平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十四年 1675年

五月 建昌の奪還

  • 大将軍安親王岳樂らが四月二十五日に長興に至り、賊将邵連登ら八万余の水陸兵の迎撃を、岳樂・将軍希爾根らが撃破し、建昌城を回復した。

庚午 左翼察哈爾の帰順

  • 先に一等侍衛竒塔特・博羅特らを勅使として左翼察哈爾を招撫させたところ、七日に営に至り訊ねると、右翼四旗が誅殺され馬を緑旗に分与されたこと、左翼四旗も大同で誅されると聞き、また四十九旗部落がことごとく叛き妻子を掠奪されたとの流言に驚いて辺墻を毀し逃亡し布爾尼と通じたことなど、死罪に値すると自陳したが、赦詔を頒すと感激して帰順した。
  • 史臣は、陝西有事のため宣府へ移していた察哈爾が布爾尼の流言に動揺して逃亡したものであり、皇帝が頑迷無知を諒として招撫させ、国家の恩・布爾尼の逆罪を諭したところ帰服したことを、皇帝の大徳によるものと評した。

甲戌 仙逸関賊の討滅と紅衣砲の秦州輸送

  • 都統海爾図・総督周有徳らに、仙逸関の賊を平らげ紅衣砲を秦州へ運ばせるよう命じた。
  • 海爾図らは西安に至り、荆州よりの兵と貝勒の輜重が賊に阻まれ隴州・仙逸関付近に留まっていること、紅衣砲を進めるには満兵二千の増派が必要であることを上奏した。皇帝は海爾図・周有徳・叅領達爾泰らの兵で既に二千に達するとし、直ちに合兵して関賊を平らげ道を通すよう命じた。
  • 海爾図らが仙逸関で賊と対峙すると、諸臣の指揮系統が乱れ軍機を誤ることを懸念し、周有徳・海爾図を兵主、満洲漢軍副都統らを参賛として一軍に統合し、隊伍・官制を新たに立てるよう命じた。

大将軍康親王・安親王への進兵方針の指示

  • 議政王らの上奏により、貝子傅喇塔の水師到着後に江を渡り黄巖を取る計画と、康親王が仙霞を、安親王が建寧を攻めて呉賊を挟撃する両路策が議された。
  • 康親王傑書は、寧波の水師が台州に至れず、処州に賊警があり金華の兵も単弱で進みがたいが、安親王が建寧を取れば呼応すると答え、安親王岳樂は常興・建昌の賊を平定済みとして、広信経由か杉関経由かで進路を上奏した。
  • 皇帝は、盛夏でもあり寧州が陥ちたことも踏まえ、安親王には建昌の守りを固めさせつつ大軍を南昌に戻して秋涼を待たせ、額楚・席布らに広信の賊を討たせて分水関から仙霞の後路を断つ形を取らせ、康親王には将軍賴塔らに仙霞を攻めさせ、両軍で江山の賊を挟撃するよう命じた。

戊寅 南漳方面の討伐

  • 大将軍順承郡王勒爾錦の上奏により、賊五、六千が南漳に来犯し楊・洪の逆賊が両路から出撃、穀城も失陥したため、貝勒察尼を靖冦将軍として援兵に赴かせ、襄陽以下の官兵を統轄させて南漳・穀城の平定に当たらせた。あわせて汝州副都統色格を襄陽へ、安慶署副都統諾敏・副都統孫承祖を汝州駐守へ回した。のち察尼らは伊里布・范達禮に穀城を回復させた。

庚辰 畢力克圖の榆林救援

  • 左翼四旗察哈爾が帰順したことを受け、山西の兵を陝西救援に転用することとし、佟国綱の前鋒兵・大同駐守兵・盛京綠旗馬兵・右翼察哈爾兵を将軍畢力克圖に付して榆林へ赴かせ、総兵官許占魁と協力して延安方面を平定させた。護軍統領傑殷・協領覚和托を参賛とし、副都統恰塔には大同を統轄させ、他の兵は太原・保定へ回し、署副都統烏丹に建威将軍印で鎮守させた。延安・綏徳の陥落と榆林の危急に応じ、覚和托に先発させ畢力克圖も続いて赴かせた。

癸未 関山賊の討伐と紅衣砲の輸送

  • 総督周有徳の上奏により、叅領達爾泰の兵が関山で阻まれているため滿漢官兵の増派を求められ、大将軍貝勒らの秦州行軍が久しく妨げられていることから、副都統徳業立に関山の賊を討たせ、延布・達爾泰・海爾図の兵と合流して道を開き砲を秦州へ運ばせるよう命じた。