平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十六年 1677年

四月 綽克托の処分と吉安・広東方面の増援

  • 江寧副都統綽克托が仮病で広東従軍を放棄し帰還したことを咎め、革職披甲のうえ莽依図軍前へ送った。
  • 歩軍総尉薩克察巴図魯を署前鋒統領として吉安の参賛に任じた。
  • 莽依図軍の馬不足を受け江西の兵馬を回そうとしたが遅滞したため、喇布を厳しく叱責した。

図海への四川進軍督促

  • 図海が禮県・驛門方面まで進めたものの、久留すれば師老し、退けば無益であるとして進退に迷ったが、皇帝は呉三桂が長沙に集中している好機を捉え進軍を続けるよう督促した。

庚午~乙亥 贛州防備と喇布への重ねての叱責

  • 呉三桂が衡州へ移動したとの報を受け、贛州・吉安方面の防備を固めさせた。
  • 喇布らが吉安を長期包囲しながら賊を取り逃がし、民への略奪も横行していることを、江西以外の方面(浙江・福建・広東)が順調に進軍している対比を挙げて厳しく咎め、功で贖うよう命じた。
  • 西安将軍佛尼勒が四川保寧で兵を損なった責任を問い、将軍職と世職を解いた(父の世職のみ署理として留任)。

五月 岳州水軍の失敗

  • 鄂鼐が戦艦二百余艘で君山を攻めたが数日破れず撤退した。

乙酉 傅宏烈の広西巡撫任命

  • 傅宏烈の建策(南安経由での広東・広西連携)を受け、広西巡撫に昇任させ、莽依図軍と合流させた。

壬辰 南安・韶州の回復

  • 莽依図が四月二十九日に南安に至ると、旧提督厳自明が開城投降、郭義らは逃走。南雄・韶州も回復し、傅宏烈は始興で官軍を出迎えた。

辛丑~乙巳 莽依図の直奏権と長沙軍への輸送調整

  • 莽依図に広東軍情の直接上奏を許可し、指揮の迅速化を図った。
  • 長沙へ紅衣砲を送る計画について、袁州から長沙への輸送の困難と芻秣不足を踏まえ、温岱の現地確認の結果、砲は南昌に留め置き、銀・馬のみを安親王・穆占の軍前へ送ることとした。