後漢紀巻第二十一 孝桓皇帝 永興二年 154年

正月〜二月 三年喪の許可と賢良の推挙

  • 正月甲午、天下に大赦した。
  • 二月、はじめて刺史・二千石に三年の喪を許した。
  • 癸卯、京師で地震があった。詔して公卿に賢良方正で直言極諫できる者を各一人推挙させた。

荀淑と鍾皓

  • 潁川の荀淑は対策で権勢家を鋭く譏ったため梁冀に忌まれ、朗陵侯相に出された。吏民は敬愛して神君と呼んだ。荀淑は字を季和といい、官を棄てて隠居し天寿を全うした。
  • 当時、潁川の鍾皓は字を季明といい、徳行で称されて官は林慮長に至った。
  • 初め鍾皓が本郡の功曹だったとき、西門亭長の陳寔はまだ無名であったが、鍾皓だけは敬い重んじた。
  • 鍾皓が公府に召されるとき、太守が誰なら代われるかと問うと、鍾皓は、ぜひ人材をとお望みなら西門亭長の陳寔がよいと答えた。これによって陳寔の名は海内に重んじられた。陳寔は、鍾君は人を見ないようでいて、どうして自分だけを見出したのだろうと言った。
  • 潁川の李膺はいつも、荀君の清らかな識見は及びがたく、鍾君の至徳は師とすべきだ、と嘆じた。

鍾覲と李膺の応酬

  • 鍾皓の兄嫁は李膺の姑にあたる。その子を覲といい、李膺と同年でともに令名があった。覲は学を好んで古を慕い、進退のけじめがあった。
  • 李膺の祖父である太尉の李脩はいつも、覲はわが家の気風に似ている、国に道があれば用いられ、国に道がなければ刑戮を免れる者だ、と言い、さらに李膺の妹を娶らせた。
  • 覲はしばしば召されたが応じなかった。李膺は覲に、孟軻は是非の心のない者は人でないと言った、弟はどうしてそんなに白黒をつけないのかと言った。
  • 覲は李膺の言を人に告げて言った。元礼は祖父が高位にあって一族がそろって盛んで、しかも公の甥だからそう言えるのだ。国武子は人の過ちを暴くのを好んで怨みの元となった。それでどうして身を保ち家を全うできようか、と。

史論(袁宏曰・鍾生)

  • 鍾生の言は君子の道である。古の善人は内に自らを修め、自分には厚く責め、人には薄く責めた。
  • そのうち通達した者は善を嘉し、能わぬ者を憐れむ。狭い者は身を正すだけで他に及ばない。朝廷に立てばやむを得ぬときにだけ明らかにし、事が起これば応ずるだけで、人の短所を伺う者ではない。
  • 実情を知っても、なお粗末な言い訳を与えて、過ちを悔い失を改めて出直す道を開いておく。そうすれば君子の道は広く、身の処し方も全うされる。
  • 末世は衰え、人物の善悪の品定めがにわかに盛んになり、秤を手にして天下の人を量り、清を揚げ濁を退けて四海の士に墨縄を当てる。そこで徳は行き渡らず、怨みばかりが余る。
  • だから君子の道は高ぶるばかりで全うできる形を失い、小人は行き場を失って害してでも勝とうとする心を抱く。風俗が薄れ、大道が険しくなるのはここにある。

六月〜閏月 人事と蜀郡の乱

  • 六月乙丑、乳母の馬恵の子の初を列侯に封じた。
  • 九月丁卯の朔、日蝕があった。太尉の胡広が免じられ、司徒の黄瓊が太尉、光禄勲の尹頌が司徒となった。
  • 閏月、蜀郡の盗賊である李伯が太初皇帝を自称したが、誅に伏した。