後漢紀巻第二十四 孝靈皇帝 中平元年 184年

張角の挙兵

  • 春正月、鉅鹿の人張角が謀反を企てた。もともと張角と弟の張良・張宝は自ら大医と称し、善道を行った。病人が跪拝して過ちを告白すると病がかなり癒えたので、次々に評判が広まった。
  • 十余年のうちに弟子は数十万人、天下に広く行き渡り、三十六の坊を置いてそれぞれ責任者を定め、三月五日を期して一斉に兵を挙げることにしていた。
  • ところが張角の弟子で済陰の人唐客が張角を告発する上書をした。天子は使者を遣って張角を捕らえさせようとしたが、張角は事が露見したと知り、昼夜を分かたず諸坊に命じて急ぎ挙兵させた。
  • 二月、張角らはみな兵を挙げ、あちこちに数十から百ほどの集団で屯集した。大きいものは一万余、小さいものでも六、七千あった。州郡は急なことに対処できず、二千石や長吏はみな城を棄てて逃げ、京師は動揺した。張角の党はみな黄色の頭巾を着けたので、世に黄巾賊と呼ばれた。

劉陶の死

  • 以前、司徒の楊賜・衛尉の劉寛・司空の張済・御史の劉陶がそろって張角の謀反を陳べ、早く捕らえて乱の根を絶つべきだと言ったが、霊帝は用いなかった。張角が乱を起こすと天子は劉陶の言を思い出し、中陵侯に封じた。
  • 劉陶は字を子奇といい、潁川郡潁陰の人である。落ち着いた勇気と大きな謀があり、威儀を整えず小節にこだわらなかった。人と交わるにも志が合わなければ富貴の者でも顧みず、行いが自分と同じであれば貧賤の者でも尊んだ。悪を憎むことが激しく、そのため憎まれた。
  • 司徒府に辟召され、尚書・侍中に移り、たびたび直諫したので権臣に憎まれ、京兆尹に出された。霊帝はもともと劉陶の才を重んじ、召して諫議大夫とした。
  • 宦官たちが劉陶は張角と通じていると讒言し、霊帝もこれを疑って、劉陶を捕らえて黄門北寺で取り調べさせた。宦官は取り調べを煽り、拷問は極みに達した。
  • 劉陶は使者に向かって、朝廷は先に自分を封じておきながら、なぜ徳を一定に保たず、へつらう者の讒言を用いるのか、自分は伊尹・呂尚と同列になれず三人の讒者と同輩にされるのが恨めしい、今、上は忠直の臣を殺し、下には憔悴した民がいる、まもなく無実の臣を悔やむことになるだろうが、そのときにはもう間に合わない、と言い、食を断って死んだ。

何進の大将軍就任と防備

  • 三月戊申、河南尹の何進が大将軍となり、軍を率いて都亭に駐屯した。函谷・伊闕・大谷・轘轅・盟津にはみな都尉を置いて張角に備えた。
  • そこで張角に連座した者の取り調べが行われ、官府や宮中の側近で死んだ者は数千人に及んだ。

呂強の献策と自殺

  • 霊帝は内心黄巾を憂え、掖庭令の呂強に賊を鎮める方法を問うた。呂強は、側近の姦悪な者を誅すること、中常侍の丁粛・徐衍・李延・趙祐・郭耽の五人は朝廷で忠清と称され本当に用いるに足りること、党人を赦して人材登用を選び直すことを挙げ、そうすれば賊など憂えるに足りないと答えた。
  • 壬子、大赦して党人の禁をすべて解いた。
  • 呂強は字を漢盛といい、河南郡成皋の人である。忠貞で公に奉じ、へつらう寵臣とは同調しなかった。
  • 当時は権勢のある邪な者が寵を恃み、政治は賄賂で決まり、郡国の貢献もまず賄賂を贈ってはじめて通った。側近の群臣は君主への私的な進物を好んだ。
  • 呂強は諫めて、陛下の物はもともと天下から出ているのに、納入される官府では必ず「導行の財」と称する上前が取られ、それもみな民から出ている、十を徴発して一を貢ぐようでは費用ばかり多く献上は少なく、姦吏に細工をさせ私門を富ませるだけだ、と述べた。
  • また、おもねる臣は私物を献上したがるが、へつらってその場をつくろうために持ち込む物はみな御府にすでにある物であり、諫めに従うべき臣に自らを汚させることはない、とした。
  • さらに人材登用について、旧制では選挙を三府に委ね、尚書は上奏を受けるだけで、それぞれ試用して成果を求め、成果が調べられないときに尚書へ回し、尚書が虚実を調べて処罰した、そのため三公は人を選ぶたびに掾属と議論して行状を調べ器量を測ったが、それでも職が廃れ官が荒れることはあった、いま尚書だけに任せ、あるいは詔で任用すれば、三公は選挙の責任を免れ、尚書にも考課の労がなく、陛下だけが空しく苦労して、政治が乱れても責める相手がいなくなる、と述べた。
  • 上奏を見た霊帝はこれを中常侍の夏惲と趙忠に示した。二人は、言うことは正しいが呂強は清潔を自負して不平を抱き、外心があると答えた。党人を赦してからは宦官たちが呂強を憎み、常侍は誰もが退こうとした。趙忠と夏惲は共謀して、呂強は党人と謀り、しばしば霍光伝を読んでいると訴え、呂強の兄弟も任地で貪汚だと言い立てた。
  • 霊帝は呂強が霍光伝を読んでいると聞いて不快になり、中黄門に武器を持たせて呂強を召した。呂強は召されたと聞いて怒り、自分が死ねば乱兵が起こる、大丈夫は忠を国史に記されたいのであって、獄吏に応対したくはない、と言って自殺した。

討伐軍の派遣と傅燮の上書

  • 詔で公卿・百官に身分に応じて馬と弩を供出させた。
  • 中郎将の盧植・左中郎将の皇甫嵩・右中郎将の朱儁がそれぞれ節を持って黄巾を征討した。
  • 護軍司馬の傅燮は賊を討ちながら情勢を見て上書し諫めた。その趣旨は、天下の禍は外から来るようでもみな内から起こる、だから虞舜は朝に立つとまず四凶を除き、そののち十六相を用いた、悪人を除かなければ善人は進めない、というものだった。
  • 張角は趙・魏に起こり黄巾は六州を乱したが、これはみな内輪から釁が生じて禍が四海に及んだのだ。自分は軍務を受け、詔を奉じて罪を討ち、潁川に着いてからは戦って勝たないことはない。黄巾は抑えられても、その釁の原因は内にある。
  • 陛下は仁徳寛容で忍びないことが多く、宦官が権を弄び、忠臣の憂いはいよいよ深い。邪と正が国にあるのは氷と炭のようで同じ器には共存できない。彼らは正しい人の功が顕れれば自分たちの危亡の兆しが見えると知って、巧みな言葉と飾った説で偽りを言い立てる。孝子ですらたびたび告げられれば疑われ、市に虎がいるという話も三人が言えば信じられる。よく察しなければ、白起がまた杜郵で死を賜るように、節を尽くす臣が忠を述べる場を失うことを恐れる。
  • 虞舜が四罪を挙げたことに倣い、讒佞に追放の罰を加え、邪臣が真っ先に誅されると天下に知らしめ、忠正の者が誠を尽くせるようにすれば、善人は進もうと思い、姦悪は討たずとも自ら滅びる。忠臣が君に仕えるのは孝子が父に仕えるようなもので、情を尽くして言わずにいられない、たとえ自分が鉄鉞の刑に伏しても、陛下がその言を少しでも用いれば国の福である、と結んだ。
  • 上奏を見た中常侍の趙忠はこれを怨んだ。

官の売買と三公の交替

  • 夏四月、太尉の楊賜が賊の跳梁を理由に罷免され、太僕の鄧盛が太尉となった。司空の張済は長患いで免ぜられ、大司農の張温が司空となった。
  • はじめて官を売り、関内侯から下は虎賁・羽林に至るまで、身分に応じた額の銭を納めさせた。
  • 皇甫嵩と朱儁が連戦して利を失ったので、騎都尉の曹操に兵を率いさせて皇甫嵩らを援けさせた。

潁川の大勝と盧植の召還

  • 五月乙卯、黄巾の馬元義らが都で謀反を企て、みな誅された。
  • 皇甫嵩と朱儁が潁川で黄巾の波才を撃って大破し、数万を斬った。詔で皇甫嵩を行車騎将軍・都郷侯、朱儁を西郷侯に封じた。
  • このとき傅燮は功が多く封じられるはずだったが、趙忠に讒言された。霊帝は傅燮を知っていたので罪には問わなかったが、封爵は得られなかった。
  • 左中郎将の盧植は張角を討ちながら克てないとして廷尉に召され、死一等を減じられた。中郎将の董卓が盧植に代わった。
  • 実際には盧植は命を受けてから黄巾をたびたび破り、張角らは広宗に籠っていた。盧植が囲んで塹を掘り、梯を作って今にも落とそうというところへ、霊帝が小黄門の左豊を遣って賊の情勢を視察させた。左豊に賄賂を贈るよう勧める者がいたが盧植は従わなかった。左豊は帰って、広宗の賊は破りやすいのに盧中郎は塁を固めて軍を休ませ、天の誅を待っているだけだと報告した。霊帝は怒り、盧植は罪に問われた。

張均の上書

  • 六月、中郎将の張均が上書した。その趣旨は、張角が兵を起こして乱を為し、万民が喜んで従ったのは、もとはといえば十常侍が父子兄弟・婚姻の縁者・賓客を放って州郡を握らせ、財利を独占して百姓を虐げたためである。百姓は訴える先がなく、そのため張角のもとで道を学び、不軌を謀って賊となった。今すべての十常侍を斬り、その首を南郊に懸けて天下に謝れば、兵は自ずと消え、一戦で勝てる、というものだった。
  • 霊帝がこの上章を十常侍に示すと、みな冠を脱ぎ叩頭して、自ら洛陽の獄に下り、家財を軍糧に充て、子弟を先鋒にすると願い出た。霊帝は「これは正直なだけの狂人だ、十常侍のうち一人くらい良くない者がいるにすぎない」と言った。
  • 天子は御史に張角の道を行った者を取り調べさせた。御史は張均が黄巾の道を学んだと奏し、張均は捕らえられて獄中で死んだ。

東郡・南陽の戦い

  • 秋八月、皇甫嵩が東郡で黄巾の卜巳を撃って大破し、万余を斬った。
  • 中郎将の董卓は張角を討って克てず、廷尉に召され死一等を減じられ、皇甫嵩が代わった。
  • 朱儁は南陽で黄巾の趙弘を攻めたが、六月から八月まで攻め落とせなかった。有司が朱儁を召還するよう奏したが、司空の張温が反対し、昔秦が白起を用い、また楽毅も長い年月を経てようやく敵に勝った、朱儁は潁川で成果を挙げ、軍を南へ向けて方策もすでに立てている、軍に臨んで将を替えるのは兵家の忌むところだ、少し日を与えて成果を求めるべきだと述べ、霊帝は従った。
  • 詔で朱儁を厳しく責めたので、朱儁は誅を恐れて趙弘を急襲し、大破して斬った。朱儁は上虞侯に封じられた。
  • 賊はあらためて韓忠を帥とし、十万と号して宛に拠り朱儁を防いだ。兵力では及ばなかったが、朱儁は急いで攻めようとして、まず塁を築き土山を起こして城に臨み、攻城具を修理するふりをして西南で兵を誇示した。そのうえで自ら甲を着け精鋭を率いて東北から攻め、城内に入った。
  • 韓忠が降伏を乞い、議郎の蔡邕と司馬の張超はこれを受け入れようとしたが、朱儁は反対した。その論は、形は同じでも勢いの異なる場合がある、秦・項の際には民に定まった主がなかったから、来る者を勧誘するために賞があった、今は海内が統一され、黄巾だけが冦を為しているのだから、降伏を受け入れても他に勧める効果はなく、罰すればこそ悪を懲らしめられる、いま降伏を受ければかえって反逆の気を開き、有利なら戦い不利なら降るというやり方を許すことになり、敵を放ち賊を伸ばす愚策だ、というものだった。
  • そこで兵を進めて攻めたが、連戦して勝てなかった。朱儁は土山に登って眺め、蔡邕を顧みて言った。今は外の囲みが厳重で内の陣は追い詰められている、だから韓忠は降伏を乞い、受け入れられないので死に物狂いで戦うのだ、一万人が心を一つにしても当たり難いのに、まして十万では害が多すぎる、包囲を解いて緩めれば勢い自ら出てくるだろう、出れば意気が散るから破りやすい、と。
  • そこで包囲を解いて城に入ると、韓忠は果たして出てきた。朱儁が自ら撃って大破し韓忠を斬り、勝ちに乗じて追撃して万余を斬った。ただちに朱儁を車騎将軍に拝し銭唐侯に封じ、召して光禄大夫とした。

広宗の陥落と閻忠の説得

  • 冬十月、皇甫嵩が広宗で張角の弟の張良を攻めて大破し、数万を斬った。張角はそれより先に病死していたので、棺を破って屍を戮した。皇甫嵩は車騎将軍に拝され、槐里侯に封じられた。
  • 皇甫嵩が黄巾を破って威名が天下に鳴ると、元信都令で漢陽の人である閻忠が皇甫嵩に説いた。
  • 閻忠の説くところは、得難く失いやすいのは時であり、時が至って踵を返さぬのが機である、聖人は常に時に順って動き、智者は必ず機を見て発する、いま将軍は得難い時に遭いながら踏み出さない、それでは大いなる名をどう手にするのか、というものだった。
  • 皇甫嵩が問い返すと、閻忠はさらに続けた。天道に親疎はなく百姓は有能な者に味方する、人に抜きん出た功のある者は凡庸な君主の賞を受けないものだ。将軍は暮春に鉞を受け、晩秋には成功を収めた。兵の動きは神のごとく、謀は二度と練り直す必要もなく、堅きを攻めるのは枯れ枝を折るより易く、敵を砕くのは熱湯で雪を溶かすより速かった。旬月のうちに神兵が電光のように掃討し、封戸と刻石を得て南面して報い、威は本朝に振るい声は海外に馳せた。だから群雄は振り返り百姓は爪先立つ。湯・武の挙にも将軍を超えるものはない。抜きん出た功を立てながら北面して凡庸な主に仕えて、どうして安泰でいられるのか。
  • 皇甫嵩が、朝夕公事に励み忠を忘れないのだからなぜ不安があろうかと答えると、閻忠は言った。そうではない。昔韓信は一飯の恩義を忘れられず三分の利を捨て、蒯通の説を退け鼎立の勢いを見逃した。剣が喉に迫ってはじめて嘆いて悔いても、女の手で烹られる結果になった。いま主上の勢いは劉邦・項羽より弱く、将軍の権は淮陰侯より重い。指図一つで風雨を震わせ、叱咤一つで雷電を起こせる。奮い立って危うきに乗じ、傾くものを打ち、恩を厚くして先に帰順した者を安んじ、武を振るって後から従う者に臨み、冀州の士を召し七州の衆を率いて、羽檄を先に走らせ大軍を後から進め、漳河を渡り盟津に馬を飲ませ、宦官の罪を誅し積もった怨みを除く。そうすれば交える兵もなく守り抜ける城もなく、招かずとも影のように従い、童子ですら空拳を振るって力を尽くし、女子も裳をからげて命に従う。まして熊羆のような兵を励まし、疾風の勢いに乗るならなおさらだ。
  • 閻忠はさらに、功業が成り天下が順ったなら上帝を呼び大命を告げ、六合を一つにして南面して制を称し、神器を興りつつある者に移して、すでに傾いた漢を推し倒せばよい、これこそ神機の絶好の機会、風の起こる好時である、と説いた。朽ちた木は彫れず、衰えた世は補佐しがたい、補佐しがたい朝廷に忠を尽くそうとするのは、朽ちた木を彫り、坂を逆に丸を転がすようなもので必ずできない。今は権臣が群れ集まって悪を市のように同じくし、上は自由にならず政は側近から出ている。凡庸な主の下には長くいられず、賞されない功には讒言する者が横目で見る。早く図らねば後悔しても及ばない、と。
  • 皇甫嵩は恐れて答えた。黄巾は小さな災いで秦・項の敵ではない。新たに結んだ集団は散りやすく、自分の功や策によるものではない。民はまだ主を忘れていないのに、あなたはそれに逆らって求めようとする。これは望まれてもいない功を虚しく作り出して朝夕の禍を早めるもので、天命を移す時ではない。本朝に忠を尽くしていれば、讒言が多くともせいぜい追放されるだけで、なお良い名が残り、死んでも朽ちない。逆節の議論は自分にはできない、と。
  • 閻忠は計が用いられないと知り、狂人を装って巫となった。

下曲陽の戦いと辺章の反乱

  • 十一月、皇甫嵩はさらに兵を進めて下曲陽で張宝を撃ち、これを斬った。こうして黄巾はことごとく破られたが、その余党を各州で誅した数は一郡につき数千人に及んだ。
  • 十二月、金城の人辺章と韓約が反した。