猓猓總兵官陸道清の雲南帰還
- 大將軍安親王岳樂らは、雲南への帰還を望む猓猓總兵官陸道清の処遇について裁可を仰いだ。
- 康熙帝は陸道清を雲南へ帰し、寛大な意を土司に諭させることを命じた。挙兵の準備が整わなければそのまま帰郷させ家族と再会させてよいとし、布政使の周昌・黄九疇は引き続き安親王のもとに留め、機会を見て招撫に遣わすこととした。
江西の朱統錩討伏
- 總督董衛國は、逆賊朱統錩が再び江西を侵し貴溪・瀘溪などの県を陥落させたと奏し、自ら官兵を率いて討伐したいと願い出た。
- 康熙帝はこれを許可し、衛國の判断で進撃させた。
馬匹の南昌・武昌への配備
- 康熙帝は議政王らに、外藩モンゴル諸王が多くの馬を献上したこと、江西に近い湖広・広東が適地であることを述べ、5千匹を南昌へ送り總督董衛國に賢能な官員を選んで飼養させるよう命じた。
- さらに兵部の飼養馬・営駅馬2千匹を湖広武昌へ送り備蓄させた。
史論(臣謹按)
- 軍が長く出征を続ける中、皇帝は戦馬の消耗を見越し、本来馬の産地でない江楚諸省で急な補充ができないことを憂慮して、あらかじめ南昌・武昌に馬を蓄えさせた。後に湖南平定・進軍の際にはこの馬が兵士に配られ大いに役立った。これは皇帝が事前に周到な準備をしていたためであり、滇南平定が滞りなく進んだ一因である。
乙夘 謝厥扶らの誅殺
- 尚之信は、祖澤清が捕らえた偽順の水師総兵謝厥扶や随征総兵鄧震奇ら7名の身柄を監禁して指示を仰いだ。
- 康熙帝は、命令書が到着次第、謝厥扶ら7名を処刑するよう命じた。
丙辰 舟楫を扱う者の選抜
- かねて總督阿席熙に鳥船用の舵工・水手の募集を命じていたが、阿席熙は8月中に集めて船とともに送るのは難しいと奏した。
- 康熙帝は、河南・山東・湖広・江南・江西・浙江・山西にいる福建投誠の開墾官兵の中に水に慣れた者が多いとして、各巡撫に選抜させ兵部に報告するよう命じ、なお阿席熙にも広く募集させ、不足すれば各省の報告官兵で補うこととした。
丁巳 穆占への賊後方遮断の命
- 總督金光祖は、広西の馬雄・孫延齡との交戦や、撫臣傅宏烈の西進、楚賊が韶州に迫り対峙していることを報告し、満洲兵の増派を求めた。
- 康熙帝は、大將軍安親王岳樂・將軍穆占らが長沙に留まり湖南平定に至らないことを咎め、命令到着後ただちに穆占を樂昌方面へ分遣して韶州を犯す賊軍の背後を断たせ、状況次第で簡親王喇布と合流して衡州・永州方面を攻略し両広を犯す賊の後方を断つよう命じた。撫蠻滅寇將軍巡撫傅宏烈には広西救援での機宜の対応を許した。
癸亥 尚之信の韶州出動督促
- 將軍莽依圖は、7月14日に韶州に到着し、城北で賊が塹壕を掘り官軍と対峙していると報告し、大兵の急派を求めた。尚之信は広東の土冦がなお多く潮恵の民心が定まらず、高州四府にも賊警が続くため官兵を留めざるを得ないと奏した。
- 康熙帝は、將軍拉哈達・頼塔らの大兵により潮州の劉進忠らが帰順し海冦も敗走して広東はほぼ平定したとし、尚之信が土冦を理由に省城を離れなければ広西回復も楚賊討滅も広東の安定も難しくなると諭し、命令到着後ただちに官兵を率いて韶州へ赴き莽依圖らと協力して賊を退けるよう命じた。
丁夘 傅宏烈、梧州を回復
- 將軍巡撫傅宏烈は広西へ進撃し、偽將軍趙天元ら7人・万余の賊が拠る梧州を攻めた。26日に賊が出城して迎撃したが、官兵は水陸から奮撃してこれを破り、梧州を回復した。趙天元らは百余人を率いて馬を捨てて逃走した。
戊辰 醴陵守備
- 安親王岳樂は、醴陵が江西・湖広の接壌の要地であるとして、簡親王配下の無事な地方の兵を佐領ごとに3人ずつ派遣し駐守させるよう求めた。
- 康熙帝は、簡親王の兵は各所へ分派済みで余力がないとし、將軍穆占が岳州から連れてきた兵から佐領ごとに4人を長沙に留め、安親王の裁量で醴陵防守に回すよう命じた。
甲戌 黄四標らの討伐
- 將軍莽依圖は、投誠總兵黄四標が山中に逃亡し、また始興県では投誠總兵薛起龍が叛いて4千の賊衆を率い江口に屯し民の子女を掠奪していると報告、省城の兵はまだ韶州に至らず動かせないため近隣の兵の派遣を求めた。
- 康熙帝は、南安駐守の署副都統赫埓布に、南雄總兵官宋四箴らと協力して黄四標・薛起龍らを速やかに討滅するよう命じた。
九月丙子 荆州兵の増強
- かねて康熙帝は兵部に、広東平定を機に湖南平定・呉三桂討滅のため大兵を増派すべきとし、大將軍公圖海の兵が既に陝西へ撤収し満洲大兵も少なくないことから、佐領ごとに満兵3人と京師兵3人、将軍・提督配下の緑旗兵を選んで湖広へ派遣する案を図海らに諮問していた。
- 圖海らは、陝西の防汛の広さを踏まえ、佐領ごとに満兵2人・緑旗兵3千を選び大臣1人を付けて荆州へ派遣し、残りは各要害の守備に充てると奏した。
- 併せて、順承郡王勒爾錦の渡江要請、將軍鄂鼐の舟師・穆占配下精兵の増派要請、貝勒尚善の鳥船40艘・精兵増派要請などを踏まえ、康熙帝は秋の好機に乗じて進撃すべきとし、荆州の兵を増強して順承郡王が渡江・進撃するか、渡江が難しければ臨江で威を張り牽制するよう命じた。鳥船完成後は増兵を尚善軍に送り水陸から岳州を挟撃させ、圖海には満兵佐領ごとに2人と大臣1人を速やかに荆州へ、緑旗兵は2千に減らして原統轄官に率いさせ、山西提督周卜世にも湖広出兵を命じた。京師からも護軍2人・驍騎1人を佐領ごとに追加し、公温齊に統率させ副都統杭奇穆・舒を両翼参賛とした。
潮州總兵官の人事
- 大將軍康親王傑書は一等侯馬三奇の平陽總兵官への補任を奏請し、康熙帝は一旦許可したが、傑書は潮州が重地であり馬三奇の武勇と潮州官兵の多くが馬得功の旧部であることから潮州總兵官に充てるべきと再奏した。
- 康熙帝はこれを容れ馬三奇を潮州總兵官とし、前任の王國棟は広東東部の要地の總兵欠員に補用させた。
耿精忠の潮州駐留
- 大將軍康親王傑書らは、漳泉が概ね平定されたため都統頼塔に平南將軍印を授け前鋒護軍2千余で潮州を暫く守らせ、内府佐領兵と喀喇沁土黙特兵は將軍拉哈達に率いて省城へ、靖南王配下の兵は潮州に留め、耿精忠自身は護衛親軍のみを連れて拉哈達と共に省城へ戻すことを奏した。
- 康熙帝は耿精忠をそのまま潮州に駐留させることとし、傑書・尚書介山・侍郎吳努春らに、呉三桂討滅と招撫の最中に精忠を軽々に省城へ戻せば人心を疑わせると戒め、以後この種の重要事は熟慮のうえ必ず上奏して指示を仰ぐよう命じた。
癸未 華善らの江西出兵
- 大將軍簡親王喇布らは、衡州・永州攻略あるいは韶州救援のいずれにも十分な兵力増強が必要として、近隣の官兵の急派を求めた。
- 康熙帝は、和碩額駙華善・學士薩海に江寧の盛京兵300・京師からの漢軍兵300・徽州駐守満兵50・蒙古兵600を率いて南昌へ急行させ、簡親王軍の指揮下で調用させることとした。華善が帯びる平寇將軍印は署副都統科爾擴岱に江寧事務とともに預けさせ、安慶では撫標兵の提督王永譽に兵を率いて徽州守備に向かわせた。
己丑 瀘溪の賊平定
- 總督董衛國は瀘溪方面で逆賊朱統錩を討ち、3日に大敗させて偽總兵金洪・尹文郁や統錩の子・姪を捕らえ、残賊をほぼ殲滅、統錩自身も賊党に捕えられ福建へ送られたことで地方は悉く平定したと報告した。
乙未 穆占への譴責
- 將軍穆占は、樂昌方面への進軍前に袁州で情勢を視察していたこと、兵部の指示に従い佐領ごとに4人を安親王軍に留めるはずが、命令到着後すぐに樂昌へ分兵させたため全軍で出発し長沙に留める兵がなかったことを奏した。
- 康熙帝は、穆占が樂昌へ進まず茶陵・攸県にも赴かず袁州へ直帰したことを咎め、簡親王との合流を口実に本来の議定に背き荆岳から連れた兵をすべて袁州へ連れて行き長沙に留めなかったのは不当であるとし、速やかに佐領ごとに4人を安親王軍前に留め、樂昌進撃か茶陵・攸県経由での衡州・永州攻略かを決めて前進し、逐次奏聞するよう命じた。
戊戌 戦艦の増造
- かねて康熙帝は議政王らに、呉三桂が江湖の険を頼んで抗戦を続けていること、我が方も鳥船・沙船を増造し、塩船を借り上げて糧米を積み岳江から洞庭へ入って江湖を占め賊の糧道を断ち岳州を挟撃すべきかを、現地にいる順承郡王勒爾錦・貝勒尚善らに諮っていた。
- 勒爾錦らは、洞庭を占め糧道を断つには新旧の船を合わせても不足し、南潯港に停泊するにも陸路の重兵配置が必要で長期の占拠は難しいとしつつ、賊の造船が続く以上、我が方も鳥船・沙船を増造し数か月分の米を積めるようにすることは有益とし、塩船の徴用は停止すべきと奏した。
- 康熙帝は鳥船60艘・沙船200艘の増造を命じ、戸部尚書伊桑阿を江南に派遣し督撫と共に督造させ、完成後に緑旗官兵を増派し、塩船の徴用は停止した。
史論(臣謹按)
- 逆賊が長く岳州に拠っていたのは江湖の険と多数の舟艦を恃みとしていたためであり、これを奪わなければ岳州は容易に抜けない。皇帝が鳥船・沙船を増造し江湖を占めて賊の糧道を断つ策は勝利の要であったが、諸将は風濤を理由に長期停泊は難しいと渋った。しかし皇帝が独断で大臣を派遣し期限を定めて督造・配兵させ、その険要を扼して糧道を断った結果、賊はほどなく食糧が尽き援軍も絶えて岳州を捨てて潰走した。これは諸将の及ばぬ皇帝の深謀によるものである。