春二月 伏完への任官と諸将の分裂
- 春二月、執金吾の伏完が輔國將軍となり、三公同様に府を開いた。
- このころ董承と張陽は天子を洛陽に還そうとしたが、楊奉と李樂は反対だった。尚書の上官洪が還都を主張すると、李樂はこれと事を構えて上官洪を害した。これによって諸将は入り乱れ、互いに疑い合うようになった。
- 董承は野王に走り、韓暹は聞喜に駐屯した。胡才と楊奉は韓暹を攻めようとしたが、天子が人を遣わして諭し止めさせた。
夏五月・六月 洛陽への帰還
- 夏五月丙寅、使者を楊奉・李樂・韓暹の陣営に遣わして洛陽まで送るよう求め、楊奉らは詔に従った。
- 六月乙未、車駕は聞喜に行幸した。楊奉と胡才は乗輿を行かせたことを悔い、李樂と謀って天子を引き返させようとし、匈奴を避けるため澠池の東を回るべきだと偽って言ったが、天子は従わなかった。
- 庚子、車駕は北の道を取り、山に沿って東へ進んだが、匈奴の侵寇はなかった。李樂は自分の言が恥ずかしく、また恐れて辞去した。
- このとき糧食が尽きていたが、張陽が野王から乗輿を迎え、百官に食糧を配った。
- 丙辰、洛陽に到着し、故常侍趙忠の邸宅に入った。張陽は宮殿の修繕にあたった。
- 丁丑、天下に大赦した。
- この月、孫策が會稽に入り、太守の王朗は孫策と戦って敗れた。
八月 張陽・楊奉らへの任官と朝廷の困窮
- 八月辛丑、天子は南宮の陽安殿に入った。張陽は自分の功績によるものとして、その名を殿に冠した。
- 張陽は諸将に、天子は天下と共にあるべきで、公卿大臣がいる以上、自分は外の難を防ぐ役目であり、京都にとどまる用はないと言い、野王へ帰った。楊奉も梁に駐屯した。
- 癸卯、張陽が大司馬、楊奉が車騎將軍、韓暹が大將軍・領司隷校尉となり、いずれも節鉞を与えられた。
- 州郡はそれぞれ兵を擁して自立し、朝廷に参じる者がなかった。百官は困窮し、朝に夕を計れないありさまで、尚書以下が自分で薪を採りに出て、塀の間で餓死したり吏兵に殺されたりする者もいた。韓暹らはそれぞれ自分の功を誇り、思うままに振る舞って政事を乱した。
曹操の迎奉と荀彧の進言
- そこで曹操が乗輿を迎える議を起こした。山東はまだ定まらず、韓暹と楊奉は天子とともに京に還った当人で、北は張陽と結んでおり、たやすくは制せられないという意見もあった。
- 司馬の荀彧が勧めて言った。昔、高祖は東征のとき義帝のために喪服を着て天下の心を得た。天子が都を離れて以来、将軍は真っ先に義兵を唱え、ただ山東が乱れていたために關右まで赴けなかったが、それでも将帥を分け遣わし危険を冒して使いを通じた。外で難に当たりながら、心が王室にないことはなかった。それこそ将軍の天下を匡す本来の志である。
- いま車駕が帰還し、義士は本を存する思いを抱き、百姓は旧きを慕う哀しみを懐いている。この時に主上を奉じて民の望みに従うのが大義であり、至公を守って雄傑を服させるのが大略であり、弘き義を扶けて英俊を招くのが大德である。天下に逆らう者があっても累となりえないのは明らかだ。韓暹や楊奉ごときが害をなせるものか。今のうちに定めなければ四方に野心が生じ、後で憂えても間に合わない、と。曹操はこれに従った。
曹操の入朝と賞罰
- 辛卯、曹操は關に至って貢献し、公卿以下に食糧を給した。曹操が韓暹と張陽の罪を並べ立てると、韓暹は恐れて単騎で逃走した。天子は、韓暹と張陽には車駕を助けて洛陽に還した功があるとして、一切罪を問わなかった。
- ここで羽林郎の侯折、尚書の馮碩、侍中の臺崇を誅した。罪ある者を討ったのである。
- 衛將軍董承・輔國將軍伏完・侍中丁沖・种輯・尚書僕射鍾繇・尚書郭浦・御史中丞董芬・彭城相劉艾・左馮翊韓斌・東萊太守楊衆・羅邵・伏德・趙𬎼を列侯に封じた。功ある者に報いたのである。
- 射聲校尉の沮儁に弘農太守を追贈した。節に死んだのを憐れんだのである。
許への遷都
- 符節令の董昭が曹操に説いた。将軍は義兵を起こして暴乱を誅し、天子に朝して王室を輔翼している。これは五霸の功業である。しかし配下の諸将は人ごとに考えが違い、必ずしも服従しない。ここに留まって朝廷を助けるのは形勢として不便で、車駕を許へ移すほかない。ただ朝廷は流離のすえ旧都に還ったばかりで、遠近が安定を望んでいるから、いま再び車駕を移すのは衆心に沿わない。だが非常の事を行ってこそ非常の功がある。将軍は利の多いほうを取られよ、と。
- 曹操は「それこそ自分の本来の志だ」と答え、許への行幸を進言した。天子はこれに従った。
- 庚申、車駕は東へ向かった。楊奉は梁から車駕を待ち伏せようとしたが、間に合わなかった。
- 己巳、車駕は許に到着し、東の陣営に入った。
曹操と袁紹の位次
- 甲戌、鎭東將軍曹操が大將軍となり、あらためて武平侯に封ぜられた。曹操は固辞したが許されなかった。
- 太尉楊彪と司空張喜が病を理由に辞職した。
- 冬十月戊辰、右將軍袁紹が太尉となった。袁紹は自分の席次が曹操の下になるのを恥じて受けようとせず、曹操はそこで大將軍を辞退した。
- 丙戌、曹操を司空・領車騎將軍とした。
- 辛卯、曹操は梁の楊奉を征伐し、楊奉は袁術のもとへ奔った。
- 呂布が徐州を襲い、劉備は曹操のもとへ奔った。
袁渙
- はじめ、陳郡の人袁渙は劉備に茂才として推挙され、江淮の間に難を避けていたが、呂布に抑留された。呂布は袁渙に、劉備を罵る書状を書けと命じた。袁渙が「できません」と言い、再三強いても承知しなかったので、呂布は激怒して兵で脅し、書けば生かし書かねば殺すと言った。
- 袁渙は顔色も変えず笑って答えた。自分は、德こそが人を辱められると聞くが、罵って辱められるとは聞かない。彼がもし君子なら将軍の言葉を恥とも思うまい。彼がもし小人なら、同じように将軍を罵り返すだろう。そうなれば辱めはこちらにあって彼にはない。それに自分はかつて劉備に仕え、いま将軍に仕えている。ある日ここを去って、また将軍を罵り辱めてよいものか、と。呂布は恥じてやめた。
- 袁渙は字を曜卿といい、司徒袁滂の子である。若い頃から弟の袁微とともに德行で知られた。
袁渙と袁微の問答
- 当時、漢室は衰え天下は乱れようとしていた。袁渙と袁微は閑居して身を安んじ乱を避ける土地を語り合った。
- 袁渙は嘆じて言った。漢室は衰え、乱は日を経ずして起こる。天下が静まらなければ、逃げてどこへ行けばよいか。天が道を喪わせようとしても民は義によって存する。強くしかも礼のある土地でこそ身を庇えるだろうか、と。
- 袁微は言った。古人に、機を知るは神か、という言葉がある。機を見て動くのが君子の大吉のもとだ。天理は盛衰し、漢はもう尽きるだろう。大功のあるところには必ず大事がある。これも君子が深く弁えて退き隠れるべきところだ。しかも兵革が起これば外患が多い。自分は遠く山海に逃れて免れよう、と。
- 天下が乱れると、二人はそれぞれの志のとおりにした。袁微は難を避けて交州に至り、袁渙は劉備・袁術・呂布の間を転々として、後になって曹操に遇った。
袁渙の進言
- 袁渙は曹操に説いた。兵は凶器であり、やむを得ず用いるものだ。道德で鼓舞し仁義で征し、その民を撫でながらその害を除く。そうしてこそ民と生死を共にできる。
- 大乱以来十数年、民が安らぎを望む切実さは、逆さ吊りを解かれたいと願うほどである。それでも暴乱が止まないのは、政が道を失っているからではないか。また、明君は世を救うのが巧みだと聞く。乱には義をもって済い、偽りには素朴さをもって鎮める。世が違えば事も変わり、国を治める道も同じではない。よく見極めねばならない。
- 制度の増減は古今で必ずしも同じではない。だが天下を恵み愛して正しきに返し、武で禍乱を平らげたうえで德で仕上げるのは、百王が変えなかった道である。
- 公は明哲にして世に超え、古人が民の心を得たやり方をすでに実行し、民を失うもとになる事はすでに戒めている。海内は公のおかげで危亡の禍を免れた。ただ民はまだ義を知らない。公が教え導かれれば天下の幸いである、と。
- 曹操は袁渙の言を重んじ、軍諮祭酒とした。袁渙は常々、兵乱の場に身を置くのは自分の得意とするところではないと言い、いつも謙遜して身を構えなかった。
張濟の死と賈詡
- 張濟は關中から南陽へ逃れたが、飛んできた矢に当たって死んだ。従子の張繡がその兵を率いて宛に駐屯した。
- 天子が曹陽を脱したのち、賈詡は李傕のもとを去って段煨に身を寄せ、まもなく張繡に帰した。