平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十四年 1675年

四月 張和善の帰還と張勇・王進寳への恩賞

  • 総兵官張和善に、楚地防衛の負担が続いたため所部を率いて真定へ帰還するよう命じた。武昌には満洲・蒙古・撫標の城守水師兵がいるため差し支えないとした。
  • 乙未、王輔臣が偽の諭書・印を持たせて投降を勧誘した使者を張勇が斬り、その旨を上奏したこと、王進寳が間諜を捕らえ王輔臣の逆書を暴いたことを賞し、張勇を靖逆侯に封じ、王進寳に阿思哈尼哈畨の世職を授けた。

丙申 仙逸関の討伐

  • 総督哈占の報告により、仙逸関に賊約三千に対し味方の兵が四百に満たず、平・隴の間にも賊約三千が華亭に拠っていることが判明した。
  • 仙逸関は大兵の要路にあたるため、将軍佛尼勒が自ら官兵を率いて討伐するか、副都統徳業立に兵を率いさせて赴かせるか、状況に応じて速やかに行うよう諭した。

丁未 鄂爾多斯兵の会勦

  • 鄂爾多斯の固嚕多羅貝勒・索諾木固山貝子・達爾扎鎮国公らが徴兵に応じて辺外に駐留していたが、達爾扎が自ら兵を率いて進もうとしていたため、入境させて提督・総兵らと二路から討伐に当たらせることとした。郎中額業図・員外郎拉篤祜を参賛軍務とし、糧餉は戸部の定額により支給するよう命じた。

癸丑 臨洮の奪還

  • 偽総兵陳可らが拠っていた臨洮を、総兵官王進寳が緑旗官軍・土兵を率い金県・沙泥站の両路から攻め、三月二十三日に城を抜いた。

甲寅 察哈爾左翼への撫諭

  • 宣府鎮に駐守させていた左翼四旗察哈爾が、辺墻を毀して私かに逃亡した。参領舒什蘭がこれを上奏したため、散秩大臣綽爾濟・都爾瑪らに八旗官員・侍衛を副えて派遣し、勅を持たせて撫諭させた。
  • 勅では、太宗文皇帝以来の厚遇の経緯、布爾尼が恩を忘れて叛いたため信郡王に討たせた顛末を述べたうえで、察哈爾の逃亡は流言に惑わされ妻子・牲畜・馬の疲弊を憂えてのことであり情状酌量できるとして、罪を寛宥し故伍に復すよう諭した。

秦州・漢中への援兵派遣

  • 大将軍貝勒洞鄂らが、賊一万余が四川より秦州の南山に来援し兵力が単薄であると上奏し、副都統延布・徳業立に隴州・仙逸関を守らせ、将軍佛尼勒に佐領ごとの兵を率いて急行させたうえで西安の官兵の増派を求めた。
  • 秦州が危うければ西安も危ういとして、総督哈占・鄂善らに西安・付近の汛兵五百を秦州へ急派させ、総督周有徳にも会勦させるよう命じた。
  • あわせて、漢中は秦州陥落を待たず直ちに援兵を発すべきとし、将軍鄂泰に太原・盛京の駐防兵を率いて西安へ向かわせ、副都統徳業立に隴州・宝鶏の精兵を率いて漢中へ赴かせた。鄂泰の建威将軍印は署副都統烏丹に留めさせ、京師からも佐領ごとに驍騎一人を選び太原へ発した。

乙夘 孫思克への辺防命令とダライ・タイジへの勅諭

  • 巡撫華善らの上奏により、辺外の蒙古が洪崖堡を犯したうえ、河東への進兵に乗じて関隘を毀し官吏を襲い、永固城で副将陳達が戦死したことが報告された。孫思克に将弁を厳飭して防備させ、なお害を為すなら討伐するよう命じた。
  • あわせてダライ・タイジに部落の統制と辺患防止を求める勅諭を発した。呉三桂が窮すれば投降させて縛送するよう求めたこと、達賴喇嘛の意見(土黙特居住時の関係、松潘路が険しく進兵しなかったこと、蒙古が城を得ても維持しがたいとの見解、呉三桂の助命嘆願は認められないこと)を紹介し、皇帝が呉三桂の忘恩を厳しく非難したうえで、王輔臣の叛乱に乗じたダライ・タイジ部落の侵掠を戒め、前言を守り部属を統轄するよう命じた。

戊午 佟国綱の安北将軍任命と察哈爾の再度の動揺

  • 散秩大臣綽爾済らの報告により、宣府に向かっていた左翼四旗察哈爾が本月二十七日に鄂西奚で御馬廠・近隣旗の蒙古婦女牲畜を掠奪して逃亡したこと、途上で脅されて連行された四人を捕らえて連れ帰ったことが伝えられた。
  • 察哈爾兵の狂悖を受け、内大臣国舅佟国綱を安北将軍とし、佐領ごとの護軍一人・驍騎二人を率いて宣府を鎮守させ、護軍統領傑殷・副都統恰塔を副え、散秩大臣綽爾済・都爾瑪を署都統・参賛とした。