後漢紀巻第三十 孝獻皇帝 建安十七年 212年

曹操への特礼と皇子の封建

  • 春正月、曹操に、参朝の際に小走りしない、剣を帯び履をはいたまま殿上に昇る、拝礼のとき名を称えないという特礼を加えた。
  • 夏五月癸未、衛尉の馬騰を誅した。馬超の父である。
  • 六月庚寅晦、日食があった。
  • 秋七月庚戌、皇子の劉臨を済陰王、劉懿を山陽王、劉邈を済北王、劉敦を東海王に立てた。

荀彧の死

  • 冬十月、曹操が孫権を征討し、侍中・尚書令の荀彧が譙で軍を労った。
  • はじめ、董紹らが、曹操は郡公に爵を進め九錫と儀物を備えて特別の勲功を明らかにすべきだと言い、密かに荀彧に告げた。
  • 荀彧は、曹公はもともと義兵を起こして朝廷を正し国を安んじたのであり、忠貞の誠を抱き退譲の実を守ってきた、君子は礼をもって人を愛するのだからこのようにすべきではない、と答えた。曹操はこれによって心中穏やかでなくなった。
  • この出征で曹操は荀彧に軍を労わせ、そのまま彼を留めて侍中・光禄大夫・持節・丞相軍事とし、寿春に駐まらせた。荀彧は憂いのうちに死んだ。

史論(袁宏曰・黙語出処)

  • 沈黙するか語るかは賢人の要諦であり、政の巻き舒べ、廃立興亡の間に処する道である。それは知恵で身を屈伸させ、算多きを尊び軽重を量り難易を測ることではない。
  • 君子の身の処し方は、必ずその心を推してその道に達し、その誠を信じてその義を行うものである。義が心に背かないから民はその私心のないことを知り、道が順を失わないから天下はそれを至当と見る。
  • 世に出るときは忠が時に顕れ、仁が天下に及び、庶民の誰もが感嘆する。それは功を成した根本が義と和にあるからである。
  • 時が味方せず途中で挫けても、内には心に背かず外には物に恥じない。千年の後にその跡を見て事を悲しむ人は、功は成らなくとも道は成ったと考えるだろう。
  • 沈黙するときは、義でないから退き、謀った上でやめる。取捨が違うのだから、龍が蟠るように身を屈めてその志を求める。仁者の心は広く兼愛を旨とするとはいえ、手を差し伸べて不義に陥るようなことは君子はしない。かりにその道を行えば、自分の身すら患いを招くのに、まして万物においてをや。
  • 漢は桓帝・霊帝以来、君主が権柄を失い、衰えて振るわず、乱れて海内を損なった。しかし弱さゆえの弊であって、虐政が民に及んだわけではない。劉氏の恩沢はまだ尽きず、天下の期待も変わっていなかった。
  • だから征伐する者は漢を奉じ、爵賞を授ける者は帝を称した。名器の重みは一日として漢のものでなくなったことはない。
  • 魏は乱に乗じ、漢の義を資として功を成し遂げた。それを可能にしたのは荀彧の謀であり、謀が当たれば勲功は高まり、勲功が高まれば漢の運は移る。劉氏が天下を失ったのは荀彧がそうさせたのである。
  • 初め一匡を図りながら、結局は勢いと食い違い、心情が露わになり事は屈し、身の置き場がなくなったのなら、荀彧の見識は智でないことになる。
  • 生民を救い塗炭から振り起こそうとしたのなら、民は安んじても君位は危うくなり、中原は定まっても社稷は魏に亡ぶ。魏に親しんだ結果、漢からは疎くなったのだから、荀彧の功は不義ということになる。
  • そもそも人の器を借り人の権に乗り、やがてそれを自分のものとするのは、仁義の心によらぬ限り、君子の恥じるところである。一度身を汚しただけでも慙色があるのに、まして自らその謀主となり、功は当代に奮い、跡は千年に伝わるのだから。
  • 生涯涙を流して燕のために謀ろうとしなかった徒隷とは違い、自分の功として為したことを自分の死で贖おうとしても、身を殺してなお恥は残る。それで名が成ると言えるだろうか。
  • 惜しいことだ。名は天下を覆っても道は順に合わず、ついに憂いのうちに卒した。死んでも義を全うできなかった。だから、智であることが難しいのではなく智に処することが難しく、死ぬことが難しいのではなく死に処することが難しい、と言う。後世の君子よ、黙するか語るか、出るか隠れるかの際は、慎まねばならない。