら多数の将領について、要害の失陥・渡江の遅延・戦功の詐称などの罪状を列挙し、革職・籍没・鞭責など個別に処分を議した。
- 皇帝は、勒爾錦は郡王・議政・宗人府の職を削り拘禁、察尼は貝勒・議政等の職を革めて閒散宗室とするが拘禁・籍没は免じ、尚善は貝勒を革め、鄂鼐は岳州回復の功に免じ籍没・鞭責を免除するなど、個別に量刑を調整して裁定した。
甲子以降 四川方面の増援と貴陽の回復
- 大将軍図海に四川への増兵を命じ、護軍統領佟佳らを重慶から瀘州へ進ませた。噶爾漢には巫山・夔州の分守を命じ、紅衣砲の支援や標兵増募を手配した。
- 彰泰は鎮遠に続いて平越府・新添龍里二衛を回復し、十月二十一日には貴陽城に至って偽将軍劉国炳・呉応麟らを敗走させ貴陽府を回復、李本深も投降し、安順・石阡・都匀など貴州全域が平定された。
乙丑以降 哈占の督促と糧餉輸送
- 噶爾漢・徐治都の四川深入と雲陽包囲の戦果に対し、後詰めのはずの総督哈占の遅延を厳しく咎めた。郎中范承勲を噶爾漢軍の督餉に、四川漢中の諸将には貴州平定の機に乗じた進撃継続を命じた。
- 図海の献策(瀘州の逃散兵の招撫)を容れ、哈占・王進宝に逃兵の収容と贖罪の機会を与えさせた。
庚午~甲戌 保寧駐守と永寧方面の指揮系統整備
- 哈占を保寧に暫く駐屯させ、髙孟らに順慶・南部方面から営山・渠県への進撃を命じ、これらは相次いで回復した。
- 烏丹解任後、鄂克済哈一人では建昌・永寧の両路を兼ねられないとの上奏を受け、佛尼勒を建威将軍に任じて永寧路の指揮にあたらせた。
十二月丁亥 雲南進取と遵義攻略の分担
- 貴州平定を受け、彰泰には兵を分けず雲南進取に専念させ、固原総兵官王用予に遵義攻略と鎮守を命じた。
庚寅~壬辰 夔州防衛、譚洪討伐の継続、平定後の処理方針
- 佟佳らに夔州急襲を、得爾徳らに彞陵方面の防守を命じた。哈占には川陝総督として引き続き譚洪・彭時亨討伐にあたらせた。
- 雲南平定後の方針として、皇帝は投降者への寛典は認めるが、呉世璠・呉応麒・胡国柱・夏国相ら首魁は捕らえ次第斬首のうえ首級を京師へ送るよう命じ、彰泰・頼塔らに現地駐兵と撤兵の計画を詳議させた。
甲午以降 湖南方面の兵力調整と永寧州の回復
- 湖南が内地化したとして常徳への満兵増派を取りやめ、諾敏らの兵配分を調整した。
- 彰泰は貴陽回復後、桑額・陳珀らに雞公背・鉄索橋を攻めさせ、十一月十日にこれを回復した(賊は鉄索橋を焼いて敗走)。
壬寅 王進宝の雲南進取願いを却下
- 王進宝が万五千の兵を率いて雲南進取を願い出たが、皇帝は保寧鎮守を優先させこれを許さなかった。
甲辰 巫山・巴東方面の防守強化
- 噶爾漢の上奏を受け、得爾徳らに巫山・巴東・彞陵一帯の防守を集中させ、噶爾漢本隊は討伐に専念できるようにした。