後漢紀巻第二十八 孝獻皇帝 興平二年 195年

春正月 大赦と袁紹への任官

  • 正月癸酉、天下に大赦が行われた。あわせて袁紹が後將軍に任じられ、持節・兾州牧とされ、邟鄕侯に封ぜられた。

沮授の献策と袁紹の逡巡

  • 沮授が袁紹に説いた。袁氏は代々朝廷を補佐し忠義を重ねてきた家柄であり、いま天子は都を離れ宗廟は荒れ果てている。諸州郡は義兵の名を掲げながら内心では互いを併呑しようとしており、天子を守り民を救おうとする者がいない。冀州が一応平定された今こそ天子を迎えて鄴に宮を置き、天子を擁して諸侯に号令し、兵馬を蓄えて服従しない者を討てば、誰も逆らえない、と。
  • 袁紹はこれに従おうとしたが、郭圖と淳于瓊が反対した。漢室の衰えは長く、いま再興させるのは難しい。英雄が各地の州郡に拠って万を数える兵を動かす時勢であり、先に鹿を得た者が王となるだけのこと。天子を身近に迎えれば何事も上奏して裁可を仰がねばならず、従えば権力が軽くなり、背けば命令拒否になる。得策ではない、というのである。
  • 沮授はなお、天子を迎えるのは最大の義であり時勢に適った大計でもある、早く手を打たなければ必ず先を越される、機を逃さず速やかに動くべきだと重ねて説いたが、袁紹は結局採用しなかった。

凶作と李傕の詔違反

  • この年は作柄が悪く民の食料が不足したため、厩の馬百余匹を売り、御府と大司農から雑色の絹二万匹を出して馬代とし、公卿以下および自活できない貧民に賜与するよう詔が下された。
  • 李傕は自分の倉の蓄えが少ないと言って詔に従わず、賜与の物資をすべて自分の陣営に運び込んだ。賈詡が、これは天子の意思であり拒むべきでないと諫めたが、聞き入れなかった。

長安の諸将の対立

  • 李傕・郭汜・樊稠はそれぞれ自分の功績を誇って権力を争い、幾度も衝突しかけた。賈詡がそのつど大局を説いて責めたので、内心は不和でも表向きは取り繕っていた。
  • 以前、樊稠が馬騰らを撃ったとき、李利の戦いぶりが不熱心だったので、樊稠は「人がお前の父の首を刎ねようとしているのに、その態度は何だ。私がお前を斬れないとでも思うのか」と叱りつけた。李利らは怒って李傕に樊稠を讒言した。李傕も、樊稠が勇猛で人望を得ていることを内心恐れていた。

二月 樊稠の殺害

  • 二月、李傕は右將軍樊稠と撫軍中郎將李象を殺した。これによって諸将はみな疑心を抱くようになった。

李傕と郭汜の離間

  • 李傕はしばしば酒宴を設けて郭汜を招き、時には泊まらせた。郭汜の妻は、李傕が郭汜に侍女を与えて夫の愛を奪うのではないかと恐れ、二人を仲違いさせる機会をうかがった。
  • 李傕から食物が届けられたとき、妻は豆豉を毒に見せかけ、郭汜が食べようとすると「外から来た食物には何かあるかもしれません」と言って豉を摘み出して見せ、「勇者が二人並び立つことはありません。もともと疑っておりましたのに、あなたは李公を信じておられる」と告げた。
  • 後日、李傕がまた郭汜を招いて泥酔させると、郭汜は毒を盛られたと疑い、糞汁を絞って飲み、ようやく落ち着いた。こうして両者は互いを疑い、兵を整えて攻め合うに至った。

三月 天子、李傕の陣営へ移される

  • 天子は侍中と尚書を遣わして李傕と郭汜を和解させようとしたが従わず、郭汜は天子を自分の陣営に迎える計画を立てた。しかし夜に脱走者が出て李傕に密告した。
  • 三月丙寅、李傕は兄の子の李暹に数千の兵を率いさせて宮を包囲し、車三台で天子を迎えに来させた。太尉楊彪が、古来帝王が臣下の家に居たためしはなく、事を起こすなら天心に適うべきで、こうした振る舞いは正しくないと述べたが、李暹は将軍の決定は動かせないと答えた。
  • 天子が一台、貴人伏氏が一台、黄門侍郎の賈詡と左靈が一台に乗り、他の臣下はみな徒歩だった。司徒趙温と司空張喜は急変を聞いて役所から出て車駕に随行した。
  • 車駕が出るとすぐ兵が殿中に入り、宮人と御物を掠奪した。この日、天子は李傕の陣営に移った。李傕はさらに御府の金帛や乗輿の器物・衣服を自陣に運び込み、宮殿に火を放って、宮府も民家もことごとく焼き尽くした。

郭汜による公卿の抑留

  • 天子は再び公卿を遣わして李傕・郭汜を和解させようとしたが、郭汜は太尉楊彪・司空張喜・尚書王隆・光禄勲劉淵・衛尉士孫瑞・太僕韓融・廷尉宣璠・大鴻臚榮邰・大司農朱雋・將作大匠梁邵・屯騎校尉姜宣らをそのまま抑留した。

夏四月 朱雋の死

  • 夏四月、郭汜が公卿をもてなして李傕攻撃を議した。楊彪が、群臣がそろって一人と争い、一方は天子を奪い一方は公卿を人質にしている、こんなことが許されるかと言うと、郭汜は怒って斬ろうとしたが、中郎將楊密が諫めてやめた。
  • 朱雋はもともと剛直な人柄で、この一件から病を発して死んだ。

朱雋の経歴

  • 朱雋は字を公偉といい、會稽郡上虞の人。若くして学問を好み、郡の功曹となった。
  • 太守の徐珪が州から誣告され、郡の役人たちが宦官に賄賂を贈って収めようとしたとき、朱雋は、明府が州に冤罪をかけられているのに命懸けで戦おうとせず賄賂で清い政道を汚すのは、君はいても臣がいないのと同じだ、州の側にこそ汚職があって郡の些細な瑕を探しているのだから、罪を抱えて人を誣告しているにすぎない、自分が都へ出向いて事情を明らかにする、賄賂は無用だと主張した。
  • 徐珪が、州の上奏はもう発たれてしまい間に合うまいと言うと、朱雋は、早馬を仕立てて追えば追いつける、宿駅をたどれば州の文書は手に入ると答えた。
  • その夜のうちに軽騎数十人を出して分かれて州の使者を待ち伏せさせ、果たして文書を奪い取った。朱雋だけが都に着いて上書し、刺史の罪を告発した。奏章は取り下げられ、刺史が召喚されて徐珪の事件は解決した。
  • 刺史の家では刺客を放って道々で朱雋を殺そうとしたが、朱雋はそれを知り、洛陽尉の司馬珍のもとに身を隠し、衣服を変えて去った。徐珪は大いに喜び、朱雋はこれによって名を知られた。
  • 孝廉に挙げられて尚書郎となり、蘭陵令に転じた。先和の初め、交阯の賊梁龍らが郡縣を攻めたとき、蘭陵での治績が評価されて交阯刺史に任じられた。
  • 朱雋は上書して郷里を通って兵を募る許可を求め、天子は許して臨機の処置を認めた。家兵二千人と郡から徴発した兵を合わせて五千人とし、二手に分かれて州境に至り、蒼梧太守陳紹を斬った。使者を出して利害を説くと数万人が降伏し、そのうえで兵を進めて梁龍を斬り、ひと月ほどで平定した。都亭侯に封ぜられ、黄金五十斤を賜った。

皇后伏氏の冊立

  • 甲午、伏氏が皇后に立てられた。皇后は琅邪郡東武の人である。
  • 父の伏完は思慮深く度量が大きく、孝廉に挙げられて五官中郎將・侍中へと昇り、選ばれて陽安長公主を娶った。公主は桓帝の娘である。五男一女を生み、長男が德、次が雅、次が皇后、次が均、次が尊、次が朗であった。皇后は選ばれて後宮に入り貴人となり、伏完は執金吾に転じた。

李傕・郭汜の交戦と天子の窮乏

  • 李傕は羌胡数千人を呼び寄せ、まず御物の絹綵を与え、宮女を与えると約束して郭汜を攻めさせようとした。羌胡はそれが正しい筋でないと知って、力を尽くさなかった。
  • 郭汜は李傕配下の中郎將張苞・張寵らと通じて李傕を攻める計画を立て、丙申に交戦した。矢は天子の殿前にまで及び、李傕の左耳を貫いた。楊奉が外側から郭汜を防ぎ、郭汜の兵は退いた。張苞・張寵は率いる兵を連れて郭汜のもとへ移った。
  • この日、李傕は乗輿をさらに北塢に移し、内外を遮断したので、侍臣たちはみな飢えた顔色をしていた。天子が米五斛と牛骨五具を求めて左右に与えようとすると、李傕は、干し肉と食事は出しているのに米が何に要るのかと言い、腐った牛骨を渡した。いずれも臭くて食べられなかった。
  • 天子は激怒して責めようとしたが、侍中楊琦が封事を奉って諫めた。李傕は辺境育ちで夷狄の風になじんでおり、自分の逆らった行いを自覚して常に不満げな色があり、車駕を黄白城に移して鬱憤を晴らそうとしている。しばらく堪え忍び、その罪を表沙汰にしてはならない、と。天子はこれを容れた。

趙温の書簡

  • もともと李傕は黄白城に駐屯していたので車駕をそこへ移そうと図っており、司徒趙温が自分に同調しないため、趙温を塢の中に閉じ込めていた。
  • 趙温は李傕が乗輿を黄白城に移そうとしていると聞き、書を送った。あなたは董卓の仇討ちに託けたが実際には王城を屠り大臣を殺戮し、天下に釈明のしようもない。いま些細な怨みを争って千金の讐を成し、民は塗炭に苦しんで生きる術もない。それでも悔い改めず禍乱を成し、朝廷が明詔を下して和解させようとしても詔命は行われず、恩沢は日々失われている。そのうえ乗輿を黄白城に移そうというのは老夫には理解しがたい。易にも、一度過ちを犯し再び犯し、三度に及んでも改めなければ頭まで滅ぼされて凶だとある。早く和解して軍を還し駐屯させ、上は天子を安んじ下は生民を全うするほうがどれほど幸いか、と。
  • 李傕は激怒して使者を出して趙温を害そうとしたが、弟の李應が趙温の旧吏だったので諫め、数日してようやく思いとどまった。
  • 天子はこの書のことを聞き、侍中の常洽に、李傕は善悪の分別を知らないのに趙温の言葉はあまりに直截で寒心すべきだと問うた。常洽が、李應がすでに収めましたと答えたので、天子は安堵した。

李傕の祭祀と帯刀の応対

  • 李傕は鬼神を信じ、昼夜祭祀を行い、董卓のために座を設けて三牲を供えて祀った。祭が終わると天子の起居を問い、拝謁を求めた。
  • 李傕は三振りの刀を帯び、一振りを手に持って現れた。侍中も李傕が帯刀しているのを見て刀を帯びて侍った。李傕が郭汜の罪を数え上げると、天子が面と向かって応じたので、李傕は退出して「陛下は賢主だ」と喜んだ。
  • 李傕が、侍中がみな刀を持っているのは自分を狙ってのことかと問うと、侍中は、軍中では当然のことであり国家の故事でもあると答え、李傕は納得した。

閏月 皇甫麗の調停

  • 閏月己卯、謁者僕射の皇甫麗を遣わして李傕と郭汜を和解させようとした。皇甫麗はまず郭汜のもとへ行き、郭汜は命に従った。次に李傕のもとへ行くと、李傕は承知せず言った。自分には呂布を誅した功があり、四年にわたって三輔を平穏に保ったのは国家も知るところだ。郭多は馬盗人の虜にすぎないのに、どうして自分と対等たろうとするのか。必ず誅する。自分の方略と兵力が郭多に足りるかどうか見ればよい。しかも公卿を人質に取るような所業をしておきながら、あなたはそれを助けようというのか、と。郭汜はまたの名を多という。
  • 皇甫麗は説いた。昔、有窮の后羿は弓の技を恃んで患難を思わず滅びた。近くは董公のことも将軍のよく知るところで、内には三公を主とし外には縦横の徒を党としながら、恩を受けた呂布に謀られて瞬く間に首と胴を分かたれた。勇はあっても謀がなかったからだ。いま将軍は上将の身で鉞を抱き節を持ち、子孫親族は国の寵栄に浴している。郭汜が公卿を人質にし、将軍が天子を脅しているのでは、どちらが軽くどちらが重いか。張濟は郭多・楊定と結び、士人層にも支持されている。楊奉は白波の頭目にすぎないが、それでも将軍の行いが非であることは知っている。将軍がいくら遇しても力を尽くすまい、と。
  • 李傕は従わず、叱って皇甫麗を追い返した。皇甫麗は、李傕は詔に従わず言葉も乱れて不順だと言った。
  • 侍中の胡邈は李傕の推挙で任じられた者で、皇甫麗に、李將軍のあなたへの待遇は並でなく、皇甫公が太尉になれたのも將軍の力だ、あの言い方は何事かと責めた。皇甫麗は、自分は代々恩を受け常に天子の側にあった、君が辱められれば臣は死ぬのみ、李傕に殺されても悔いはないと答えた。
  • 天子は李傕が皇甫麗の言を聞くのを恐れ、勅して立ち去らせた。李傕は虎賁の王昌を遣わして皇甫麗を呼び出して殺そうとしたが、王昌はそれとなく促して逃がし、追いつけませんでしたと復命した。
  • 辛巳、車騎將軍李傕が大司馬となった。

夏 荀彧、曹操の徐州出兵を止める

  • この夏、陶謙が病死し、劉備が徐州にあった。曹操はこれを襲おうとしたが、荀彧が諫めた。
  • 高祖は關中を保ち光武は河内に拠って、根本を固めて天下を制した。進んでは敵に勝ち、退いては守りきり、困難があっても大業を成し遂げたのはそのためだ。将軍はもともと袞州から事を起こして山東の乱を平らげ、民心を得た。河と濟のあたりは天下の要地で、荒廃してはいても保ちやすい。ここが将軍にとっての關中・河内であり、まず固めなければ根本を託す先がない。
  • いま李封・薛簡を破ったのだから、兵を東に向けて陳宮を撃てば、陳宮は西を顧みる余裕がなくなる。その間に麦を収め食糧を蓄えれば、一挙に呂布を破れる。呂布を破ってから南で楊州の兵と結び袁術を討ち、淮泗に臨めばよい。
  • 呂布を放置して東征すれば、兵を多く残せば攻撃に足りず、少なく残せば民は城に籠って薪も採れない。呂布が虚に乗じて荒らせば民心はいっそう危うくなり、甄城・范・衛は保てても他は将軍の有ではなくなり、兗州を失うことになる。徐州も定まらなければ、将軍はどこに帰るのか。
  • しかも陶謙は死んでも徐州は容易に落ちない。彼らは先年の敗戦に懲り、恥じて互いに結び表裏をなすだろう。東方はすでに麦を収め終え、必ず堅く守って野を清め将軍を待つ。攻めても抜けず掠めても得るものがなく、十日と経たずに十万の軍が戦わずして自ら困窮する。以前の徐州攻めで厳しい処罰を行ったので、その子弟は父兄を思って人ごとに守りを固め、降伏する気持ちはない。破っても保有できまい。
  • 事にはこちらを捨ててあちらを取るべき場合もあるが、それは大を小に換えるとき、安を危に換えるときであり、一時の勢いを取っても根本が固いなら許される。いまはその三つのいずれも利がない。よくお考えを、と。
  • 曹操は出兵をやめ、あらためて兗州を平定した。

六月 張濟の仲裁と人質の交換

  • 六月、侍中楊琦・黄門侍郎丁沖・鍾繇・尚書左丞魯充・尚書郎韓斌が、李傕配下の楊奉の軍吏楊帛と共謀して李傕を殺そうとした。たまたま李傕が別件で楊帛を誅したため、楊奉は率いる兵を連れて郭汜のもとへ移った。
  • 庚午、鎭東將軍張濟が陝から来て李傕と郭汜を和解させ、乗輿を他県に移そうとした。太官令の狐篤と綏民校尉の張裁を遣わして十度も往復して説かせた。郭汜と李傕は和解を承知したが、愛児を人質に出す件で李傕の妻が惜しんだため、話は決まらなかった。
  • そこへ羌胡がたびたび宮門に来て、天子はここにおられるのか、李將軍が約束した宮人・美女はどこにあるのかと問うた。天子は憂え、侍中劉艾を通じて宣義將軍賈詡に、以前の忠勤ゆえに栄寵を得たのだから今こそ方策を考えよと伝えさせた。賈詡は羌胡の大帥を招いて饗応し、封賞を約束したので、羌胡は引き揚げた。李傕はこれによって勢力を弱めた。
  • そこで尚書の王復が和解の意を述べ、兵力が減っていることもあって李傕はこれに従った。男女の実子を人質とせず、封じて君の号と食邑を与えることとし、郭汜の従弟の郭濟、従子の郭繡、李傕の従弟の李桓を人質とした。

秋七月 長安脱出

  • 秋七月甲子、車駕が宣平門を出た。郭汜の兵数百人が前に立ちはだかり「これは天子ではない」と言い、左右の兵は戟を構えて衝突しかけた。侍中の劉文が進み出て「これこそ天子である」と言い、参乗の者に帷を高く掲げさせ、兵たちを叱ると郭汜の兵は退き、一同は万歳を唱えた。
  • 夜に霸陵に着いた。従者はみな飢えていたが、張濟が身分に応じて食糧を配った。李傕は河陽に出て駐屯した。
  • 丙寅、張濟を驃騎將軍とし平陽侯に封じ、節を与えて三公同様に府を開かせた。郭汜を車騎將軍として節を与え、楊定を後將軍として列侯に封じ、董承を安集將軍とした。乳母の呂貴に平氏君の号を追贈した。

遷幸先をめぐる議論

  • 郭汜は車駕を高陵に向かわせようとしたが、公卿と張濟は弘農がよいとし、大会議でも決しなかった。
  • 尚書の郭浦に詔して郭汜に伝えさせた。朕は艱難に遭って西の都にあり、宗廟を思うにつけ嘆かない日はない。天下が定まらぬのは人の心が改まらないからだ。武人は威を示し儒者は謀を合わせよ。いま東へ移れるのだから、遠きを近しと望み険しきを平地のごとく見よ。弘農は郊廟に近い、ためらうな、と。郭汜は従わなかった。
  • 天子は言った。祖宗はみな洛陽にあり、靈懷皇后の墓所も定まらぬまま参拝もできずにいる。夢にも東へ帰ることを思い、日夜そればかりを期している。河に臨めば広いと言う者はなく、宋を望んで遠いと言う者もない。それなのに、なお西へ行こうというのか、と。そして終日食事をとらなかった。郭浦は、ひとまず近くの県へ行幸されるがよいと述べた。

八月 新豐行幸と天子の裁断

  • 八月甲辰、車駕は新豐に行幸した。
  • 張濟が尚書に働きかけて河西太守劉玄を召還させ、自分の近い者を後任に据えようとした。天子は、劉玄は在任数年、治績があるなら昇進させるべきだし、実効がなければ召して罰すべきだ、理由もなく召還する筋はないと言った。尚書たちは謝罪した。天子は張濟の入れ知恵と知りながら、詔して、張濟には車駕を助けた功があるのに、なぜ正式の上表をせず私的に願い出たのか、この件は一切問わない、とした。張濟はこれを聞いて冠を脱ぎ跣で謝罪した。
  • 後將軍楊定が侍中の尹忠を自分の長史にと願い出ると、詔して、侍中は天子の近侍であり長史は適職ではない、必ず關東の笑い物になる、長安では李傕が政を専らにしたが、いま朕が万機を執る以上、また官爵を乱してよいものか、と退けた。
  • このとき天子は十五歳で、何事も自分の考えから発しており、みなこのような調子だった。

郿への移動と密告

  • 丙子、郭汜らが車駕を郿へ向かわせようとした。侍中の种輯と城門校尉の衆が郭汜の陣中にあってひそかに、後將軍楊定・安集將軍董承・興義將軍楊奉に告げ、新豐に集まらせた。楊定らは乗輿を洛陽へ帰そうとした。郭汜は謀が漏れたと知って、軍を捨てて南山に入った。

臧洪の死

  • この月、曹操が張超を雍丘に包囲した。張超は「自分を救うのは臧洪だけだ」と言った。周囲は、袁紹と曹操は今こそ睦まじく、臧洪は袁紹に用いられているのだから、必ず好誼を捨てて災いを招くような遠征はしないと言った。張超は、子源は天下の義士で根本に背く人ではない、ただ制止されて来られないのが心配なだけだと答えた。
  • 果たして臧洪はこれを聞くと跣で号泣し、手勢を整え、さらに袁紹に兵を請うて張超を救おうとしたが、袁紹はついに許さず、張超は一族もろとも滅ぼされた。
  • 臧洪はこれを恨んで袁紹と絶交した。袁紹は兵を起こして臧洪を囲んだが落とせず、臧洪と同郷の陳琳に書を送らせて説得させた。

臧洪の返書

  • 臧洪は答えて書き送った。隔たっていても寤寐に君を思う、幸い数歩の距離にありながら進退の方針が違うために会えないのは、耐えがたい恨みだ。自分は小人にすぎず、行役の縁で大州を預かり、深い恩と厚い待遇を受けた。今日みずから刃を交えることを喜ぶはずがなく、城に登って兵を並べ、主人の旗鼓を望むたびに旧友との交わりを思い、弓弦を撫で矢を握りながら知らぬ間に涙が顔を覆う。
  • 任を受けた当初は、大事を成し遂げて共に王室を尊ぶのだと思っていた。まさか天下が悦服せず本州が侵され、郡将が危難に遭って援兵を請うても許されず、使者は拘えられ、旧君を羑里のごとき厄に陥れることになろうとは。留まれば忠孝の名を求めながらそれを果たせず、去れば孝を欠く。この二つを量れば軽重も親疎も違う。だから涙を収めて絶交を告げ、この城で命を使うことにした。君子が離れるときは讐敵の国へは行かないという道理による。
  • 自分はこう聞いている。義は親に背かず、忠は君に違わぬと。昔、晏嬰は白刃の前でも志を曲げず、南史は筆を曲げて生を求めなかった。だからこそ図籍に名を著し後世に伝わったのだ。まして自分は堅固な城に拠り、士民の力を動かし、三年の蓄えを散じて一年の資としている。ただ恐れるのは、秋風が塵を揚げるころ伯珪の馬が南に向かい、北辺が急を告げ、重臣たちが帰還を願い出ることだけだ。主人は旗を返して軍を退き、鄴に兵を治めるべきで、いつまでもわが城下に怒りと威を振るうことがあろうか。
  • 行かれよ孔璋、あなたは境外に利を求め、臧洪は君と親のために命を投げ出す。あなたは盟主に身を託し、臧洪は長安に名を連ねた。あなたは自分を、身は死んで名も滅ぶと言うだろうが、自分もまた、あなたが生きて聞こえるところがないのを笑う。悲しいことだ、もとは同じでも末は違ってしまった。努めよ、努めよ、これ以上何を言おう。
  • 袁紹はこの書を見て降る意思がないと知り、兵を増して急攻した。城中は糧が尽き、外に強い援軍もなかった。

落城と臧洪の最期

  • 臧洪は助からないと覚悟し、吏士を呼んで言った。袁氏は無道で図るところは不軌である。しかも郡将を救わなかったのだから、自分は義として死なざるを得ない。だが諸君は関わりがない、この禍を共にすべきではない。城が破れる前に妻子を連れて出よ、と。
  • 吏士はみな涙を流し、明府と袁氏にもともと怨みはなく、いま一朝にして郡将のために苦境に陥られたのに、われらがどうして明府を捨てて去れましょうかと言った。男女七八千人が折り重なって死に、離反する者はいなかった。
  • 城が陥ちると、袁紹はもとから臧洪を親しんでいたので、帷幔を張り諸将を集めた席に臧洪を引き出し、臧洪よ、なぜこれほど自分に背いたのか、今日は服したかと問うた。
  • 臧洪は地に坐して目を閉じ、答えた。袁氏は四代にわたって漢に仕え五人の公を出し、恩を受けたというべきだ。いま王室が衰え輔けを急ぐときに、その機に乗じて分不相応の望みを抱き、忠良を多く殺して姦悪の威を立てている。自分は張陳留があなたを兄と呼ぶのをこの目で見た。ならば臧洪の府君も弟にあたる。ともに力を尽くして国のために害を除くべきなのに、兵を擁して人が屠られるのを傍観するとは何事か。惜しいのは力が及ばず刃を振るって天下のために讐を報いられぬことだ。どうして服したなどと言えようか、と。
  • 袁紹はもともと臧洪を愛し、服させて赦したいと思っていたが、言葉が激しく、ついに用いることはできぬと見て殺した。

冬十月 華陰と段煨

  • 冬十月戊戌、郭汜の一党の夏育・高碩らが乱を起こして乗輿を脅し西へ行かせようとした。侍中劉艾は火が上がって収まらないのを見て、ひとまず一つの陣営に移って火難を避けるべきだと言った。楊定と董承が兵を率いて天子を迎え、楊奉の陣営に移した。天子が出ようとすると夏育らが兵を並べて乗輿を止めようとしたが、楊定と楊奉が力戦して破り、五千級を斬った。
  • 壬寅、華陰に行幸した。寧輯將軍の段煨が御用の衣服・食器および公卿以下の物資を用意し、自分の陣営への行幸を願った。段煨は楊定と不和で、乗輿を迎えるとき馬を下りなかった。侍中の种輯はもとより楊定と親しく、段煨は謀反しようとしていると言った。天子が、段煨は迎えに来たのになぜ謀反というのかと問うと、种輯は、境まで迎えに出ず拝礼に馬を下りず、顔色も変わっていた、必ず異心があると答えた。
  • そこで太尉楊彪・司徒趙温・侍中劉艾・尚書梁紹らが、段煨は謀反しません、臣らは死を賭して保証します、その陣営に行幸なさってよいと述べた。董承と楊定は、郭汜が段煨の陣営に来ていると言った。詔してなぜ分かるのかと問うと、文禎と左靈が、弘農の督郵が知っていると言い、督郵を脅して、いま郭汜が七百騎を率いて段煨の陣営に入ったと言わせた。天子はこれを信じ、道の南に宿営した。

段煨攻撃

  • 丁未、楊奉・董承・楊定が段煨を攻めようとし、种輯と左靈を通じて詔を求めた。天子は、王者が討伐するには上は天意に適い下は民心に合わねばならぬ、司寇が刑を行うときですら君主は食膳を減らすのに、朕に詔を出せというのかと言って許さなかった。种輯は夜半まで固く請うたが、なお許されなかった。楊奉は勝手に段煨の陣営を攻めた。
  • この夜、赤い気が紫宮を貫いた。楊定らは十余日攻めたが落とせなかった。段煨はその間も御膳を供給し、百官にも二心なく仕えた。
  • 司隷校尉の管邰は、段煨を攻めるべきではない、急いで囲みを解き速やかに洛陽へ向かうべきだと主張した。楊定らはこれを嫌い、楊奉に自分の副官にと願い出させて殺そうとしたが、天子はその企みを知って許さず、侍中と尚書を遣わして諭させた。楊定らは詔を奉じて陣営に帰った。
  • 李傕と郭汜は車駕を東へ行かせたことを悔い、楊定が段煨を攻めていると聞くと互いに呼びかけて救援に向かい、ついでに乗輿を追おうとした。楊定は李傕・郭汜の到来を聞いて藍田へ帰ろうとしたが、郭汜に遮られ、単騎で逃走した。

十二月 弘農と沮雋の死

  • このとき張濟はまた李傕・郭汜と結び、乗輿を弘農に留めようと図った。
  • 十二月、弘農に行幸した。張濟・郭汜・李傕が乗輿を追い、衞將軍楊奉と射聲校尉の俎雋が力戦して、乗輿はかろうじて逃れた。
  • 俎雋は傷を負って馬から落ちた。李傕が左右に、まだ生かしておけるかと言うと、俎雋は罵った。お前たちは凶逆にも天子を脅し、公卿を害し、宮人を流離させた。乱臣賊子にもこれほどの者はいない、と。李傕は俎雋を殺した。時に二十五歳。督戦の訾置がその屍を背負って埋めた。
  • 張濟らは乗輿の器物や秘書の典籍を掠め、公卿以下の婦女で死んだ者は数え切れなかった。

曹陽と白波の援軍

  • 壬申、曹陽に行幸した。李傕・郭汜・張濟が力を合わせて追ってきた。董承と楊奉はひそかに使者を河東に送って旧白波の頭目の李樂・韓暹・胡才、および匈奴の右賢王去卑を招き、その衆を率いて来させて李傕らと戦い、大いに破って数千級を斬った。
  • 侍中の史恃と太僕の韓融を遣わして張濟に詔した。朕は宗廟の重さと社稷の霊を思い、心は東の都にあって日夜それを願っている。洛陽は丘墟となり庇う所もないので、弘農に行幸して次第に旧都へ帰ろうとしたのに、諸軍が争いをやめず禍乱となった。いまなお満ち足りず民は塗炭にある。張濟はかねて忠誠篤く王室に心を寄せ、先に命を受けて李傕・郭汜を和解させ大功を立てたではないか。惜しくはないか。張濟よ、百官に食糧を給し、先の功を全うせよ。昔、晉の文公は踐土の会を開いて周室に勲を垂れた。努めぬわけにはいくまい、と。
  • 董承らは李傕らを破ったばかりだから東へ進めると考えた。詔は、李傕・郭汜は自分の罪の重さを知っているから無謀に突撃し吏民を害するだろう、韓融の帰りを待ってから進退を議せよ、としたが、董承らは進むべきだと固執した。

敗戦と黄河渡河

  • 庚申、車駕は東へ発った。董承と李樂が乗輿を護衛し、胡才・楊奉・韓暹・匈奴右賢王が後衛となって李傕らの追撃を防いだが、王師は敗れた。光禄勲鄧淵・廷尉宣璠・少府田芬・御史鄧聘・大司農張義が殺された。
  • 司徒趙温・太常王絳・衛尉周忠・司隷校尉管郃が李傕に捕らえられ、殺されようとしたが、賈詡が、これらはみな大臣である、なぜ害するのかと言ったので、李傕はやめた。
  • 李樂が、事態は急です、陛下は馬に乗って進まれよと言うと、天子は、百官を捨てて行くわけにはいかない、彼らに何の罪があるかと言って聞き入れなかった。このとき随行する虎賁・羽林は百人にも満たなかった。李傕らは陣営を統べて叫び声を上げ、吏士は色を失って散り散りになろうとしていた。
  • 李樂は恐れ、車駕を船に乗せて砥柱を過ぎ孟津へ出そうとした。詔は、千金の子は堂の端に坐らず、孔子も河を渡る危険を慎んだ、それが安んじて居る道といえようかと言った。太尉楊彪は、臣は弘農の者です、ここから東には三十六の難所があり、天子の行かれる道ではありませんと述べた。宗正の劉艾は、臣は以前陝令を務めてその険しさを知っている、昔は河の水先案内がいてもなお危険だった、まして今はそれもない、太尉の懸念はもっともだと述べた。
  • 董承らは劉艾を先に立てるべきだとし、李樂に夜のうちに渡らせて船を用意させ、火を挙げて合図とさせた。
  • 天子は公卿とともに徒歩で陣営を出て河に臨んだが、岸は高さ十余丈あって下りられなかった。馬の手綱をつないで天子の腰に結ぼうという議も出た。このとき皇后の兄の伏德が片手で皇后を支え、もう一方の手に絹十四匹を挟んでいた。董承が符節令の孫儼に人の間からそれを取らせようとすると、左靈が「御用の品を扱うのは何者か」と言い、刀で払って傍らの侍者を殺し、血が皇后の衣にかかった。伏德は、馬の手綱を直に腰に結ぶわけにはいかないと言い、絹で輦を作った。下校尉の向弘が前に立って天子を背負い、河辺まで下ろした。他の者はみな這うようにして下り、岸の上から身を投げる者もあって、冠も頭巾も壊れた。
  • 河辺に着くと士卒が争って舟に殺到したので、董承と李樂は戈で打ち払った。天子はようやく船に乗った。同じ舟で渡ったのは、皇后・貴人・郭と趙の二人の宮人・太尉楊彪・宗正劉艾・執金吾伏完・侍中种輯・羅邵・尚書文楨・郭浦・中丞楊衆・侍郎趙泳・尚書郎馮碩・中官僕射伏德・侍郎王稠・羽林郎侯折・衛將軍董承・南郡太守左靈と府史数十人であった。
  • 大官や吏民で渡れなかった者は非常に多く、婦女はみな兵に掠奪され、凍死・溺死した者は数え切れなかった。衛尉の士孫瑞は李傕に殺された。
  • 李傕は河の北に火が見えたので騎兵を偵察に出し、ちょうど天子が河を渡るのを見て「お前たちは天子を連れ去るのか」と叫んだ。董承は射かけられるのを恐れ、夜具を幕にして防いだ。

安邑と諸将への任官

  • 渡ってから李樂の陣営に入った。河東太守の王邑が貢献し、百官をねぎらった。
  • 丁亥、安邑に行幸した。王邑は公卿以下に身分に応じて綿と絹を配り、列侯に封ぜられた。
  • 庚子、胡才を征北將軍・領并州牧、李樂を征西將軍・領凉州牧、韓暹を征東將軍・領幽州牧とし、いずれも節を与えて三公同様に府を開かせた。
  • 太僕の韓融を弘農に遣わして李傕・郭汜と和睦させ、掠め取られた宮人・公卿百官および乗輿の車数台を返させた。
  • このとき蝗が大発生し、旱で穀物が実らず、後宮は棗と菜を食べた。諸将は統率が取れず上下は乱れ、糧食は尽きた。

洛陽帰還の計画

  • そこで安東將軍楊奉・衛將軍董承・征東將軍韓暹が、乗輿を洛陽へ帰す計画を立てた。
  • 乙卯、建義將軍の張陽が野王から来て董承とともに乗輿を洛陽へ迎える計画を立て、安國將軍・晉陽侯に封ぜられ、節を与えられ三公同様に府を開いた。

袁術の野心と陳珪への書

  • 袁術は江淮に拠って数万の兵を擁し、代々の公侯の家柄で天下の豪傑もみな一族の旧吏だと自負していた。袁氏は陳の舜の後裔であり、黄が赤に代わる順序で運を得るのだと考えた。
  • 当時の沛相陳珪は故太尉陳球の子で、袁術とはともに名族の子弟として若い頃から交際があった。袁術は陳珪に書を送った。昔、秦が政を失い天下の群雄が争って取り、智と勇を兼ねた者が福を受けた。いま世は乱れ再び瓦解の勢いがあり、まことに英傑が事を成す時である。足下とは旧交がある、力を貸してくれまいか。大事が成れば君を我が腹心とする、と。
  • 陳珪は答えた。秦の末世は暴虐をほしいままにし毒が生民に及び、民が命令に堪えられなくなって土崩した。いまは末世とはいえ秦のような苛烈な乱はない。曹將軍は神武にして時に応じ、旧来の法を復興し、凶悪を掃討して海内を清め定めつつあり、その徴はすでに現れている。足下は力を合わせて漢室を助けるべきなのに、陰謀を企てて身をもって禍を試すとは、痛ましいことではないか。迷ってもなお引き返せば免れられる。自分は旧知のよしみで真情を述べる。耳に逆らうとしても骨肉の恩によるものだ、と。

閻象の諫言と袁術の僭越

  • 天子が曹陽で敗れると、袁術は配下を集めて言った。劉氏は衰え海内は沸き立っている。我が家は四代にわたる公輔で百姓の帰するところだ。天に応じ民に順おうと思うが、諸君の意見はどうか、と。
  • 一同は誰も答えなかったが、主簿の閻象が進み出て言った。昔、周は后稷から文王に至るまで徳を積み功を重ね、天下の三分の二を有してなお殷に仕えた。明公は代々栄えたとはいえ、周の盛時には及ばない。漢室は衰えたとはいえ、殷の紂のような暴虐はない、と。
  • 袁術は黙り込んで不快とし、そのまま符命を作り出し、百官を置いた。