元服と献珠の返却
- 春正月丙寅、天下に大赦した。
- 丙子、帝が元服し、公卿以下と天下の男子に爵を等級に応じて賜い、身寄りなく重病で自活できない者には一人一匹の帛を与えた。
- 五月、漢陽都尉が大珠を献上した。詔して、天下に災異があり太官でさえ膳を減らしているのに、都尉たる者が朝廷の方針を広めず珠を献じて機嫌をとろうとするのかと責め、封じて送り返させた。
史論(袁宏曰)
- 飢えて食を思い寒くて衣を欲するのは生きるための必要であり、それが満たされれば粗飯と綿入れでも十分に足りる。
- ところが天下を保つ者は欲望がとめどなく広がり、豪奢な食事や衣服でも足りないとして、海山の珍味珍宝を求めて耳目を楽しませる。そうなれば上は心を労し下は民が疲弊する。
- 万物は自ら止まることができず、上の行いが民の基準となる。止まらぬ本性を持つ民に、上が基準を示して追わせれば、贅沢の競争を助長するだけである。
- 古の帝王が華美な服を作らず得難い品を貴ばなかったのは、華美を去り、黙することで騒がしさを鎮めるためであった。
- 上が欲しなければ物は貴ばれず、貴ばれなければ得難い品は流通しなくなり、民は本業に落ち着き、衣食は労力に見合って足りる。
- 根本を明らかにせず末端だけを禁じ、華美を去らずに実務だけ細かくすれば、処刑を重ねても奢侈はいよいよ増すばかりである。
三公の交代と朱寵の治績
- 秋八月丁巳、太尉の朱寵と司空の張皓が陰陽不和の責を負って免ぜられた。
- 癸酉、大鴻臚の龐参を太尉、太常の王龔を司空とした。
- 冬十一月、司徒の許敬が策免され、宗正の劉俊が司徒となった。
- 朱寵は字を仲威といい京兆杜陵の人。潁川太守のときは孝悌と儒学の徳義を表彰し、冤罪を晴らし孤老を慰撫した。功曹・主簿には経学に明るく行いの高い者を選んだ。
- 県を巡行するときは文学祭酒に経書を捧げ持たせて先導させ、宿駅に泊まればそこで講義し、田畑を回って農桑の状況を検分した。官吏はその政治に安んじ民はその礼を愛し、県境まで出迎える父老が数千人に及ぶこともあった。朱寵は三老に車を御させて民の苦情を聞き、民心はこぞって従い、治績の評判は高かった。
潁川の人物談義
- 朱寵は正月の年始の宴で属吏をねぎらった際、公曹吏の鄭凱に、潁川には昔から優れた人物が多いと聞くが誰かと尋ねた。
- 鄭凱は、当郡は嵩山の霊と中岳の精を受けているので聖賢が身を潜め俊才が集まるのだと述べ、次の人々を挙げた。
- 許由と巣父は堯の禅譲を受けるのを恥じて河のほとりで耳を洗い、道を重んじ帝位を軽んじて世を遁れ孤高を保った。
- 樊仲父は志が潔く心が遠く、山河を治めた功名を受けるのを恥じ、天下の重きを賤しんで節を高く保った。公儀と許由はともに陽城の出である。
- 留侯張良は奇計で世を輔け、深謀は微妙に及び、民の命を救い帝王の大計を広げたが、功成っても居座らず、厚い爵禄を受けなかった。輔成の出である。
- 胡元安は曾参のような至孝と楽正のような純粋な学業を持ち、親の喪に血の涙を流して骨と皮になりながら誠は神明に通じ、雉や兎がその身辺に集まったという。潁陽の出である。
- 彪義山は姿も才も傑出し、孔子の学の奥義を究めて廃れかけた文武の道を保ち、文章は華やかで辞は美しかった。昆陽の出である。
- 杜伯夷は経学を師門で称えられ政事を朝廷で称えられ、身を潔くして苟且にせず、於陵の高潔さと公儀の節度を兼ね、栄華を塵芥、富貴を重荷と見て、草葺きの家に藜や豆の葉さえ足りぬ暮らしをした。定陵の出である。
- 朱寵が、太原の周伯況と汝南の周彦祖はともに招聘を辞して林野に隠れ、伯夷・叔斉に迫る清らかさだ、貴郡にこれほどの士はいまいと言うと、鄭凱は、その二人は公卿の栄誉を譲っただけで、許由が堯の位を受けず樊仲父が当世に屈しなかったのに比べれば、なお遠いと答えた。
朱寵の清廉と遺言
- 朱寵は召されて大鴻臚となり、のち太尉を拝した。宰相の地位にあっても再三直言した。
- 三公でありながら布の夜具はやっと身を覆う程度、飯は搗いただけの粟、粗末な菜も十分でなく、子弟は一着の衣を回して外出し、二日に一度しか食べられぬこともあった。
- 死に臨んで子に遺言した。自分はもと寒賤の一書生で、才は国家を支える器ではないのに朝廷の恩を過分に受け、地位は任に過ぎ、身を尽くして国に報いることができず負い目が重い。死後、百官からの香典は一切受けるな。素木の棺に粗布の単衣で納め、官の礼服や冠は用いるな。納棺が済んだら手持ちの牛車で夜のうちに郷里へ運び、官僚たちに知らせるな。静かに事を運ぶことを第一とせよ、と。
許敬の人となり
- 許敬は字を鴻卿といい汝南平輿の人。下級官吏だったころ、主君を誣告した者が県令の席に同座したのを見て、刀を抜いて敷物を断ち切り、悪人と席を並べるには忍びないと言い放って名を知られた。
- 茂才に挙げられて南昌令となったが、土地が低湿で親を迎えられないため、親が老いると官を棄てて帰郷し供養した。
- のち司徒府に召され、江夏太守・沛相を経て、光禄勲から司徒となった。
- 人物の可否を論じることを自らの任とし、和帝・安帝の時代に仕え、竇氏・鄧氏・閻氏の全盛期にも正道を通して屈しなかった。三家が倒れて累の及ぶ者が多い中、許敬は平然として身を保ち、非難も及ばなかったので、当時の人はこれを非凡としたのである。