編纂の経緯
- 本書『平定三逆方畧』六十巻は、康熙二十一年(1682年)に編纂の詔が下った実録で、平西王呉三桂・靖南王耿精忠・平南王尚之信の反乱(三藩の乱)を平定した経緯を記す。
- 総裁官は大学士の勒徳洪・明珠・李霨・王熙・黄機・呉正治、副総裁官は内閣学士の阿蘭泰・達岱・張玉書、翰林院掌院学士の牛鈕が務めたが、実際に執筆・編纂を担当した者の氏名は原書に記載がなく不明である。
三藩の乱の概要
- 康熙帝の治世下、平西王呉三桂は雲南・貴州、平南王尚可喜は広東、靖南王耿精忠は福建にそれぞれ藩を構え、しだいに驕り高ぶった。康熙十二年(1673年)、藩の移転を自ら願い出た三藩に対し朝廷がこれを許可すると、呉三桂は同年十一月に挙兵して湖広を窺った。
- 朝廷は将を荊州・常徳へ派遣して賊勢を抑え、八旗の精鋭を集めて追討に当たらせた。翌年三月には耿精忠も福建で反乱を起こし、尚可喜の子・尚之信は父に賊への同調を迫ったため可喜は憤死し、之信も結局呼応、閩粤の郡県は騒乱に陥った。
- 朝廷は諸将に方略を授けて撫剿を併用し、次第に鎮定を進めた。呉三桂はやがて病没し、その孫・世璠は雲南に拠って抗戦を続けたが、耿精忠は帰順を願い出て入朝しようとしたところ、賊との内通が発覚して市中で処刑された。尚之信も帰順しながら内心は不忠であったため、取り調べのうえ広東で死を賜った。
- 康熙二十年(1681年)十月、大軍が雲南省城を包囲すると世璠は自殺し、配下はことごとく降伏した。世璠の首級は都に送られ、雲南は平定された。挙兵からわずか八年で三藩をすべて平らげたその速さは、古来類を見ないものであった。
校訂の経緯と乾隆帝の御批
- 本書の完成年月は実録にも記載がないが、康熙二十五年(1686年)十一月の上諭が伝わっている。それによれば、閣臣が進呈した四冊の草稿には誤りが多く、たとえば王輔臣の任官経緯や、呉三桂を宋の功臣に例えた論賛の不適切さなどが指摘され、訂正が命じられた。
- こうした経緯からも、本書が皇帝の裁定を経て慎重に編まれたことがうかがえ、記事は精確、文辞は簡潔で、清朝の功業を後世に伝えるにふさわしい書とされる。当時は未刊行で写本のみが宮中に秘蔵されていたが、乾隆帝の命により書写のうえ史庫に収められた。
校上の記
- 乾隆四十八年(1783年)三月、謹んで校訂を終え奏上した。総纂官は紀昀・陸錫熊・孫士毅、総校官は陸費墀である。