春正月 大赦と袁紹の懐柔
- 春正月辛亥、天下に大赦した。
- 侍中の周毖と城門校尉の伍瓊が董卓に説いた。廃立は重大事で常人の及ぶところではなく、袁紹は大局を解さず恐れて出奔しただけで他意はない。今きびしく追及すれば必ず変事になる。袁氏は四代にわたって恩を積み、門生や故吏は天下に広がっており、豪傑を集めて徒党を組めば英雄がこれに乗じて起こり、山東は公のものではなくなる。むしろ赦して一郡の太守に任じれば、紹は罪を免れたのを喜び後患はない、と。
- 董卓はもっともだとし、袁紹を渤海太守とした。
弘農王の死
- 癸丑、董卓が弘農王を殺した。郎中令の王儒を遣わして鴆毒をすすめさせ、悪気を払う薬だと称した。王は病もないのに薬とは自分を殺す気だと言って拒んだが、強いられ、唐姫や宮人とともに飲むことになった。
- 王は自ら歌った。天道は移ろいやすいのに巡り合わせはなぜこうも苛酷なのか、万乗の位を捨てて藩国を守る身に退き、逆臣に迫られて命は永らえない、いま汝と別れて幽冥へ去る、という内容であった。
- 唐姫が立って舞い歌った。皇天は崩れ后土は頽れ、帝王の身でありながら命は夭折し、死者と生者の道はここで分かれる、独り残される我が身を悼んで心が哀しい、という内容であった。歌い終えて涙を流し、居合わせた者は皆悲しんだ。
- 王は唐姫に、あなたはもと王者の妃であるから、これから先も吏民の妻となるような身ではない、自愛せよ、これで別れだと告げ、薬を飲んで死んだ。
- 帝はこれを聞き、座を下りて哀を尽くした。
関東諸将の挙兵
- このとき冀州刺史の韓馥、豫州刺史の孔伷、兖州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、渤海太守の袁紹、東海太守の喬瑁、山陽太守の袁遺、河南太守の王匡、済北相の鮑信、後将軍の袁術、議郎の曹操らがそろって義兵を挙げ、董卓を誅そうとした。兵はそれぞれ数万人。袁紹を盟主に推し、紹は自ら車騎将軍を号し、曹操は奮武将軍を行った。
- 長沙太守の孫堅も挙兵して董卓を誅そうとし、南陽に至るころには衆は数万に達した。董卓は堅を破虜将軍とし、和解して事を収めることを望んだが、堅の討伐の意欲はいよいよ盛んで、進んで陽人に屯した。
- 董卓は大いに怒り、胡軫と呂布を遣わして堅を撃たせたが、建平の戦いで堅がこれを大破した。
長安遷都の議
- 董卓は山東の兵が盛んなのを見て関中への遷都を考え、公卿を召して議した。高祖が関中に都して十一世、後漢が中興して洛陽に都してから光武以来また十二世になる、石苞室の讖にてらして長安に還都すべきだ、と述べた。百官で応じる者はいなかった。
- 司徒の楊彪が反論した。遷都と制度の改変は天下の大事であり、民心に沿い時宜に従うべきである。昔、盤庚が五たび遷ったときは殷の民が皆恨んだので、三篇を作って諭した。かつて王莽が簒奪して五常を乱し、更始・赤眉の変で長安が焼かれ百姓が損なわれ、民は流亡して百に一人も残らなかった。だからこそ光武は命を受けて洛陽に都を移したのであり、それは時宜にかなっていた。いま聖主を立てて漢の祚が盛んになろうというときに、理由もなく宗廟宮殿を捨て先帝の園陵を棄てれば、百姓は驚き恐れてこの意図を解さず、必ず沸き立ち群がって擾乱を招く。石苞室の讖など妖邪の書であり信用できない、と。
- 董卓は色をなし、楊公は国家の計を阻む気かと言った。関東では黄巾が乱を起こし各地で賊が蜂起している、長安は崤山と函谷の険に守られた国の重要な防壁であり、また隴右から材木を取るのも難しくはなく、杜陵の南山のふもとには孝武帝の時代の窯の跡があって甎はすぐにも焼ける、宮室官府など言うに足りない、百姓や小人といちいち相談するまでもない、逆らう者があればわが大兵で追い立てるまでだ、と言い放った。百官は皆顔色を失った。
- 太尉の黄琬が、これは大事であり楊公の言も考慮に値するのではないかと言った。
- 司空の荀爽は言った。相国とて遷都を好んでするわけではあるまい。いま山東で兵が起こり一日で禁じられるものではないが、関西はなお静かであるから、遷って秦漢の地勢を頼みとしようというのだ。強く争いつづければ禍が必ずどこかに帰することになる、自分はそれをしない、と。
- 董卓は有司に上奏させて楊彪と黄琬を罷免させ、二月丁亥、太尉の黄琬と司徒の楊彪が策免された。
伍瓊・周毖の誅殺と朱儁の出奔
- はじめ董卓は伍瓊と周毖の議を用いて天下の名士を選任したが、韓馥らは任地に出ると皆兵を挙げて卓を図った。卓は二人が自分を売ったと考えて憤っていた。
- 西遷の議に際して瓊と毖が強く諫めると、卓は激怒した。おまえたちが善士を抜擢せよと言うから、二君の計に従って天下の心に背かぬようにしたのに、その者どもは任地に着くなり兵を挙げてわしを図った、わしが何を裏切ったかと言い、瓊と毖を斬った。
- 楊彪と黄琬は恐れて卓のもとに詣で謝罪した。小人が旧きを慕う情に引かれただけで国事を阻む意図はなかった、考えの至らぬ罪を受けたい、と述べた。卓は一時の憤りに任せて瓊と毖を殺したものの、すぐに後悔していたので、二人を光禄大夫に表した。
- 董卓は河南尹の朱儁を太僕とし自分の副にしようとしたが、儁は受けず、遷都は不可であり必ず天下の望を裏切って山東の隙を生むと進言した。
- 有司が、召して拝を受けさせようとしたのに拒み、遷都のことは尋ねてもいないのに述べるのはなぜかと詰った。儁は、相国の副という職は重すぎて自分には堪えられない、遷都は計ではなく臣にとって急務のことである、堪えられぬ役を辞して急務を進言するのは臣として当然だと答えた。
- 有司が、遷都のことはもともと計画されておらず、あったとしてもまだ公にされていないのにどこで聞いたのかと問うと、儁は相国の董卓が自分に詳しく語ったのだと答え、有司は屈服させられなかった。
- 朝廷の大臣や尚書郎の華歆らは皆これを称賛した。こうして儁は卓の副にならずにすんだが、卓はますます恨んだ。儁は必ず卓に陥れられると恐れ、荊州へ奔った。
- 光禄勲の趙謙が太僕となり、王允が司徒・守尚書令となった。
遷都の実行と洛陽の焼却
- 丁亥、天子が長安へ都を移した。董卓は洛陽に留まって屯し、宮室をことごとく焼き、民を長安に移した。
- 壬辰、白虹が日を貫いた。
- 三月己巳、車駕が長安に至った。長安は赤眉の乱で宮室が焼き尽くされ、高廟と京兆府の建物が残るのみであったが、そのまま都とした。
- 戊午、董卓が太傅の袁隗とその三子を殺した。
酸棗の会盟と滎陽の敗戦
- このとき袁紹は河内に屯し、陳留太守の張邈、兖州刺史の劉岱、東郡太守の喬瑁、山陽太守の袁遺は酸棗に屯し、後将軍の袁術は南陽に屯し、豫州刺史の韓馥とともに酸棗で大会し、諸州郡が盟を結ぼうとした。ところが互いに譲り合って先に立とうとする者がなく、広陵功曹の臧洪が壇に上って血をすすった。
- 臧洪の盟辞は、漢室が不幸で王綱が統を失い、賊臣董卓が隙に乗じて害を欲しいままにし、禍は至尊にまで及んで百姓を虐げ、社稷が喪われ四海が覆ることを恐れる、そこで兖州刺史劉岱・豫州刺史孔伷・陳留太守張邈・東郡太守喬瑁・広陵太守張超らが義兵を糾合して国難に赴く、同盟する者は心を一つにし力を尽くして臣節を致し、首を落とし命を失おうとも二心を抱かない、この盟に背く者は命を落とし子孫を残せぬようにせよ、皇天后土と祖宗の明霊がこれを見ている、というものであった。
- 洪の言葉は激しく、涙を流しながら述べたので、聞く者は兵卒や下働きに至るまで奮い立たない者がなかった。
- しかし董卓の兵は強く、袁紹らは先に進もうとしなかった。
- 曹操は言った。義兵を挙げて暴乱を誅すのに、いま衆はすでに集まった、諸君は何をためらうのか。のちに董卓が山東の挙兵を聞き、王室の尊を頼み二周の険に拠って東に向かって天下に臨めば、無道な行いであっても十分に患いとなる。いま卓は宮室を焼き天子を脅して遷し、海内は震動して行き場を知らない。これは天が卓を滅ぼす時であり、一戦で天下は定まる、失ってはならない、と。
- 曹操は軍を西へ引いて滎陽で戦ったが、その兵は大敗した。
青州刺史焦和と臧洪
- このとき青州刺史の焦和も挙兵して董卓を討とうとしたが、諸将とともに西へ行くことにばかり努め、民のための守りを固めなかった。黄河を渡り始めたころには黄巾がすでに境内に入っていた。
- 青州は富み軍装も整っていたが、焦和は賊を見れば北へ逃げ、戦塵を交えることも旗鼓を交えることもなかった。卜筮を好み鬼神を信じ、内に入って会えば清談は天を突くほどなのに、外に出てその政を見れば賞罰が乱を招くありさまで、州はついに荒れ果てて廃墟同然となった。
- ほどなく焦和は病没した。袁紹は臧洪に青州を領させ、洪が和の民を撫すると盗賊は逃げ散った。紹はその能力に感嘆し、東郡太守に移した。
夏四月 孝経六隠事をめぐる論争
- 夏四月、大司馬の劉虞を太傅とした。
- 尚書令の王允が上奏した。太史の王立が孝経六隠の事を説いており、朝廷でこれを行えば災いや邪気を除いて聖躬に益がある、と。
- 詔は、王者は徳を修めるべきだと聞いてはいるが、孔子が孝経を作ってこのような邪を却ける法を設けたとは聞かない、と難じた。
- 王允は重ねて奏請した。王立の学は深厚であり、これは聖人の秘奥であって行っても損はない、と。帝はついに従った。
- 吉日には王允と王立が入って帝のために孝経一章を誦し、二本の竹簞に九宮を描き、日時に応じて出入させた。王允が害されてからは行われなくなった。
史論(袁宏曰)
- 神は聡明正直であって人の行いに応じて働くものである。王者が徳を崇め手厚く薦めて天地を饗するのは、それで至極というべきだ。六隠の事のごときは聖人の道ではない。匹夫でさえ行うべきではないのに、まして帝王の命においてはなおさらである、と論じた。
五月 司空荀爽の死
- 五月、司空の荀爽が薨じた。
- 爽は字を慈明といい、朗陵令の荀淑の子である。十二歳のとき太尉の杜喬が師として遇した。孝廉・賢良に挙げられたが、党錮の禁に遭って海辺に隠れ、さらに南下して漢水のほとりに身を隠した。党事が解けると招聘が相次ぎ、有道・博士に徴されたが、いずれも就かなかった。
- 献帝の初め、董卓が爽を薦めて平原相としたが、任地に着かぬうちに徴されて光禄勲となり、府に至って三日で司空に遷った。
- このとき忠正の士は憤りを口にし、道を懐く者は深く黙していた。爽は董卓の朝廷で禍を免れたうえ、旬日のあいだに人臣の極位に至ったので、君子はこれを譏った。
- はじめ爽の兄弟八人は八龍と号された。爽が最も儒雅の名が高く、兄の子の荀彧は世に重んじられた。
六月 貨幣の改鋳と辺境
- 六月辛未、光禄大夫の种弗が司空となった。
- 董卓は洛陽の諸陵や大臣の墓を発き、洛陽城中の鍾や簴を壊して銭を鋳ようとしたが、いずれも文が成らなかった。改めて五銖銭を鋳たものの、文字も郭も掴みどころのない粗悪なもので、そのため貨幣は軽く物価は高騰し、穀物一斛が数百万にまで達した。
- 遼東太守の公孫度が自ら平州牧を号し、漢の世祖の廟を立てた。
- 単于の羌渠が国人に殺されたあと、その子の於扶羅が立つべきところ、国人は須卜を単于に立てた。於扶羅は朝廷に訴え出たが、折しも霊帝が崩じて王室は乱れていた。於扶羅は数千騎を率いて白波賊とともに冀州の境を侵したが、百姓は皆城壁を高くして野を清め、掠奪の獲物は少なかった。帰国しようとしても国人が受け入れず、そのまま河東に留まった。