平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十七年 1678年

六月庚午朔 康親王傑書への譴責

  • 康熙帝は議政王らに、傑書が浙江の安穏な地に長く留まり、たびたびの厳旨でようやく衢州の賊を破って福建を平定させたが、平定後は防備を怠り海賊の上陸を許して海澄を窮地に陥れたとし、軍法は本来賞罰厳明であるべきなのに浙江・福建で機を失した将士について傑書が取調べもせず優柔不断に賞罰を明らかにしなかったのは不当であるとして議政王らに議定を命じた。
  • 議政王らは、傑書の怠慢は甚だしく參贊大臣とともに厳処分すべきだが、出征中のため師が戻ってから議し、まず海澄救援に全力を尽くさせるべきと奏し、康熙帝はこれを許した。

尚之信の潮州出兵、海澄救援

  • 康熙帝は議政王らに、福建の兵は沿海から潮州まで分散して手薄であり海澄救援が急務であるとし、高州の賊を破った尚之信に会城へ戻らせず速やかに潮州へ入り鎮守させ、潮州の満兵と靖南王配下の官兵は將軍頼塔・拉哈達のもとで海澄救援に当たらせ、尚之信自身が行けない場合は代わりの官兵を潮州へ送り總兵官馬三竒と共に守らせるよう命じた。

癸酉 浙江被災地の租税免除

  • 康熙帝は戸部に、浙江江山など15県と西安など4県、温州・衢州の各衛所が閩省に近く最初に陥落し百姓が困窮しているとして、康熙16年以前の銭糧を免除し、督撫に山谷へ逃れた民を招き帰らせ耕墾に当たらせるよう命じた。

己卯 広西平定方針の協議命令

  • 先に將軍巡撫傅宏烈は南寧を経て田州・泗城へ進むことを求めたが、將軍莽依圖は南寧単独進撃に反対し、將軍額楚が平樂・桂林を、宏烈が南寧を同時攻略すべきと主張した。
  • 康熙帝は、田州・泗城の進撃を他路と同時に待てば遅延するが孤軍で進めば成功しがたいとし、莽依圖・額楚・傅宏烈と參贊諸臣、總督金光祖らに潯州克復後は梧州で協議し、進路と攻略順序を一致協力して定めるよう命じた。

甲申 宜章防備と陳武亨の忠誠

  • 將軍穆占は、偽將軍胡國柱が郴宜の參將陳武亨に書を送ったが、武亨は開封せず賊の使者を拘束し自首させ、桂東・桂陽の降将于賢・何興所らにも賊から書が送られていることを報告した。
  • 康熙帝は、穆占の守備範囲が広大な中で永興が侵犯され、于賢らも賊に煽動されれば疆域が危ういとし、要地の宜章に平南親王尚之信配下の韶州緑旗官兵を急派して固守させ、忠誠を示した陳武亨を議叙するよう命じた。

丁亥 簡親王喇布と穆占の不和、和睦命令

  • 先に喇布は茶陵・攸縣・安仁が江西の咽喉で賊に近いと奏し、穆占は援兵の増発と、賊が分路で犯せば大兵の道が阻まれ江省も危うくなり、永興の防衛から兵を撤退させるべきでないと具申した。
  • 穆占はさらに、永興への援兵撤退の事実はなく、そのような報告をした署副都統雅秦の言は妄奏であり、簡親王がなぜ詳察せず疏を上げたのか疑問を呈し、自身は郴州を離れがたいが良将を得て郴州を守らせれば永興・耒陽の討伐に成功できると奏した。
  • 康熙帝は、郴州が要地で穆占が離れがたいことを認め駐守を許し、雅秦の妄報について簡親王に明白な回奏を求め、兵部にも將軍穆占と大將軍簡親王が互いに嫌隙を懐かず協力するよう伝諭させた。

康親王への海澄急援命令

  • 海澄總兵官黄藍は、5月5日夜半に海賊が四方から海澄を攻め木柵・砲台が陥り、高所からの火攻めも受けているとし援軍を求めた。
  • 康熙帝は、黄藍の孤城死守を称え、康親王に將軍頼塔・拉哈達らを急派させ、副都統伯穆赫林・總兵官黄藍らに隙あれば城を出て漳州の大軍と合流するよう密書を送らせた。

穆占の戦守方策と将軍任命

  • 穆占は、郴州など9州県が広大で援兵を送れないため將軍舒恕に郴州への分兵を檄させ、永興を犯す賊に対し提督趙頼に攸縣を守らせ、和碩額駙華善の印を持たせ安仁から耒陽賊の後路を断ち浮橋を毁させるか永興で副都統雅秦・雅哈喇・額思赫らと協同固守させ、自らは郴州へ戻って兵を整え耒陽を攻める方策を奏した。
  • 康熙帝はこれを許すとともに、荆州以来の穆占の調度をすべて認め、都統伊里布の戦没の経緯を明白に密奏するよう命じた。

尚善、洞庭湖で舟師の勝利

  • 大將軍貝勒尚善は、滿漢官兵の戦艦を將軍鄂鼐らに率いさせて湖に入らせ、初三日に柳林嘴・君山方面へ迫った賊を撃破し千余を捕斬、賊船も沈めたと報告した。

己丑 安親王岳樂の援軍派遣、簡親王への譴責

  • 喇布は、賊が永興を犯し茶陵・攸縣方面の防兵が既に援兵に回って手薄であるとして増援を求めた。
  • 康熙帝は議政王らに、喇布が江西着任以来賊を討滅できず失機の将士も厳責せず、茶陵・攸縣の回復地も防守できずしばしば兵力不足を理由に増兵を求めるのは実情を誇張した無能ゆえだとして、事平定後の厳議を予告し、長沙駐守の安親王軍から佐領ごとに1、2人を簡親王軍前へ、吉安署副都統尼滿の兵も簡親王の調用に任せるよう命じた。
  • あわせて兵部に、長沙・茶陵・郴州の地勢や賊情に精通した者を安親王・穆占・簡親王よりそれぞれ1人選び馳駆させ、安親王には護衛雅圖も同行させるよう命じた。

壬辰 永興の危急と用兵方針

  • 賊は大隊で永興を侵し河外営を犯し、前鋒統領碩岱・護軍統領哈克三らが防戦して敗れ哈克三が戦没、河外営も奪われ永興が包囲された。簡親王は安親王に急を告げ、安親王は夸蘭大塔爾拜畢里克に醴陵守兵から佐領ごとに1人半を率いて援に向かわせ、喇布がこれを奏聞した。
  • 康熙帝は、各所への分散配兵が敗因であるとし、穆占・簡親王に守れる地に兵を集約させ要害に配置しなおして力を合わせ永興の賊を撃滅させるよう命じ、賊が優勢なら諸路を集結させ声勢を張り、駐留に固執して遅滞し大事を誤らぬよう命じた。

甲午 江西への援兵派遣

  • 康熙帝は議政王らに、賊が永興方面へ力を集中し江西も危ういとし、福建へ向かっていた署副都統岳爾多を江西吉安へ転じさせ、陝西の將軍阿密達に大將軍公圖海のもとから満洲蒙古漢軍を佐領ごとに4人選ばせ南昌へ、總督帥顔保にもその標兵を南昌へ派遣させ、漕運は總河靳輔に代行させることとした。

郴州・永興への援軍と糧運搬

  • 喇布は、前鋒統領薩克察巴圖魯が13日に安仁から永興へ向かったが賊は渡河して旧営に戻り、疑いから偏師で声勢を張りつつ大隊を郴州へ潜行させる恐れもあるとし、また運搬した米百石も道の閉塞で撤還したと奏した。
  • 康熙帝は、薩克察巴圖魯・護軍統領拉賽らに守兵を留めつつ間道から急援させ、簡親王には糧米を続けて永興へ運ばせるよう命じた。

乙未 郴州・永興の敗戦と穆占への督励

  • 穆占は、前鋒統領碩岱・副都統託岱・宜思孝らの営塁が河南岸で賊に衝かれ陥落して郴州へ退き、拉賽の口供を待って碩岱らを拘禁すべきだが自身も郴州で兵力が薄く、賊の主力が郴永に集中しているため藍山・嘉禾・桂陽・永寧への急派を求めたと奏した。
  • 康熙帝は、穆占に手薄な地の防兵を撤収して郴州の賊撃破に集中させ、安親王・簡親王にも急援させ、韶州總兵官尚之瑛の副將に樂昌緑旗兵2千を、和碩額駙華善に将軍印を与え永興統鎮に馳せさせ、失利した署副都統多諾・碩岱らは即刻逮捕処分すべきだが穆占の分兵過多も一因であるとして原任にとどめ功で罪を贖わせ、穆占には冒昧な妄動を戒めつつ奮起を促した。

海澄被囲官兵の救出命令

  • 康熙帝は兵部に、海澄官兵の重要性から康親王・將軍頼塔・拉哈達に内外挟撃を急がせたが、報によれば四路攻撃も賊の火器に阻まれ退いたという。
  • 康熙帝は、海澄援軍の後退を深く憂い、満漢官兵・閒散人・厮役を問わず潮溝を突破し海澄の囲まれた官兵を救出した者は上等府城克復に准じ厚く議叙し、これまでの敗退・退縮の罪も不問にすると通諭し、康親王・將軍頼塔・拉哈達・總督姚啟聖・提督石調聲らに全軍へ布告させた。

丙申 永興・茶陵・岳州の戦況図上奏命令

  • 康熙帝は兵部に、將軍穆占・大將軍簡親王が回復した永興・茶陵など9州県の我が営と賊塁の位置を詳細な絵図にして奏上させ、岳州の水陸駐兵・賊営の様子も詹事宜昌阿に絵図で上奏させた。

丁酉 出征将士への慰労詔

  • 康熙帝は兵部に、即位以来天下太平を志したが呉三桂の叛乱で数年にわたり出征将士が労苦し、器械の朽損や馬の斃死を各自の借金で賄っている者も多いことを憐憫し、事平定後は借財を該部が代わって返済し、諸処の兵は本汛へ帰還させ、戦傷者の撫恤も速やかに行うよう命じた。

史論(臣謹按)

  • 兵書には士衆を察し士気を鼓舞してこそ敵を撃てるとある。当時、三楚・秦・粤の諸将が逡巡し出征官兵が艱苦にあえぐ中、満兵は朝廷の養育の恩に感じて各自借財してまで馬匹器械を整えていた。皇帝はこれを洞察し慰諭の旨を発して借財の代返や本汛帰還を約したことで将士は歓呼し奮起し、まもなく岳州を抜き湖南を下し川粤黔滇も次第に平定された。これは皇帝が兵法を深く理解し士気を鼓舞した結果であり、天下太平ののちには官兵の負債を悉く代還し、恩綸が布かれた日には城中の老若が歓声を上げたという、古今まれな大恩であった。

戊戌 吉安への増兵

  • 簡親王喇布は、署副都統尼滿が万安・泰和方面に賊が出没し吉安が広東・贛州の要衝にあたるが防兵が少ないとして緑旗官兵の派遣を求めたと奏した。
  • 康熙帝は、既に將軍阿密達・總漕帥顔保を江西へ派遣していたが、總督董衛國にも適宜兵を選んで吉安へ送り尼滿らと協力固守させ、江西の緑旗兵は湖南への調発が続き手薄なため董衛國に精鋭5千人を募集させ備えさせた。