三月〜六月 三年喪の廃止と鮮卑の来寇
- 三月甲午、刺史・二千石の三年の喪を廃止した。
- 六月、鮮卑が遼東を侵し、度遼将軍の李膺が撃破した。
李膺の来歴
- 李膺は字を元礼といい、潁川襄城の人。初め蜀郡太守となり、威と徳を並び行った。
- のち護烏桓校尉に転じ、匈奴が雲中を攻めて吏民を殺し掠めたとき、自ら歩騎を率いて陣に臨んで交戦し、二千級を斬った。羌の侵冦は遠く退き、辺城は安らかになった。
- のち公事によって免官されたが、天子は劉陶の言を賢しとし、李膺の才能を嘉して度遼将軍に遷した。
- それ以前、疏勒と亀茲がしばしば張掖・酒泉・雲中の諸郡を掠め、吏民が苦しんでいたが、李膺が辺境にいる間は害をなさなくなった。匈奴・莎車・烏孫・鮮卑など常には服さない諸国も、李膺の威名を聞いて畏れ服し、以前に掠め取った民の男女をみな塞下に送り返した。
- 河南尹に、次いで司隷校尉に遷った。李膺は風格が秀でて整い、高く自らを持し、天下の風教と是非の判断を自分の任とした。後進の士でその堂に上がることを許された者は、みな龍門に登ったと言い合った。
七月 太尉の交代と皇后の崩御
- 七月、太尉の黄瓊が免じられ、太常の胡広が太尉となった。
- 丙午、皇后梁氏が崩じた。乙丑、懿献梁皇后を葬った。
梁冀の専権と帝の決意
- こうして梁冀の専権は極まった。自分に同調する者は栄えて顕れ、逆らう者は弾劾されて死んだ。百僚は横目に見るばかりで、命令に従わぬ者はいなかった。
- 宮中の咳払いの音まで梁冀は必ず知り、台閣の機密の事はまず冀の耳に入ってから奏上された。内外は恐れ、上下は口を閉ざし、帝は誰も親しく任用できなかった。帝はすでにこれを不快に思っていた。
- 梁冀が私怨から議郎の邴尊を勝手に殺したので、帝はいっそう怒った。
- そのころ、豪貴の家の出の貴人が寵愛されていた。梁冀はその寵を嫉み、客を遣って夜にその家に押し入り、貴人の母を刺そうとした。母は宮に入って救いを求め、あわせて冀の罪を訴えた。
八月 宦官との密議
- 八月癸酉、帝は小黄門の唐衡に、側近で梁冀と仲の悪い者は誰かと尋ねた。
- 唐衡は答えた。単超と左悺は以前、河南尹の梁不疑のもとを訪ねた際に礼を欠いたとされ、不疑がその兄弟を捕えて洛陽の獄に送り、二人が謝罪してようやく免れた。徐璜と具瑗はつねづね梁氏の横暴を憤っているが、口には出せずにいる、と。
- そこで帝は単超と左悺を室に呼び入れ、梁将軍の兄弟が朝廷を専らにし内外を脅かして公卿以下がその意向に従っている、今これを誅したいが常侍の考えはどうかと問うた。
- 二人は、まことに国賊であり誅すべきときは久しく前から来ているが、自分たちは力弱く、聖慮がどうかを知らなかっただけだと答えた。
- 帝がそれなら常侍たちで密かに計れと言うと、計るのは易いが陛下のお心に迷いが残ることを恐れる、と答えた。帝は、姦臣が国を脅かしているのだからその罪に伏すべきで、何の迷いがあろうと言った。
- そこで唐衡に徐璜と具瑗を呼ばせ、五人が邸内で計画を定めた。帝は単超の腕を噛んで血を出し、盟いのしるしとした。単超らは、陛下の御計はもう定まったのだから二度と口にされるな、人に疑われる、と言った。
梁冀の誅滅
- 丁丑、梁冀は単超らを疑い、中黄門の張惲を省中に泊まり込ませて変事に備えさせた。具瑗は吏に命じて張惲を捕え、外から入り込んで謀った罪とした。
- そこで帝は前殿に出御して公卿を召し、兵を整え、使者を遣って梁冀の大将軍の印綬を取り上げ、改めて北景都郷侯に封じた。
- 黄門令の具瑗が虎賁の士千人を率い、司隷とともに冀の宗親を捕え、洛陽の獄で老幼を問わずみな誅した。梁冀は自殺した。懿献后は追って廃され貴人とされた。
- 初め、帝は宦官と謀を固めると、尚書令の尹勲を召してその実務にあたらせた。帝はかねて冀を憎んでいたが、急なことなので処理しきれないことを恐れていた。尹勲は事にあたって明断で方略に富み、冀が誅されると帝はその才を嘉した。
- 冀に連座して死んだ公卿・列侯・校尉・刺史・二千石は数十人、冀の故吏や賓客で免職・降格された者は三百余人に及び、朝廷は空になった。ただ光禄勲の王躬と廷尉の邯鄲義だけが残った。
- このとき禁中から使者が発せられて道を行き交い、公卿は取り乱し、州府も市も朝廷も村里も鼎が沸くような騒ぎとなり、数日してようやく落ち着いた。百姓で快哉を叫ばぬ者はなかった。
- 冀の財貨は王府を満たし、そのおかげで天下の租税の半分を減じた。
周協と陳霸
- それ以前、名を立て高い節操を行う士の多くは梁冀の害に遭い、身を保つために迎合するばかりで、敢えて出処進退を潔くする者はいなかった。ただ周協だけは志を屈せず、独り難を免れた。士はこれによって彼に服した。
- 周協は字を巨勝といい、周挙の子である。玄虚を尊んで道を養い、古典に自ら楽しんだ。初め父の任によって郎となったが自ら辞めて帰り、徴召にも辟召にも応ぜず、門を閉ざして出ないこと十余年。延熹の初めになってようやく門を開き、客を迎えて談論や宴を楽しんだ。この秋に梁冀が誅され、周協も病で卒した。識者は命を知る者だとした。
- 初め、梁冀が盛んだったころ、尚書の陳霸が上疏してその罪を挙げ誅殺を請うたが、帝は取り上げなかった。陳霸は冀に害されると悟り、七日食を絶って死んだ。
論功と立后
- 戊寅、太尉の胡広と司徒の韓縯が梁冀に阿ったとして、死一等を減じられた。
- 壬午、皇后に亳氏を立てた。実は鄧氏である。后は鄧香の娘で、鄧香は鄧禹の孫である。
- 初め、后の母の宣は微賤の身から起こり、鄧香との間に后を生んだ。のちに宣が梁紀に嫁いだので、后は梁氏の姓を冒していた。梁紀の姉の子が孫寿で、梁冀の妻である。后を掖庭に入れると寵を得て皇后に立てられた。梁の姓が同じであることを嫌って亳氏と改めた。
- 宣を長安君に封じ、鄧香に車騎将軍・安陽侯を追贈し、宣の子の演を南頓侯に封じて特進とした。后はのちに鄧氏に復姓し、宣を昆陽君に移し、演の子の康を比陽侯とした。賞賜は巨万に及び、梁冀を平らげた功による封であった。
李雲の上書と処刑
- 白馬令の李雲が上書し、副本を三府に回した。もと大将軍の梁冀は久しく権を握っていたが、今これを誅せたのは家臣を呼びつけて殺すようなものだった。それなのにみだりに謀臣を一万戸に封じている。高祖がこれを聞けば非としないだろうか、西北の諸将は不服に思わないだろうか。
- 孔子は「帝とは審らかにするものだ」と言った。今、官位は乱れ小人が日々進み、財貨のやり取りが公然と行われ、政治は日々衰えている。これは帝が審らかであろうとしないということか、と。
- 帝は李雲の奏を見て大いに怒り、李雲を黄門北寺に送り、中常侍の管覇に御史・廷尉と合同で取り調べさせた。
- 弘農の五官掾である杜衆は、李雲が忠のゆえに罪を得たことを痛み、上書して同じ日に死にたいと願い出た。帝はますます怒り、二人ともに廷尉に下した。
- 廷尉は、李雲は不遜で剛直の名を得ようとし、杜衆は遠方から出しゃばって訴えた、いずれも大逆不道であるから律のとおり処断すべきだと奏した。
- 管覇が奏上に入ったとき、帝は濯龍池にいた。管覇は跪いて、李雲は野の愚か者、杜衆は郡の小吏で、狂直から出たことであって罪を加えるには足りないと言った。
- 帝は管覇に、「帝が審らかであろうとしない」とは何という言葉か、常侍はそれを赦せというのかと言い、小黄門の呉伉を顧みて廷尉の奏を認めた。
- 大鴻臚の陳蕃が上疏して李雲を救おうとした。言った内容は禁忌をわきまえず上を犯すものだが、その本意は国を憂えることにある。ただ君に順う礼に違い、礼は激しい諫めを譏る。しかし狂狷の愚忠から一族の誅をも顧みない者は古今にある。
- だから高祖は周昌の憚らぬ言を忍び、孝成皇帝は朱雲の斬首を赦した。二人の主はこの二臣を憤らなかったのではなく、忠のあまり危険を顧みなかったと認めて罪に問わなかったのだ。今日李雲を殺せば、天下はやはり陛下が諫臣を誅したと言うだろう。だからこそ逆鱗に触れるのだ、と。
- 帝は従わず、李雲と杜衆は獄中で死んだ。陳蕃は免じられて田里に帰った。
史論(袁宏曰・諫)
- 思うままにふるまい、至仁の心を独り行うのは、人君には易しく人臣には難しい。動けば悔いを残し、相手の意を窺って制度に従うのは、人臣には易しく人君には難しい。
- 古の君臣は必ず自分に易しい方を見つめ、難しい方を戒めた。だから上下は穏やかで和睦せぬことがなかった。
- 末世に至ってこの道が失われ、君臣は心を異にし上下は食い違い、それぞれ自分に易しい方だけを行って難しい方を顧みない。難易の事が交錯して、そこから諫争の議が生じる。
- 諫めは政の中でも難しいものである。諫める者の心のありようは同じでないから三つの段階がある。誠心を推して人目のないところで言い、誠意が通じることを貴んでその功を求めないのが上の諫め。見たままを言葉と顔色に表し、面と向かって折り朝廷で争い、退いてからは陰口をきかないのが中の諫め。相手の短所をあらわにして不可を明らかにし、君の失を世に示して自分の名としようとするのが下の諫めである。
- 自分の過ちを惜しまず、衆とともにそれを正すのは、明君には易しく凡庸な王には難しい。その難しいところに触れて暴き立てるのは、中の諫めでさえ患いを招くのに、まして下の諫めはなおさらである。だから諫めの道は天下の難事であり、死んでもそれを行うのは忠臣には易しいことなのである。
- 古の王者は方位を分け位を正してそれぞれの職掌を定めた。朝廷にある者は必ず諫め、在野の者は言わない。職分を明らかにし親疎を分けるためである。
- 忠愛の心が極まってやって来て言う者は、王制も禁じてはいない。しかし理由もなく職を去り、言うべき地位を離れるのは難しい。だから君子はめったにしないのである。
十月〜十二月 行幸と人事
- 十月、長安に行幸して章陵を祠った。壬寅、中常侍の単超が車騎将軍となった。
- 十二月、西戎が塞を犯し、護羌校尉の段熲がこれを討った。天竺国が来朝して献上した。
- もと太尉の黄瓊が太尉、光禄大夫の祝恬が司徒となった。
- 詔。太尉の黄瓊は清らかで倹しく屈することなく、たびたび忠直の諫めがあり、加えて典謀に深く、師傅の義がある。三司に列しながら権貴に阿らなかった。疾風にこそ勁草を知る。甚だ嘉する。黄瓊を邟郷侯に封ぜよ、とした。黄瓊は固く辞退したが許されなかった。
黄瓊の上表 五侯への恩賞を批判する
- このころは梁冀を誅した直後で、天下は政治が一新されることを期待していた。黄瓊は真っ先に三公となって州県の不法を多く弾劾し、死んだり流された者は十余人に及んだ。海内はこぞってその期待にかなったとし、帝も彼に委任した。
- ところが単超ら五侯が権を専らにするようになり、黄瓊は自力では抑えられないと見て、病と称して朝に出ず、上表した。
- 天は気を剛くすることに務め、君は政を強くすることに務める。だから王者は高く貴い位にあるときは徳義を第一とし、危難に臨んでは忠賢を助けとする。それでこそ長く万国を守り社稷を保てる。
- 陛下が即位して以来、梁氏一族が政を執り宦官が朝廷に満ち、富は王公に比し、勢いは海内を傾けた。これを言う者はたちまち族滅され、これを称える者は必ず栄達した。忠臣は死を恐れて口を閉ざし、万人は禍を畏れて袋の口を括るように黙した。
- もと太尉の李固と杜喬は直言で政に関わって残滅され、賢愚を問わず心を痛めた。もと白馬令の李雲は宦官を名指しし、忠のゆえに罪を得た。これでは天下は舌を結び、忠を口にすることを憚るようになる。
- 徐璜・唐衡・単超・具瑗らは、梁冀が盛んなときには身を保って連座を避け、冀が誅されるべき時になってから説を唱えて賞を求めた。陛下は善悪を澄まし分けることなく、忠臣である尚書令の尹勲らと同時に顕封された。これでは朱と紫が分かれず、白粉と墨が入り交じる。金玉を砂礫に溶かし、珪璧を泥に砕くようなものだ。四方の者はこれを聞いて胸を叩かぬ者がない。
- 陛下が誣告された者への賞を誤り、姦臣に爵を欠かせることを傷む。讒諛の者が結べば昇らぬ高みはなく、阿党が抑え合えば沈まぬ深みはない。
- 陛下は年まさに盛りで、聖慮も衰えていない。どうか誤って与えた封を返させ、后族の勢いを削がれたい。
- 宝を懐く者は世を待ち、璞を抱く者は時を待つ。陛下がまことに臣の申したことを行われるなら、宝を懐き璞を抱く者たちはこぞって力を尽くし身を捧げて聖世に馳せ参ずるだろう。臣は身軽く任重く、勤めても過ちを補えない。あえて死に近い年になって、憚らぬ言を陳べる、と。