平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十七年 1678年

九月己亥朔 帥顔保の吉安派遣

  • 康熙帝は兵部に、江西の危険を憂い先に總漕帥顔保を派遣していたが、南昌が既に内地となったため帥顔保を吉安鎮守へ回すよう命じた。

辛丑 呉三桂の死去と永興包囲解除

  • 簡親王喇布・侍郎郭丕は、8月24日の偵察により、呉三桂が中風・噎膈の病を発し犬が寝台に上がって座るという不吉な兆候の中、口も開けられず下痢して死去したこと、賊党がこれを隠して郡城の門を閉ざし偽將軍胡國柱・馬寶らを密かに永興方面から呼び戻して雲南から三桂の孫を迎えさせ、4日後に國柱らが永興から衡州に至って城門をようやく開いたことを報告した。將軍穆占も、護軍統領拉賽・前鋒統領薩克察巴圖魯の報として、8月2日から20日にかけ賊が繰り返し永興を攻めたが満漢官兵が奮戦し、砲で崩れた城壁を筐や嚢に土を盛って昼夜補修し堅守した末、21日夜に賊が営を焼いて逃走したことを報告した。

諸路大兵への追撃命令

  • 康熙帝は議政王らに、呉三桂の死によって賊党に内変が生じるはずであるとし、諸路將軍に機に乗じて大兵を分進させ疆域を回復させるよう命じ、永興の賊が退いた今、簡親王には茶陵から安仁を経て衡州へ迫らせ、疲弊した永興の官兵は茶陵で休ませ、陝西から来た副都統夸岱の兵は岳州軍前に留め、大將軍貝勒察尼らには水陸挟撃で岳州を急ぎ攻略させた。

史論(臣謹按)

  • 軍事の要諦は機を捉えて乗ずることにあり、それでこそ攻略は成功する。呉三桂は悪事を積み重ね天誅を受けたが、皇帝は賊党の内変を見越して進軍を促した。もし機を逃し賊に固守の計を巡らす猶予を与えれば平定は遅れたであろう。諸将が明詔に従い岳州を急いで攻め、糧が尽きた賊が城を捨てて逃げると諸賊も潰散し疆土は次第に平定された。これは皇帝が情勢を見極め機を捉えて勝ちを決した証である。

壬寅 従逆者への招撫詔

  • 康熙帝は諸路の王・貝勒・大將軍・將軍・督撫提鎮に、呉三桂の死は数年にわたる叛乱・生霊荼毒の罪による天誅であり、かつて遷移を許し保全を約したにもかかわらず三桂が反逆したことを述べたうえで、元凶が誅された今、脅従の賊中の文武官員・兵民は寛典を施すべきとし、忠義の心ある者や脅迫・畏罪でやむなく賊に投じた者が悔悟して帰順すれば恩賞・論功行賞を与えると布告し、招徠に努めさせた。

癸卯 華善・多諾の黜職

  • 康熙帝は議政王らに、將軍華善・署副都統多諾が6月に永興へ調遣されて以来今なお至らず職責に背いているとし議を命じ、議政王らは両者の革職・披甲のうえ簡親王軍前で効力させるべきと議した。
  • 康熙帝は、これまで調遣に対しこれほど遅延観望した例はなく、事が終わってから至っても功を成さないとし、本来は議のとおり処分すべきだが討賊の折であるため革職・披甲は免じ、夸蘭大として穆占の軍前で効力させることとした。

己酉 岳州攻略、諸将の献策と康熙帝の裁断

  • 先に親征の議に際し、議政王らは大將軍安親王岳樂・順承郡王勒爾錦・貝勒察尼にそれぞれ進軍方策を上奏させた。勒爾錦は守兵の余力を行軍に併せ槍手を増やし五路から渡江して大挙すれば賊を滅ぼせると奏し、岳樂は自ら岳州へ赴き舟師を配置しなおし諸路の大砲で陸営を急攻すれば克復できると奏し、察尼は、舟師が湖に入って3か月余、賊は敢えて公然と戦わないが糧餉も尽きつつあり、將軍林興珠の献策(水位低下後に木栰・木柵・火砲で囲み小船で巡警する)が有効だが実施は2、3か月先になるため、その間に水位が高いうちから南靖港に一営を立て、水位低下を待って君山・高家廟に舟師を配置し糧道を断つべきと奏した。別の議では、九貴山の包囲がまだ十分でなく水位が低下すれば君山・高家廟なども陸路が通じてしまうため大隊での増営が必要とも指摘された。
  • 康熙帝は三疏を閲したうえで、呉三桂が死に諸逆が潰乱する今こそ岳州を急いで取るべきであり、將軍侯林興珠の献策どおり水位低下後には我が船も賊船も動けなくなるが我が方は兵船に余裕があるため、南靖港・君山・高家廟に営を立て糧道を断つよう命じ、そのため副都統闗保の兵は江西へ向かわせず岳州へ回し貝勒察尼の指揮下に置き、舟師をどうしても湖中に長く駐留させがたければ速やかに報告させ、安親王・順承郡王の献策は不要とした。

辛亥 茶陵での造船

  • 大將軍簡親王喇布は、茶陵・攸縣が水陸で衡州方面に通じるため戦船・小沙船百艘の建造を求め、議政王らも紳士・百姓に助力を募って速やかに造営するよう議した。
  • 康熙帝は、刑部侍郎禪塔海に江南の正項銭糧を用いて火薬・砲や必要な器物を備えさせ茶陵へ赴いて造船を督理させ、以前に造船に携わった前尚書伊桑阿配下の官員も同行させた。

丁巳 泉州の包囲解除

  • 康親王傑書は、署副都統禪布らを両路から進勦させ賊を破って恵安を回復し泉州の包囲を解いたと奏した。同日、福建巡撫呉興祚も白鴿嶺で賊を破り永春・徳化などの県を回復、賊魁劉國軒らが逃走したと奏し、続けて官兵を派遣して赤澳などで海賊を破り賊船60余を焼沈、6千余級を斬ったと報告した。

辛酉 永興守備の再配置

  • 先に穆占は、華善らが郴州へ至り永興の賊が退いたため自らは永興へ赴かず副都統保住・總兵官趙應奎・署副都統雅秦らに華善配下の兵を率いさせて守らせ、自らの前鋒護軍甲兵・漢軍緑旗兵は郴州へ戻して休養させたと奏した。のち簡親王喇布は、上三旗内府佐領兵300人が永興へ発せられなかったため華善らに問うと郴州に至った兵が皆軍前効力を望んだため穆占が留めたことがわかり、しかも自分の派遣兵を穆占が留めたことを喇布に告げず穆占も報告しなかったこと、こうした調度の齟齬が軍事を誤らせる恐れがあるため今後の調遣権を明確にするよう求めた。
  • 康熙帝は、簡親王が招撫の最中に穆占が属兵を悉く撤収させ茶陵・攸縣・安仁方面の残存兵が佐領ごとに7人に満たず、安親王配下の佐領ごとの兵2人も長沙へ戻されたため簡親王の兵力が薄弱になっていること、簡親王の発した兵を穆占が無断で留めたのは不当であるとし、内府佐領兵300人は永興へ戻させ、穆占・簡親王が協議して永興を協同鎮守させることとした。のち喇布は、華善・多諾が既に降黜されたため永興の統帥が空位となり、内大臣阿密達を揚威將軍に任じ夸蘭大碩塔・阿進泰を副えて派遣したと奏し、康熙帝は簡親王が安仁へ赴き參贊が必要な今、阿密達を簡親王に同行させ、穆占にも郴州守備の大臣を選ぶか自ら鎮守するか裁量させた。

乙丑 徳業立らの処分

  • 賊が船で岳州から湘陰へ糧米・火薬を取りに向かった際、副都統徳業立・提督周卜世らは扁山に駐留しながら擒獲せず、賊船が扁山を経て岳州へ入る際にも邀撃せず入城を許してしまい、將軍鄂鼐らがこれを報告した。
  • 康熙帝は、これほどの銭糧を投じ船艦を造り官兵を集めて岳州を囲んだにもかかわらず、賊船の出入りを阻止できなかったことを大將軍貝勒察尼に厳しく調べさせ、察尼は徳業立・周卜世らが船130艘を率いながら賊のわずか20余艘すら1艘も捕らえられず畏縮して賊の入城を許したと奏し、議政王らは両名の革職・充伍・軍前効力を議した。
  • 康熙帝は、討賊の最中であるため革職留任・効力贖罪とし、舟師を統べる鄂鼐が庸懦な者に用いさせて大事を誤らせた責任は事平定後に重く議処するとした。

丙寅 尚之信の海禁開放要請却下

  • 尚之信は、海賊討伐に船が必要だが公帑が乏しく建造が難しいとし、暫定的に海禁を解いて商民に広州から瓊州への造船・採捕を許せば商船を借りて海賊を討ち、広海・海陵・龍門一帯から進んで賊の巣窟を衝けると求めた。
  • 康熙帝は、かつて尚之信自身が粤東平定後も鄭逆が厦門に拠り乱の萌芽を絶つべきとして海禁を厳格化させた経緯を挙げ、今開けば奸徒が賊と通じ辺海を侵す恐れがあるとして却下し、代わりに地方官に造船への献金を奨励させ討伐に充てさせた。

丁卯 尚之信、奮武大将軍に任命

  • 先に將軍莽依圖は、広西平定に厚い兵力が必要だが緑旗兵は名ばかりで実がないとし、練兵の整った平南親王尚之信を梧州へ招き官兵を統轄させ平粤の責を委ねれば大事に資すると奏し、康熙帝は尚之信に將軍額楚・總督金光祖・巡撫金儁らと協議して定めるよう命じていた。
  • 尚之信は、逆賊が永興に偏注していた頃は都統王國棟の力不足を懸念し9月初旬に自ら策応するつもりだったが、呉三桂の死により永興の包囲も解け湖南は瓦解寸前で容易に取れるため、自らは広西平定に当たりたいと奏した。
  • 康熙帝は、賊が動揺する今こそ大兵を進め剿撫を並用して疆域を安定させるべきとし、尚之信を奮武大將軍に任じ永興・郴州方面へ兵を進め大將軍簡親王・將軍穆占らと合力させる一方、將軍莽依圖・額楚・傅宏烈・總督金光祖らには本汛に留まり機を見て広西平定に当たらせ、尚之信には満洲大将軍と同例の勅印を内閣官員に持たせて授けた。