後漢紀巻第十九 孝順皇帝 漢安元年 142年

大赦と南単于の擁立

  • 春正月癸巳、天下に大赦した。
  • 二月丙辰、詔して大将軍と公卿に、賢良方正で深い道理を探究できる者を各一人推挙させた。
  • 夏六月、匈奴の立義王である兜楼儲を南単于とし、都で即位させた。公卿が列席し、大鴻臚に印綬を授けさせ、殿上に導き、閼氏以下に等級に応じて賜物を与えた。

周挙の登用と進言

  • かつて梁商が重病のとき、帝が親しく見舞って遺言を尋ねた。商は、人が死のうとする時の言葉は善いものです、従事中郎の周挙は清高で忠正、重い任に堪えますと答えた。帝はそこで周挙を諫議大夫とした。
  • このころ異変が続いたので、帝は商の言葉を思い出し、周挙を顕親殿に召して問うた。
  • 周挙は答えた。陛下は即位当初、旧典を守り行われ、遠近が粛然としていた。ところがここ数年、次第に以前と違ってきた。朝廷には寵愛される者が多く、俸禄は徳に基づかず、府庫は空になり、瓦解しそうな気配がある。天を観、人を察し、古に照らして今を計れば、まことに危惧すべきである。
  • 書に「僭れば常に日照りとなる」という。度を越した振る舞いに歯止めがなければ言葉は従われず、下は治まらない。陽を制するものがなければ上は乱れ下は尽きる。ひそかに州郡に厳命し、有力な豪族の大悪を調べ、時を逃さず捕えるべきである、と。

八使の派遣と張綱の弾劾

  • そのころ下の者は法に従わず盗賊が各地に起こり、長吏を殺し、二千石が州郡を横行しても抑えられなかった。罪を刺史・二千石に帰することになり、帝は周挙を召して群臣の議とともに八人の使者を派遣することにした。
  • 秋八月、光禄大夫の張綱、侍中の杜喬ら八人に節を持たせて天下を巡行させ、賢良を表彰し忠勤を顕彰し、貪汚で罪ある者は刺史であってもただちに拘束して報告させることとした。
  • 杜喬らは命を受けて出発したが、張綱だけは都亭で車輪を埋めて動かず、豺狼が路をふさいでいるのに狐狸を問うている場合かと言い、上書した。
  • 大将軍梁冀と河南尹梁不疑は外戚の縁で過分の恩を受け、粗末な器量で輔弼の任にありながら、五教を広め天子を輔けることをせず、大猪や大蛇のように貪欲をほしいままにし、賄賂に甘んじ飽くことを知らず、諂う者と結んで忠良を害している。まことに天威の赦さぬところ、極刑に相当する。君を君とも思わぬ所業十五か条を以下に列挙する。いずれも忠臣が歯噛みするものである、と。
  • 上奏は都を震撼させた。当時、皇后の寵は盛んで梁冀兄弟の権勢は主上をしのぎ、梁氏の姻族が高官に満ちていた。帝は張綱の言を信じたものの、結局梁冀を罪に問わなかった。

杜喬の弾劾と李固の上疏

  • 侍中の杜喬は、陳留太守の梁譲、済陽太守の汜宮、済北太守の崔瑗を、収賄が甚だしいとして免ずるよう奏した。いずれも梁氏の親族党与であった。
  • また泰山太守の李固が郡で忠実かつ有能だと薦め、李固は将作大匠に召された。
  • 李固もまた正直で屈せず、賢士を推すことを好み、上疏した。
  • 気の清らかなものが精であり、人の清らかなものが賢である。身を治める者は精を積むことを宝とし、国を治める者は賢を積むことを道とする。
  • 昔、秦が楚を謀ろうとして使者に国の宝を見せよと言ったとき、楚王は賢臣を並べてこれが国の宝だとした。秦の使者は恐れて兵を収めた。魏の文侯は子夏を師とし田子方を友とし、段干木の里門に敬礼したので俊才が競って集まり、その名は斉の桓公を越えた。これこそ賢を積むことの効験である。
  • 陛下は乱を収めて即位された当初、南陽の樊英を招き、江夏の黄瓊、広漢の楊厚、会稽の賀純を召し、策書で嘆賞して厚遇された。だから岩穴に隠れた人も世を避けた士も、みな冠の塵を払い衣を振るって、時に用いられることを喜び、四海が悦んで聖徳に帰服した。
  • ところが近ごろは次第に衰えている。侍中はみな裕福な家や権勢家の子弟で、宿徳の名儒として顧問に足る者がいない。黄瓊らは郎署に留め置かれてもう十年近い。陛下が始めに厚遇して終わりに棄てられるのは残念である。
  • 光禄大夫の周挙と侍中の杜喬は沈着で正直な当世の名臣であり、常伯の位に登らせて国政に参与させるべきである、と。天子はこれを容れた。

張綱と広陵の張嬰

  • 大将軍梁冀は張綱の弾劾を恨んだ。折しも広陵の賊である張嬰が刺史や二千石を殺していたので、冀は張綱を広陵太守とした。張嬰に殺されなければ法で処分しようという腹であった。
  • 前任の太守たちは赴任にあたって多くの兵を要求したが、張綱は任命の際に必要な兵数を問われて、兵は要らないと答え、単車で赴任して、まっすぐ張嬰の砦の門に向かった。
  • 張嬰は大いに驚いて逃げ込み砦を閉ざした。張綱は門外で吏卒を帰らせ、親しい者十余人だけを残し、張嬰が日ごろ信頼している長老に書を送って会見を求め、蜂起の原因を尋ね、詔の恩旨を示して張嬰に伝えさせた。
  • 張嬰は張綱の誠意を見て出て会った。綱は上座に招いて苦しみを尋ね、礼が済んでから諭した。
  • これまでの二千石には適任でない者が多く、朝廷の恩を塞いで私欲をほしいままにしてきた。地方は天子から遠く、直接に事情を問われることもない。だから民は集まって害を避けたのだ。二千石にはたしかに罪がある。しかしそう振る舞ったお前たちのやり方もまた義ではない。
  • 忠臣は君を損なって栄達を求めず、孝子は父を損なって富を求めない。天子は仁聖で、文徳によって招こうとされ、そのために太守を遣わされた。爵禄で栄えさせたいのであって刑罰を望んではおられない。
  • 今こそ禍を福に転ずるときだ。もし義を聞いて従わなければ、天子は激怒され大軍が雲のように集まる。危うくないか。
  • 強弱を量らぬのは明察ではなく、福を棄てて禍を取るのは知恵ではなく、順を捨てて逆に走るのは忠ではなく、身を絶やして跡継ぎを断つのは孝ではなく、正に背いて邪に従うのは正直ではなく、義を見て行わぬのは勇ではない。この六つが禍福の分かれ目である。利害を深く考えよ、と。
  • 張嬰は泣いて答えた。辺地の愚かな者は朝廷に通ずる術がなく、たびたび二千石に虐げられ、苦しみに堪えかねて集まり命をつないできた。釜の中を泳ぐ魚のようなもので長くはないと知りながら、しばし息をついていただけである。明府の仁は草木にまで及ぶ、これは我らの再生の恵みである。愚かにも不義に陥っており、武器を捨てる日に妻子まで誅されはしないかと恐れる、と。
  • 綱が、天地に誓い日月に誓う、爵位を与えて顕彰しようとしているのにどうして誅殺があろうかと言うと、張嬰は、罪を赦されて命を全うし農地に就ければ生涯恩を戴く、爵位は望みではないと答えた。
  • 張嬰は大賊とはいえ狂暴のあまり起こした身で、必ず禍が及ぶと覚悟していたが、綱の言葉を得て目の前が開けたようになり、辞して営に戻った。
  • 翌日、部下一万余人と妻子を連れ、後ろ手に縛って張綱に謁した。綱はことごとく縄を解いて受け入れ、単車で張嬰を営に迎え入れ、酒宴を設けて楽しみ、一月余りかけて心を尽くして慰撫したので、みな心服した。
  • 綱が、長年害をなした者たちが一朝にして解散したのだから、名を挙げて条奏すれば必ず封賞があると言うと、張嬰は、もとの生業に帰りたい、汚れた名で清明な世を汚したくないと答えた。
  • 綱はその至誠を汲んでそれぞれの意に従わせ、住居を落ち着かせた。官吏になりたい子弟は許し、望まぬ者に強いなかった。官吏となる者は才に応じて職に就け、民となる者には農桑を勧めた。四つの生業がともに興り、南方の州は静まった。
  • 綱の功を論じて封侯すべきだとされたが、梁冀に阻まれて侯にならなかった。天子はその功を美として召して用いようとしたが、病で在官のまま卒した。時に四十六歳。
  • 朝廷は深く惜しみ、張嬰ら三百余人はみな喪服と杖で葬列を送り、父母の喪と同じようにした。

年末の人事

  • 中常侍の鞏順を列侯に封じた。
  • 冬十月辛未、太尉の桓焉と司徒の劉寿が災異の責で罷免された。
  • 十一月、司隷校尉の趙峻を太尉、大司農の胡広を司徒とした。
  • 十二月、前の征西将軍馬賢の孫の承光を列侯に封じた。馬賢が国事に殉じたからである。