平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十六年 1677年

十一月丁丑 潯州の回復

  • 將軍巡撫傅宏烈は、10月2日に賊が水陸から梧州を攻めたため總兵官楊國泰らが前後から挟撃してこれを大破、3日には潯州城下に至り5昼夜の激戦の末に賊をほぼ殲滅し潯州を回復したと報告した。

己卯 韓大任討伐への増兵

  • 韓大任が万安県梁口に拠っているとの報告を受け、康熙帝は、韓大任が寧都から敗走してなお楚賊と合流する恐れがあるとし、既に護軍統領哈克三・副都統錫山が出兵しているが兵力不足を懸念し、簡親王喇布に満漢官兵を急派して哈克三らと協力し、賊を湖南へ逃さぬよう命じた。

壬午 穆占軍による韓大任討伐

  • 簡親王喇布は、韓大任らが渡河して楚賊と合流しようとしているとの報を受け、哈克三らの兵が少ないため、穆占の兵の半分を永新・安福守備に、残り半分を泰和・万安方面へ派遣する案を奏した。
  • 康熙帝は、喇布が江西着任以来なんら戦功を挙げず、吉安で韓大任を包囲しながら撃滅できず寧都への逃亡を許し、副都統布舒庫らを派遣してもなお大きな打撃を与えられず、大任らが万安・泰和方面へ好き勝手に出没しているのに兵の少なさを口実にしていると厳しく咎めた。処罰は事態収拾後とし、將軍穆占に梁口へ急行させ討滅を命じた。
  • 穆占は、韓大任討伐は本来包囲していた官兵が追撃すべきとし、簡親王または華善に討伐を委ね、自らは呉三桂が永新から吉安を犯そうとする偽将3人を迎撃するため既に永新に着き、後続部隊到着後に永新百里外の賊を掃討し茶陵へ進むと奏した。
  • 康熙帝は再度、簡親王に寧都へ向かった布舒庫・提督趙賴らの兵を速やかに調え韓大任を討滅させ、穆占には状況に応じて梁口の協力討伐か茶陵進撃かを判断させた。

甲申 尚之信の広西進軍

  • 尚之信は、広東省城の守備兵を残し余力を挙げて広西の賊討伐へ向かうと奏し、康熙帝はこれを許可し莽依圖らと共に広西平定に当たらせた。

戊戌 湘潭攻略の分兵

  • 安親王岳樂は、要請していた紅衣砲・緑旗火器官兵が得られれば長沙攻略が可能であり、もし緑旗官兵がなければ簡親王に長沙駐留を任せ、自らは岳州へ進んで岳州の兵と共に水陸から長沙に迫るか、あるいは茶陵・攸県を取って衡州・永州を平定し広東を犯す賊の道を断ち湘潭へ直進して呉逆を殲滅したいと奏した。
  • 康熙帝は、簡親王の兵は韶州・韓大任討伐に割かれ緑旗官兵の余力もなく吉安守備も動かせないとし、穆占が茶陵・攸県を攻め、莽依圖・傅宏烈が広西平定に当たっている好機を捉え、安親王に速やかに官兵を分けて楚逆を破り湘潭などを取るよう命じた。

十月丙午 穆占の湖南進軍

  • 穆占は、茶陵・攸県は回復間もなく軽々に離れられないとして、副都統龔圖の長沙行きの兵と袁州總兵官趙應奎の兵をこの地の守備に回した上で、自らは前命に従い梁口へ討賊に赴くと奏した。
  • 康熙帝は、簡親王が既に護軍統領哈克三・副都統錫三・署副都統雅哈喇・雅秦らを韓大任追討に派遣し、布舒庫・趙賴らも寧都から万安まで追撃、將軍舒恕も署副都統尼雅漢を梁口へ派遣しており討伐兵力は十分として、簡親王らに全力での討滅を命じ、穆占には茶陵・攸県回復を安親王に報告のうえ自ら大兵を率いて湖南を平定するよう命じた。
  • 続けて穆占は、呉三桂が衡州を死守し茶陵と近接し水陸で通じているため、部隊だけでは攻守に不足するとして安慶提督王永譽の応援を求めたが、康熙帝は王永譽は徽州守備の要のため遠く動かせないとし、安親王軍に増派された副都統龔圖の兵で足りるとして、安親王には提督趙國祚の兵と満兵を茶陵・攸県守備に回させ穆占の進撃を支えさせた。

癸丑 金光祖への譴責

  • 總督金光祖は近隣の満兵急派を求めたが、康熙帝は、莽依圖・尚之信・傅宏烈・金光祖配下の兵を合わせれば十分な兵力があり、金光祖は前罪を贖う好機であるにもかかわらず前進の意欲を見せず、逆に応援を求めるのは不当であるとして、速やかに南寧・柳州の攻略に当たるよう命じた。

韓大任討伐の再督促

  • 喇布は、護軍統領哈克三の報告として山路が険しく騎兵が展開できないため緑旗官兵の投入か隘路を断つ策を求め、總督董衛國の兵で対応可能な分を調整して協力させると奏した。
  • 康熙帝は、哈克三・布舒庫・錫三・雅秦・趙賴らの兵力は十分であり、穆占が茶陵・攸県で楚賊を破り韓大任が孤立している好機に、道の険しさを口実に隘路守備で時を稼ぐのは失策であるとし、喇布に近隣兵の増派と哈克三らへの厳命を命じた。
  • ほどなく韓大任は興国の寶石砦へ逃げ込んだ。康熙帝は喇布が吉安で大任を包囲しながら討滅できずに逃走を許し、哈克三らも撲滅できなかったことを咎め、なお全力での追討を命じ、賊を楚地に逃せば重罰に処すとし、總督董衛國にも協力を命じた。

甲寅 宜章・郴州攻略

  • 穆占は、賊将馬寳が衡州へ向かい、別に賊2千余が宜章に屯していると奏した。
  • 康熙帝は、賊が衡州に集中している好機を捉え、広東の官兵に樂昌経由で宜章・郴州を取らせ、尚之信には梧州行きを取りやめて韶州へ急行し都統勒貝・統領江寧兵額楚と共に宜郴を攻め永州も平定するよう命じた。

丁巳 額楚の専奏許可

  • 康熙帝は兵部に、韶州の軍務が緊要であるとして、額楚が簡親王を経由して上奏すると遅延の恐れがあるため、額楚に江寧將軍印をもって統轄させ、都統勒貝を参賛とし、軍務を直接上奏させることとした。

乙丑 董衛國の吉安出動

  • 董衛國は、江西省城は副都統多諾が守っているため、自ら吉安へ赴き簡親王と協議したいと奏した。
  • 康熙帝はこれを許し、緑旗官兵の調度は董衛國の裁量に任せ、満洲將軍は干渉しないこととした。

平樂・桂林攻略

  • 傅宏烈は、呉三桂の偽總統馬寳が宜章経由で来犯し先鋒が富川に達したため後続の増派を求め、韶州の大兵に宜章・郴州の隘口を奪わせれば、自らは莽依圖と共に平樂・桂林を攻略でき、逆賊は湖南に専念できなくなると奏した。
  • 康熙帝は、尚之信・額楚・勒貝らに宜郴方面の速やかな平定を命じる一方、傅宏烈には莽依圖と共に平樂・桂林の平定を急がせた。

庚午 浙江・福建の蒙古兵撤収

  • 康熙帝は兵部に、福建が平定されたため浙江・福建駐留の蒙古兵を撤収させ、康親王に満洲副都統1人と台吉塔布囊を付けて京師へ帰還させるよう命じた。