後漢紀巻第三十 孝獻皇帝 建安二十五年 220年

曹操の死と曹丕の襲位

  • 春正月庚子、魏王の曹操が薨じ、武王と諡された。
  • 壬寅、詔が下された。魏の太子曹丕よ、かつて皇天はその父に拠って我が皇家を輔けさせ、群凶を払い九州を平定した、その大きな功績は宇宙に輝いた、と述べる。
  • そのおかげで自分は三十余年、手を垂れていられた。天は一人の老臣を残しておいてくれず、早く世を去らせた。深く哀悼する、と続く。
  • 曹丕は代々にわたって明徳を宣べており、文武を執って前の業を継ぎ輝かすべきである。今、使持節・御史大夫の華歆に策詔を奉じさせ、曹丕に丞相の印と魏王の璽黻を授け、冀州牧を領させる。
  • 今は外に残る賊があり遠方の異民族もまだ服さず、旗鼓はなお辺境にあり、干戈を収めるわけにはいかない。これこそ大きな功業を広め、功を立て名を残すべき時である。どうして諒闇の礼を修め、曾参・閔子騫のような孝の志を尽くしていられようか。
  • 朕の命に敬い服し、憂いを抑え、諸事を謹んで天の務めを明らかにし、朕の意にかなうようにせよ、と結んだ。
  • 二月丁未朔、日食があった。

禅譲

  • 冬十月乙卯、詔が下された。朕は在位三十二年、天下の崩壊に遭ったが、宗廟の霊に頼って危うきを脱し存続してきた、と述べる。
  • しかし天文を仰ぎ民心を察するに、炎精(漢の火徳)の数はすでに終わり、運行は曹氏にある。前の王がすでに神武の功績を立て、今の王もまた明徳を輝かせてその期に応じている。暦数の明らかなことは知りうる。
  • 人の道は天下を公とし、賢者を選んで能ある者に与えるものである。だから唐堯はわが子に私せず、名を無窮に伝えた。朕はそれを羨み慕う。今、堯典の跡を追って魏王に位を禅る、として宗廟に告げた。
  • 御史大夫の張音に皇帝の璽綬を奉じさせ、魏王に位を禅る文を下した。曰く、昔、帝堯は虞舜に位を禅り、舜もまた禹に命じた、天命は常のものではなく、ただ徳ある者に帰する、と。
  • 漢の道は衰え、世は秩序を失い、朕の代に及んで大乱はいよいよ昏く、群凶が逆をほしいままにし、宇宙は傾き覆った。武王が四方でこの難を救い、中国を清らかにして宗廟を安んじた。朕一人が安らぎを得たのではなく、九服の民が実にその賜物を受けた。
  • 今、王は前の業を敬んで承け、その徳を輝かせ、文武の大業を広げ、亡父の大きな功業を明らかにしている。皇天は瑞を降し、人も神も徴を告げた。輔佐の職を明らかにし、衆は朕に命を授けるよう勧め、みなが、王の礼度は虞舜に協うと言う。
  • そこで我が唐(堯)の典に従い、敬んで爾に位を譲る。ああ、天の暦数は爾の身にある。よくその中を執れ。天禄は永く終わる。王よ、大化を謹んで奉じ、この万国を饗し、天の道を粛めよ、と。
  • 庚午、魏王が皇帝の位に即き、年号を黄初と改めた。
  • 魏帝は禅譲を受けた後、尚書の陳羣に、朕は天に応じ民に順ったが、卿らはどう思うかと尋ねた。陳羣は、臣は華歆とともに漢朝に仕えた身なので、聖化を喜びながらも、義が顔色に現れております、と答えた。

史論(袁宏曰・禅譲)

  • 君の位は万物の重んじるところであり、王道の至公である。重んじるところが徳にあれば仁義において広く救い、至公で私がなければ変通は代謝に極まる。
  • だから古の聖人は、治乱盛衰には時があると知り、大いに名教を建てて群生を統べ、天と人に本づけてその要をふかくした。徳をもって伝えるのが禅譲の道であり、暴が極まれば変じ、変ずるのが革命・代替わりの義である。
  • 廃立や与奪にはそれぞれ時機がある。時に因り民を観て、道理が尽きたところで動いてはじめて大業を経営し、千年を貫くことができる。
  • 徳ある者の興隆はみなこれによる。民が有能な者を認め、人と鬼神が謀を同じくし、蒼生の類でその恩沢を蒙らぬ者はない。その政化と遺恵は子孫に及び、衰えてはまた盛んになり、廃れてはまた興る。偏った王がいても、前代の哲王のおかげで免れることもある。
  • しかし滅びるときは、刑罰が濫れて民は命に堪えず、庶民は誰もが虐政に憔悴し、忠義の徒はその誠を尽くす道がない。だから天下は騒がしくなり、新しい主を望むようになる。
  • そこから言えば、君の道理がすでに尽きたなら、凡庸な者でも桀・紂から離れてよい。暴虐がまだ極まっていないなら、文王ですら南面を議することはできない。道理はそういうものである。
  • 漢は桓帝・霊帝以来、君道は衰え、朝綱は廃れたが、虐政は民に及ばなかった。宦官が隙に乗じて権柄をもてあそんだとはいえ、人君の威と尊は王室から大きく去ってはいなかった。世の忠賢はみな本を安んじようとする心を持っていた。
  • もし悪を誅して正し、それぞれの職を果たさせていれば、二祖(高祖・光武)の事業がふたたび目前に現れたであろう。微弱とはいえ、輔けることはできたのである。
  • 当時、献帝は幼くして凶乱に遭い、流離して都を離れた。罪は自分に由来せず、老いも若きも過ちを認めなかった。心ある者はこれを悲しみ思い、人々は匡復の志を抱いた。だから漢を助ける者は協力し合い、劉氏に背く者は互いに食い違った。民がまだ義を忘れていなかったのであって、秦から漢に代わった時の情勢とは違う。
  • 魏が乱を討ったのは実にこれを資本としたものである。旗の指す先では罪を伐つことを名目とし、爵賞を加えるときは順に従う者を第一とした。
  • とすれば劉氏の徳はまだ滅びず、忠義の徒もまだ尽きていない。どうして漢が亡んだと言えようか。漢がまだ亡んでいない以上、魏は取ってはならない。
  • 今、取ってはならぬ実がありながら揖譲の名を冒し、輔弼の功によって代わって徳を受ける号に当たり、堯舜に徳を比べようとする。これは偽りではないか。

楊彪の節

  • はじめ、魏王は楊彪を太尉にしようとしたが、楊彪は辞退した。かつて漢の三公を務めながら、世の衰乱に遭って寸分の益も立てられなかった、いま改めて魏氏の臣となるのは義において為すところがなく、国の人選としても栄誉にならない、と述べ、その志を通すことが許された。
  • 魏が禅譲を受けると、詔が下された。先王が几と杖を賜る制を設けたのは、老人を賓客の礼で遇し元老を褒め崇めるためである、昔、孔光や卓茂もみな淑徳と高齢によってこの嘉賜を受けた、という。
  • 公は元の漢の宰臣であり、その祖以来、代々忠賢で知られている。年は七十を過ぎ、行いは規矩を越えない。老成の人と言える。特別に寵し旧徳を明らかにすべきである。
  • そこで延年の杖と伏几を賜り、招かれた日には杖をついたまま入侍させ、また鹿皮の帽子をかぶらせることとした。
  • 楊彪は上章して固く辞退し、受け入れられなかった。八十四歳で天寿を全うした。

楊彪の人となりと楊氏四世

  • 楊彪、字は文先。幼くして祖父・父の学業を習い、孝義で知られた。
  • 公輔の位に就いてから王室の大乱に遭い、流離して都を離れ、艱難を経験しながら身をもって主君を守り、中正を失わなかった。天下はこれによって彼を重んじた。
  • 楊震から楊彪まで四代にわたって宰輔となり、みな儒者としての質素さと名徳を受け継いだ。楊秉・楊賜は節操において楊震には及ばなかったが、恭謹・孝友・篤誠であって、前列に恥じなかった。
  • 子に楊修があり、若くして優れた才があったが、徳業の風はもはや尽きていた。魏の初めに事に坐して誅された。

山陽公と蜀の即位

  • 癸酉、魏は河内の山陽を漢帝に封じて山陽公とし、その地では漢の正朔を行わせた。
  • 翌年、劉備が自ら天子に即位した。