後漢紀巻第三十 孝獻皇帝 建安十三年 208年

丞相の設置と南征の開始

  • 春正月癸未、司徒の趙温が丞相を置くことを請うた。
  • 秋七月、曹操が劉表を征討した。
  • 八月丁未、光禄大夫の郄慮を御史大夫とした。

孔融の誅殺

  • はじめ、曹操は穀物が少ないため禁酒令を出したが、太中大夫の孔融はこれを不可として曹操と書簡で応酬し、意見が合わなかった。
  • また当時、中原はおおむね平定され、残るは呉と蜀だけとなっていたが、孔融は武力ではなく文徳をもって招くべきだと言った。曹操はこれを聞いて怒り、怨みごとを言い誹謗する浮華な言と見なし、軍諮祭酒の路粹に命じてその罪状を作らせた。
  • 壬子、太中大夫の孔融は獄に下されて誅殺され、妻子もみな市中で処刑された。

孔融の人となり

  • 孔融、字は文挙、魯国の人で孔子の二十世の孫にあたる。幼くして並外れた才があった。
  • 十余歳のとき父に従って都に上った。当時、河南尹の李膺は重んじられ、門番に、当代の英賢か代々の交わりのある家の子孫でなければ取り次ぐなと命じていた。
  • 孔融はその人物を見ようとして李膺の門に至り、自分は李君と世々交わりのある家の子孫だと称した。取り次がれて対面すると、李膺は、あなたの父祖は私と付き合いがあったのか、と尋ねた。
  • 孔融は、先祖の孔子と貴家の李老君(老子)とは徳を同じくし義を比べ、しかも師友の間柄であった、だから自分は代々の通家である、と答えた。居並ぶ人々はみな感嘆し、並の子どもではないと口をそろえた。
  • 遅れて来た太中大夫の陳禕が同席し、この話を聞かされて、小さい時に賢いからといって大人になってすぐれるとは限らない、と言った。孔融が、あなたの幼い頃はさぞ賢かったのでしょうね、と切り返すと、李膺は大笑して、この子は大きくなればきっと立派な器になる、と陳禕に言った。
  • 十三歳で父を失い、悲しみのあまり痩せ衰えて杖にすがらねば立てぬほどで、郷里はその孝を称えた。

張儉をかくまった一件

  • はじめ、山陽の張儉は孔融の兄の孔褒と親しかった。亡命して孔褒を訪ねてきたとき、たまたま孔褒は外出していて、孔融は十六歳だった。
  • 張儉は事情を告げなかったが、孔融は相手が年長の立派な人物で追い詰められた様子であるのを見て、自分でも主人役が務まらぬわけではない、と言って家に留めかくまった。
  • 後に事が漏れ、国相以下が密かに捕縛に向かったが、張儉は逃げ延び、孔融と孔褒が捕らえられて獄に送られた。
  • 孔融は、家にかくまったのは自分だから自分が罪を負うと言い、孔褒は、彼は自分を頼って来たのだから弟の過ちではない、自分が罪を負うと言い、兄弟が死を争った。
  • 郡県は決しかね上申したところ、詔があって孔褒に罪を負わせた。孔融はこれによって名を高くした。

北海太守としての治績

  • 二十八歳で北海太守となった。これより先、黄巾が青州を破っており、孔融は民を集めて兵を起こし守りを固めた。
  • 賊の張餘らが青州を通過したとき、孔融は迎え撃って敗れ、残兵を収めて朱虚に拠り、詔と称して吏民を招き、城邑を復興した。
  • 学校・庠序を興し、賢者を推挙して士を貢し、老儒を顕彰した。彭璆を方正に、邴原を有道に、王修を孝廉に挙げた。
  • 高密県に命じて鄭玄のために特別に郷を立て、鄭公郷と名づけた。
  • また国内で跡継ぎのない者や、諸方から来た遊学の士が死んだ場合は、みな棺を用意して葬った。甄子然には配食の祭りを設けさせるなど、賢者を礼遇することはこのようであった。
  • 劉備が上表して孔融に青州刺史を兼ねさせたが、一年余りで群賊に攻められ守り切れなかった。
  • 建安の初めに召されて将作大匠となり、少府に遷った。朝会で諮問を受けるたびに議論の中心となり、他の卿大夫は名を連ねるだけであった。

肉刑復活をめぐる論争

  • はじめ、潁川の陳紀が肉刑復活を論じて書を著した。五刑を慎んで三徳を成すといい、易にも鼻切り・足切り・つま先切りの法が見え、それは政治を助け教化を補い悪を懲らして殺しを減らすためのものだ、という。
  • 殺人には死をもって償わせるのは古制に合うが、人を傷つけた者に対して、体を損なった罪に対してわずかに髪を剃るだけの罰では道理に合わない。古の刑を用い、淫らな者は蚕室に下し、盗んだ者は足を切れば、淫行や壁を穿つ盗みは永久になくなる、と主張した。
  • 孔融はこれに反論した。古は役人の行いが正しく刑が清らかで、政治に行き過ぎがなく、民に罪があってもみだりに罰しなかった。末世になって風化が崩れ、法が民をあなどるようになった。だから「上がその道を失えば民は久しく離散する」と言うのだ、と。
  • そのような状況で古制で縛り、身体を損なう刑で棄てるのは、時に応じて変えるということではない。紂王が朝に川を渡る者の脛を斬っただけで天下は無道と呼んだのに、九州千八百の地がみな紂のようになれば、世の平和は望むべくもない。
  • 刑を受けた者は生き延びる望みを失い、死を思い、多くは悪に走る。夙沙が斉を乱し、伊戾が宋に禍をもたらし、趙高・英布が世の大患となったのがその例である。
  • 鬻権のような忠、卞和のような信、孫臏のような智、巷伯のような冤、司馬遷のような才、劉向のような達識があっても、ひとたび刀鋸を受ければ生涯人並みに数えられない。
  • そうなれば太甲が徳に立ち返ったこと、穆公が秦に覇を唱えたこと、陳湯が都を頼みとしたこと、魏尚が辺境で功を立てたことのような立ち直りは、もはや期待できなくなる、と説いた。
  • 曹操は肉刑を復活させようとしたが、議論がまとまらなかったのでやめた。

史論(袁宏曰・徳礼と刑罰)

  • 民の心はもともと安全を楽しむが、それを保ち続けられないのは、利をもたらす物が外にぶら下がり、内側で嗜欲の情が動くからである。
  • そこで人を押しのけて競い、求めてやまず、欲を満たしきれないところから、その場しのぎと僥倖を頼む心が生じ、飽くことなく求めて欲を晴らせないところから、姦偽と忿怒が起こる。
  • 先王はこれを知り、弊を救うためにまず徳と礼で心を陶冶し、それでも化さない者に刑罰を加えた。書経にも、民が親しまず五品が守られぬから司徒として五教を寛やかに敷けと言い、蛮夷が中華を乱し賊が横行するから士(司法官)として五刑を用いよ、と言う。
  • つまり徳と刑は組み合わせて用いるべきもので、三代はこれを受け継いだ。周礼では、墨刑の者に門を守らせ、劓刑の者に閭を守らせ、宮刑の者に内を守らせ、刖刑の者に囿を守らせた。肉刑の制度はこうして論じうる。
  • 荀卿も、人を殺した者は死に、人を傷つけた者は刑を受けるのは百王に共通だと言うが、その由来までは分からない。
  • 殺人者を死刑にしても殺し合いはやまない。つまり死刑は未然の殺人を懲らしめうるが、天下から殺人をなくすことはできない。傷害を刑しても物を害する者は絶えない。黥・劓は未然の犯罪を恐れさせうるが、天下から刑をなくすことはできない。
  • だからこれを止めようとするなら、まず徳と礼によるほかない。罪過が明らかになってから刑に入るのだから、殺そうとする者を必ず刑できるわけではなく、放置して死刑にしなければ結局は刑に陥る。刑の働きは、もはや動かしがたい段階でしか及ばないのである。
  • 礼教はそうではない。善悪を明らかにして密かにその情を勧め、事の起こる前に消す。恥辱を示して心の内に恥じさせ、傷つかぬうちに治める。だから過ちがあっても罪として現れるに至らず、悪が薄いうちは刑に及ばない。
  • 最後まで罪に落ちる者は、教化の力の及ばない者である。だからその者一人の生を損ない身体を刑しても、それは天下の害を除くことであって、何の痛みがあろうか。
  • この道に従えば風俗は次第に淳くなり、刑罰は次第に少なくなる。逆に心を化さずもっぱら刑罰に頼れば、民は義の方向を見失い、動けば刑網に落ちる。それで世の平和を求めても得られるはずがない。
  • 周の成王・康王の代が刑を用いずに済んだのは、三千条の条文を按じたからではなく、徳による教化で刑が清らかになった結果である。
  • 漢初は酷刑の弊を懲りて寛厚の論を務め、公卿大夫は互いに人の過ちを口にするのを恥じた。文帝は登用にあたり静黙を旨とし、賄賂を受けた張武にはかえって金を賜って恥じ入らせ、朝見しない呉王には礼を厚くしてその失を許した。それゆえ吏民は業を楽しみ風俗は篤くなり、裁かれる罪は年に四百件ほどとなって刑を措くに近づいた。徳と刑を併せ用いた効果である。
  • 世の論者が刑罰の効用を説きながら徳教の利を先に置かないのは、大きな誤りである。
  • 今、死刑の制は古と同じだが、死を免れた者は五年以下の刑で済み、首かせを解かれればまた人並みに扱われる。だから民は悪を恥じず、しばしば盗みや姦を犯し、刑徒ばかり多くて乱は治まらない。
  • もし教化の及ばぬ者がひとたび刀鋸を受ければ生涯人に数えられず、隣里ですら恥じるのだから、まして朝廷ではなおさらである。そうなれば夙沙や趙高のような輩は悪を施す場を失い、陳紀の言う「淫行も穿窬の姦もなくなる」がまったく実現する。
  • 古は言を察し行いを観て善悪を明らかにした。それゆえ君子が刑辟から遠いのは当然である。不幸にして触れた場合は八議によって許される。もし天下が和していれば、司馬遷の冤のようなものは行き過ぎた刑の及んだ例である。道を失えば死刑すら免れないのだから、まして肉刑においてをや。
  • また肉刑を科すことと、罪なき人を殺すこととは道理が異なるのに、死と生を同列に論ずる議論は粗雑である。
  • 漢書によれば、右足切りに当たる罪、および殺人犯が自首した場合、役人が財を受け取った場合、官物を管理してそれを盗んだ場合は、みな棄市とされた。班固が「生かすべきなのに死なせている」と言ったのはこれである。
  • 今、身体を切り刻む惨さには忍びないと言いながら、命を絶つ悲しみには平然としている。これこそ政治の根本として先に考えるべきことであり、国を治める者が改めるべきところである。

荊州の陥落と徐庶の別れ

  • 劉表が病死し、末子の劉琮が荊州を継いだ。
  • 九月、劉琮は曹操に降った。劉備は軍勢を率いて南下したが、曹操が精鋭の騎兵で追撃し、当陽で追いついた。劉備は諸葛亮ら数十騎とともに脇道から漢津へ向かった。
  • 徐庶は母を捕らえられ、劉備に別れを告げ、自分の胸を指して、もともと将軍とともに王覇の業を図ろうとしたのはこの心があってのことだが、今は老母を失って心が乱れ、事の役に立たない、ここでお別れしたいと言い、曹操のもとへ去った。

赤壁前夜の孫呉の議論

  • 曹操は荊州を得て水軍十万を擁し、流れに乗って東へ攻め下ろうとした。呉の人々は震え上がり、議論する者はみな孫権に曹操を迎え入れるよう勧めた。
  • 周瑜だけは反対し、曹操は漢の丞相を名乗っているが実体は漢の賊である、将軍は神武の雄才を備え父兄の遺業を継ぎ、江東を割拠して土地は数千里、精兵は足り英傑は業を楽しんでいる、本来なら天下を横行して漢のために害を除くべきなのに、曹操のほうから死にに来るのをどうして迎える必要があろうか、と述べ、精兵三万を得れば必ず破ってみせると請け合った。
  • 孫権は、老賊が漢の天子を廃して自立しようとして久しいが、二人の袁氏と劉表と自分を憚っていただけだ、今その数雄はすでに滅び自分だけが残った、あなたが討つべきだと言うのは自分の考えと合う、これは天があなたを自分に授けたのだと応じた。

諸葛亮の説得

  • 劉備は夏口に至り、諸葛亮が、事は急を要する、孫将軍に救援を求めたいと申し出た。当時、孫権は柴桑に軍を置いていた。
  • 劉備の使いとして亮は孫権を説いた。天下は乱れ、将軍は江東で兵を起こし、劉豫州(劉備)もまた漢水の南で兵を集め、曹操と天下を争ってきた。今、曹操は大きな難敵をおおむね刈り取り、荊州を破って威は四海に振るい、英雄には武を用いる場がなく、それゆえ豫州はここまで逃れてきた、と。
  • 将軍は自らの力を量って身を処すべきである。呉越の衆で中国と対抗できるなら早く手を切るべきだし、できないなら武器を収め甲を束ねて北面して仕えたらどうか。今、外は服従の名を装いながら内心は迷い、事は急なのに決断できないでいる。禍が至るのは日を置かない、と迫った。
  • 孫権が、それなら劉豫州はなぜ曹操に仕えないのか、と問うと、亮は、田横は斉の一壮士に過ぎなかったがなお義として辱めを受けなかった、まして豫州は王室の血筋で英才は世を覆い、人々の仰ぎ慕うことは水が海に帰するようだ、事が成らなければそれは天命であって、どうして人の下に付けようか、と答えた。
  • 孫権は色をなし、自分は呉全土と十万の兵をもって人に制せられることはできない、決心はついた、曹操に当たれるのは劉豫州しかいない、しかし敗れたばかりの豫州にこの難局を支える力があるのか、と問うた。
  • 亮は答えた。豫州は敗れたとはいえ、戻ってきた精鋭が一万はいる。曹操の軍は遠来で疲れており、豫州を追って一日一夜に三百里を走ったと聞く。これこそ強弩の末は魯縞をも貫けぬというもので、兵法が忌み、必ず上将を失うとされる状況である。
  • さらに北方の人は水戦に慣れていない。荊州の民が曹操に付いたのは兵威に迫られたためで、心から従っているのではない。将軍が猛将に命じて数万の兵を統べさせ、豫州と協力すれば必ず曹操を破れる。曹操が敗れれば必ず北へ帰り、荊と呉の勢力は強まって鼎立の形が成る。成敗の分かれ目は今日にある、と。
  • 孫権は大いに喜び、ただちに周瑜に水軍三万を率いさせ、亮に従って劉備のもとへ行かせ、力を合わせて曹操に当たらせた。

赤壁の戦い

  • 冬十月癸未、日食があった。
  • 十二月壬午、前将軍の馬騰を召して衛尉とした。
  • この月、曹操は周瑜と赤壁で戦い、曹操軍は大敗した。