魏公の儀を進める
- 春三月癸未、魏公に金の璽・赤い黻・遠遊冠を改めて授けた。
劉備の益州平定と諸葛亮の法治論
- 夏五月、劉備が成都を落とし、益州を領有した。諸葛亮が股肱となり、刑法を厳しくしたので、君子も小人もみな怨嗟した。
- 法正が諫めて、昔、高祖は関中に入って法三章を約し秦の民は徳を知った、今あなたは威力を借りて一州にまたがり、国を得たばかりでまだ恵みも撫育も施していない、しかも客が主となった以上は相手にへりくだるのが筋である、刑を緩め禁を弛めて人々の期待に応えてほしい、と述べた。
- 諸葛亮は答えた。あなたは一方を知って他方を知らない。秦は無道で政は苛烈、民は怨み、一人が腕を振るうだけで天下は崩れた。高祖はそれに乗じて帝業を成したのだ。
- しかし劉璋は暗弱で、以来ずっと代々の恩をもって支え繋ぎとめ、互いに立てあうばかりで、徳政は修まらず威刑も厳しくなかった。位で寵し、位が極まれば軽んじられ、恩で従わせ、恩が尽きれば侮られる。弊が生じたのは実にここに由来する。
- そこで自分はまず法によって威を示す。法が行われてはじめて恩が知られる。爵によって限度を設け、爵が加えられてはじめて栄誉が知られる。恩と栄を併せ用い、上下に節度が生まれる。治の要はここに明らかである、と。
伏皇后の廃位
- 冬十一月丁卯、皇后の伏氏が廃された。天子の意によるものではなかった。
- 曹操が人を遣わして皇后を捕らえさせ、皇后は髪を乱し裸足で引き出された。天子は御史大夫の郗慮に、郗公よ、天下にこのようなことがあってよいのか、と言った。
- 皇后が殺された日、皇后の父の伏完および一族で死んだ者は百余人にのぼった。