正月〜四月 微行と楊秉の諫言
- 正月癸酉、天下に大赦した。
- 四月己丑、帝が微行して河南の梁不疑の邸に行幸した。この日、大風が吹いた。
- 尚書の楊秉が諫めた。瑞祥は徳によって至り、災いは事に応じて起こる。伝に「禍福に決まった門はなく、ただ人が招くだけだ」とある。先ごろの暴風の激しさには必ず異変の意味がある。上天は言葉を発せず、災異によって譴責を告げる。
- 孔子も「激しい雷や風には必ず変動がある」と言い、詩には「天の怒りを敬み、あえて走り回らない」とある。
- 王者は至尊であり、出入には定めがあり、警蹕して進み、室を清めて留まる。郊廟の祭でなければ鸞旗を出さない。だから詩は「郊より宮へ赴く」と歌い、易は「王が廟を有つに至るのは孝享を尽くすためだ」という。
- 私的な思いのままに日々臣下の家に遊び、尊卑を乱して等級の別をなくした例はない。宿衛は空の宮を守り、璽綬は女妾に委ねられている。もし非常の変事や任章のような謀があれば、上は先帝に背き、下は悔いても及ばない。
- 自分は代々恩を受けて納言の職に列し、浅学ながら講筵に加えられ、格別の知遇を蒙って日月のように照らされた。恩は重く命は軽い、あえて愚見を申し上げる、と述べた。
- 大将軍の梁冀はこれを怨み、楊秉を扶風太守として外に出した。
- もともと楊秉は侍講として経学で重んじられており、太常の黄瓊が、帷幄で講義する者を地方に出すべきでないと言ったので、留められて光禄大夫を拝した。しかし梁冀の時代の間は抑えられて用いられなかった。
十月〜十一月 地震と封事の徴求
- 十月、司空の胡広が薨じ、太常の黄瓊が司空となった。
- 十一月辛巳、京師で地震があった。詔して百官に封事を上らせ、憚るところなく言わせ、独行の士を各一人推挙させた。
崔寔の世論 覇道による統治
- 安平の崔寔は郡から挙げられて公府に詣ったが、病と称して対策には応じず、退いて世の事を論じた。
- そもそも天下が治まらないのは、承平の世が続いて政が次第に衰えても改めず、風俗が次第に弊れても悟らず、乱に慣れて危うきに安んじ、気づかぬままでいることによる。
- あるいは嗜欲に耽って政務を顧みず、あるいは多くの言を喜びながら何に従うべきか分からず、あるいは信任された臣が寵愛に安んじて事なかれで済ませ、あるいは疎遠の士は身分が低いために言葉を退けられる。だから紀綱は弛んで立ち直らず、智者は損なわれて用いられない。
- 漢が興ってから三百余年、政令はすり減り、上下は怠り、風俗は衰え、人民は偽り巧み、百姓は騒がしく、再び中興の功業を望んでいる。
- 世を救う術は必ずしも堯舜を待たなくてよい。絶えたものを繋ぎ、撓んだものを支え、煩わしい迷いを取り除けばよい。だから天命を受けた君は制度を創めて物を改め、中興の主は時勢を正して欠けたところを補う。昔、盤庚は都を遷して殷の民の弊を改め、周の穆王は刑を改めて天下の乱れを正した。
- 俗人は古を守るばかりで臨機の変に通ぜず、聞いたことに固執して目の前のものを軽んじる。そういう者と国家の事は論じられない。
- だから献策が聖聴にかない、今まさに採るべきものがあっても、たちまち掣肘され奪われてしまう。頑なな士は時勢の権に暗く、通達した士は勝ち負けにこだわらない。賈誼が前の世で悲しまれたのはこのためである。稷や契でさえ志を行えなかったのだから、まして彼らに及ばぬ者はなおさらだ。
- 春秋の義は、力を量って事を起こし、徳を測って行うことである。今すでに三代の法を用いることができない以上、覇道によって治め、賞罰を重んじ法術を明らかにすべきである。上徳の人でなければ、厳しくすれば治まり、寛くすれば乱れる。それが道理である。
- 国を治める法は身を治めるのに似ている。平安なときは養い、病めば攻め治める。徳教は治世の粱肉であり、刑法は乱を救う薬石である。今、徳によって残虐を除こうとするのは、粱肉で病を治すようなもので、治癒は望めない。
- ここ数代、政に恩赦や貸与が多い。馬を安らかに御そうとして轡や銜を嫌うようなものだ。四頭立ての馬が横ざまに走り、皇帝の路は険しく傾いている。今は轡で締め鞭を打って暴走を止めるべきときであり、鈴を鳴らして平らな道をゆったり進む余裕はない、と論じた。
史論(袁宏曰・王覇)
- 崔寔の言は王道と覇道の道理に達していない。試みに論ずるなら、礼が備われば徳が成り、礼が順であれば情が安らぐ。徳が成るからこそ家室に手本を示して教化が天下に流れ、礼が順だからこそ影や響のように漏れなく風化を広められる。
- 古の聖人は、人倫が徳義に本づき、万物が教化の風によることを知り、人が陶冶されるのは受けるところに因り、訓導は上下の呼応にあることを知っていた。教化の始めに規範を尊び、道理を備えて本源に居り、恭しさを明らかにして治を広めれば、道理は尽くされ人は教化に向かう。これが君臣尊卑の基であり、徳が行き渡る根本である。
- だから大道が行われるときは上下の順序が整い、君が唱えて臣が和し、その至徳の風教は一人にかかって政化が四海に及び、礼を犯すことなく王者の跡が明らかになる。
- 賢明な王がいなくなると礼楽は衰え、風俗は勝手に生まれ、家ごとに政を立てる。君の位すら固まらないのだから、まして万物はなおさらである。
- そういう時に臣子が力を尽くそうとすると、先王の旧典を守れば君主が廃されるおそれがあり、封域の旧来の職を修めれば根本が揺らぐ心配がなくなる。だから忠義に奮う臣は義の心を推して黙って見ていられず、王室を守ろうとして、下から上を正す功、卑しい身で尊きを援ける事が生じた。順序の道は失っているが、忠を尽くした跡ではある。
- 王者と同じ体裁にすれば、命を承けて宣べる美しさとは異なり、そうしなければ順ではない。それでいて結局は王室を輔け戴く功がある。だから聖人は事に応じて制度を作り、その変化に通じさせた。ここから覇の名が生まれた。
- 春秋が斉と晋の功を書き、孔子が管仲の勲を美としたのは、盛衰を包み込み名教を整えるためである。
- 仁を失って後に義があるが、義は必ず仁から出る。王を失って後に覇があるが、覇に至るには必ず忠から出る。義は仁には及ばないが、なお忠であることを失ってはいない。これを推し広げて見れば、王覇の義がおのずと見えてくる。
梁冀への封賞をめぐる議論
- はじめ帝は大将軍の梁冀を封じようとして公卿に会議させた。特進安楽侯の胡広、太常の羊儒、司隷校尉の祝恬、太中大夫の辺韶らは、梁冀の徳は周公に比すべきで、山川を賜い附庸を封ずべきだと称えた。
- 司空の黄瓊が議した。昔、周公は成王を輔けて礼を制め楽を作った。だからこそ広く領土を開き山川を賜り、天地を郊祀して天子の礼を行った。これは百世に例のないことで、周公だけがふさわしかったのだ。
- 蕭何は泗上で高祖を見出し、霍光は昭帝・宣帝を輔けて中興させたが、いずれも戸を増し封を加えてその功を顕彰しただけである。梁冀には四県を食ませ、賞賜はすべて霍光の例に倣うのがよい。そうすれば天下は、賞が必ず功に当たり、爵が徳を越えないことを知る、と。
- 梁冀はこれを恨み、地震に事寄せて黄瓊を策免した。丁亥、司空の黄瓊が災異を理由に策免された。
- この月、五色の大鳥が巳氏に現れ、当時は鳳凰とされた。本志は、政治が衰え梁冀が権を専らにしたことによる羽の怪異だとする。