平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十八年 1679年

五月乙巳 王之鼎の四川提督転任

  • 康熙帝は、湖広岳州水師總兵官萬正色が水戦に熟練しているとして海賊討伐に当たらせるべく福建水師提督に特任し、その代わりに福建水師提督伯王之鼎を四川提督に転じさせた。

丁未 麻勒吉の広西派遣、定南王旧兵の統轄

  • 將軍穆占は、広西省城で投誠した偽將軍劉彦明・徐洪貞・線成仁らを都統・副都統に留任させ藩下・緑旗兵を統轄させることが有益であると奏した。
  • 康熙帝は、劉彦明ら投誠緑旗兵のうち帰農を望む者は帰農させ、入伍を望む者は広西経制兵に編入させ、定南王旧兵の老弱者は裁去して旧来の3千の定員に固執させないこととし、分散した定南王旧兵の収集のため督捕理事官麻勒吉を広西へ派遣して暫定的に統轄させ、將軍莽依圖らと協議しつつ調度させ、劉彦明らの都統・副都統任命は名簿到着後に改めて議することとした。

辛亥 王屏藩らへの招撫

  • 副將徐升耀は、王屏藩・呉之茂・譚洪・張起鳳らへの招撫を自ら願い出た。康熙帝は升耀に都督僉事を加え敕書を持たせ、呉逆煽乱以来脅迫され陥賊した者への憐憫と、湖南・広西が既に回復し四川一隅も間もなく平定されるとの見通しを示し、投誠すれば前罪を赦し論功叙録すると布告する勅諭を発した。

癸丑 湖広米の広西輸送

  • 広西官兵の糧不足を受け議政王らは両広督撫による広東からの輸送を求めたが、康熙帝は広東からの輓運ではなく戸部の賢能な官2員に湖広米を買い付けさせ広西軍前へ運ばせ、湖広武岡諸処の官兵にも備蓄させた。

己未 察尼・勒爾錦の軍務分掌

  • 察尼は、荆岳彜襄諸処と進勦先が次第に離れ調遣・防守に支障が出ると奏し、康熙帝は澧州以南の軍務を貝勒察尼に、荆州・岳州・彜陵・襄陽の軍務を順承郡王勒爾錦に分掌させた。

辛酉 簡親王喇布らの兵、桂林へ

  • 將軍莽依圖は、桂林近くの兵を急派して声勢を張り、副都統額赫訥の兵が貴縣に至れば横州へ進んで柳州・南寧の道を断つとし、馬承廕・郭義らに薙髪を急がせたと奏した。康熙帝は簡親王・穆占の兵から佐領ごとに3、4人を選び副都統1員に率いさせ麻勒吉のもとで桂林を鎮守させた。

六月戊辰 桑額の雲貴進軍

  • 桑額は、新任の湖広提督が彜陵に暫駐するため彜陵官兵を標下に隷属させ、湖広提標官兵は自らの統率下に置きたいと奏した。康熙帝はこれを許し、雲南平定後は湖広提標官兵を楚中へ、彜陵鎮標官兵を湖広提標へ戻すこととし、随行官員に加銜、兵卒には正項銭糧からの賞賚を命じた。

壬申 趙天元の誅殺

  • 尚之信は、広東の変が新会・江門に起こり江門水師の叛乱が趙天元一人によるものであるとして、その処断を求めた。康熙帝は、趙天元が国恩を顧みず江門を献じて背叛し粤東の変乱を招き、帰順後も再び疆域を犯し、窮して初めて降ったその重罪を理由に、平南親王配下の者として直ちに誅殺するよう命じた。

甲戌 覺羅巴爾布の官職剥奪

  • 大將軍貝勒察尼らが巴爾布の供詞を取り報告した。議政王らは、都統覺羅巴爾布が湖広出征以来効力せず、怯懦を理由に叅贊を削られてもなお彜陵に坐して進まず、岳州回復後の賊動揺期にも探索・撃滅せず、鎮荆山の賊が逃走したことにも気づかず、夸蘭大2人のみを派遣し自ら追撃せず、辰州攻略でも遅延して辰龍関を賊に再確保させる大失態を犯し、供述を求められても巧言で取り繕ったと厳しく議し、巴爾布の都統・阿逹哈哈番佐領および加級を全て削り荆州に拘留、その父拜他喇布勒哈番の職は他の襲承すべき者に継がせることとし、康熙帝はこれを許した。

乙亥 順承郡王勒爾錦への増兵却下

  • 勒爾錦は、渡江時に馬のある兵士を選抜して連れて行き彜陵などに残した兵は補充で馬のない者が多く、兵力が単弱として前鋒・護軍の全増派を求めたが、康熙帝は咎めた。
  • 康熙帝は、順承郡王に荆襄の固守を命じたのに貝子準逹・都統根特らを荆彜守備へ派遣し、順承郡王自身は荆彜へ戻って歸州・巴東平定を命じられたにもかかわらず更なる増兵を求めるのは自身の兵力ばかり厚くしようとするもので不当とし、進軍・平定に用いる將軍噶爾漢らの兵以外の荆彜諸処の兵から酌量して調発させることとした。

戊寅 馬承廕らの投降

  • 馬承廕は5月26日に偽將軍郭義・偽總兵齊人龍及び文武官弁を率い勅印を奉じて投降し、尚之信がこれを報告した。

壬午 噶爾漢への譴責

  • 將軍噶爾漢は、賊境に迫ったが山が険しく道が狭く谿谷が多く草木が茂り、六月の霪雨で山水が出れば兵が分断されかねず輓運も困難なため一旦撤兵し、木が枯れ水が涸れる頃に山賊を滅ぼし興安を取りたいと奏した。
  • 康熙帝は、噶爾漢が将軍就任以来功績なく襄均諸処に留まっていたが、逆賊震動の今こそ提督らと山賊掃討や興安攻略に当たるべきなのに、草木の繁茂を理由に兵を退いたことを咎め、草木の茂る前に効力していたかを問い、退兵は不当として厳しく処分すべきだが目下は進勦中のため事平定後に議すこととし、陝西大将軍圖海が四川逆賊の寶鷄進出により興安が手薄になっていると報告していることを踏まえ、噶爾漢に速やかに賊を破り興安を回復するよう命じた。

甲申 桂林派兵の撤回、安親王との合力

  • 先に馬承廕・郭義らが未投誠だったため簡親王・穆占らの兵から佐領ごとに3、4人を桂林へ派遣する命があったが、喇布はこれにより永州鎮守と進勦の兵力が単弱になると奏した。康熙帝は、馬承廕・郭義らが既に投誠した以上、平南親王・莽依圖らの兵で桂林に達せられるとして簡親王らの分兵を取りやめ、安親王と協議して討賊に当たらせた。

戊子 図海らへの漢中・興安攻略・四川平定督促

  • 先に提督趙良棟は、湖南平定を受け漢中・興安の回復を自ら一路として担いたいと奏し、康熙帝は圖海らに確議させた。圖海らは、棧道・驛門鎮各口で逆賊が険を頼りに営を構えているため趙良棟に臨武寨進出を、自らは驛門鎮の賊塁攻略後に進取の機を見て分道することを奏した。
  • 康熙帝は、湖南の逆賊が大敗し困窮して逃走した今、安親王・簡親王が三路から武岡・新寧方面を平定し、察尼が辰州を、順承郡王・噶爾漢が鄖陽・彜陵から蜀賊を平定し、馬承廕・郭義らも投降、広西も平定されて莽依圖らも進勦している今こそ剿撫並用の好機であるとし、圖海に諸将と協議し寶鷄侵犯の賊を殲滅、漢興を回復して四川を平定するよう命じた。

史論(臣謹按)

  • 蜀は山峻谷深く道が阻険で、不逞の徒が窟穴として拠りやすく平定しがたい地であった。このとき湖南の逆賊が潰走し諸路が進軍する中、皇帝は蜀の賊も震え慴くと見込み、機に応じて速進しなければ賊が一隅に屯聚して要害を固め平定が長引くと考え、圖海らに迅速な進軍と蜀疆回復を命じた。圖海らが賊の橋の破壊による道の閉塞を理由に、將軍張勇・提督孫思克らと共に進軍の一時停止を求めても、皇帝はこれを許さず厳しく督促し続けたため、諸将はついに部隊を整え分路で並進し、要害を奪い賊魁を殲滅して蜀境は全て平定され雲貴へ直進した。これは皇帝が賊情を洞察し万全を期しつつ必勝を期した深謀によるものである。

己丑 福建の内府佐領官兵撤収

  • 大將軍康親王傑書らは、閩中の浜海要地・墩台営塞は緑旗官兵が守り満洲大兵は形勢の要地に駐屯し声援するのみで満兵の数が多すぎるとし、酌量した撤兵を求めた。康熙帝はこれを許したが、海氛が未だ収まらぬためまず内府佐領官兵1千を先に撤回させ、到着後に更代の兵の派遣を改めて議することとした。

庚寅 安親王岳樂らの分路進兵

  • 侍郎宜昌阿らが湖広に至り撤兵を協議させた際、貝勒察尼は常徳・桃源方面へ進む護軍が佐領ごとに5人余、驍騎兵が7人余、漢軍1200余人、緑旗兵2万7千余人あり進軍に十分であるとし、常徳の外藩蒙古兵400余人・澧州の同2300余人を撤還し、松滋・宜都には驍騎兵500人・漢軍100人・緑旗兵400余人を残し外藩蒙古兵500人も撤還、岳州駐留の満兵・漢軍は荆州兵に合流させ荆州の兵力を佐領ごとに5人に統一、岳州守備の外藩蒙古兵2600人も撤還する案を報告した。
  • 簡親王喇布は、烏拉・寧古塔の兵は撤還すべきだが新寧方面になお賊がいるため一時留め、自軍と合わせ佐領ごとに11人のうち8人を率いて安親王と共に新寧の賊を討ち、破賊後に烏拉・寧古塔兵を撤還すること、永州には満兵佐領ごとに3人・緑旗兵2千を、全州には總兵官蔡元の緑旗官兵3500を鎮守させ、両支の外藩蒙古兵1700余人は撤還する案を報告した。安親王岳樂は、自軍の護軍驍騎が佐領ごとに15人・蒙古兵100余人おり、簡親王が新寧を攻略する間は自ら佐領ごとに11人・緑旗兵1万で武岡・東口の賊を討ち、衡州には満兵佐領ごとに1人・緑旗兵1200・張忠標兵2千を、宝慶には満兵佐領ごとに1人・緑旗兵1千を残し、岳州守備には満兵佐領ごとに2人を増派し外藩蒙古兵は撤還する案を、簡親王の進軍如何にかかわらず緑旗官兵1万2千余と得勝砲などの追加派遣を求める案を報告した。
  • 康熙帝は、安親王軍は両路から武岡・東口を、簡親王らは安親王と期を合わせ新寧を取り、破賊後に烏拉・寧古塔兵を撤還させ、察尼らの辰州攻略と衡・永・荆・岳諸地の留守はすべて奏上どおりとし、撤還する満洲蒙古兵は大臣官員に沿道で厳しく統率させた。

武昌への馬の送付

  • 康熙帝は兵部に、飼養中の馬と営駅の馬から2千匹を選び前例どおり武昌へ送り、良く飼養させて備えるよう命じた。