後漢紀巻第十八 孝順皇帝 永建二年 127年

隠逸の士の招聘

  • 春二月、鮮卑が遼東を侵した。
  • 三月戊申、詔して南陽の樊英、江夏の黄瓊、会稽の賀純、広漢の楊厚を召した。
  • 樊英は字を季斉といい南陽魯陽の人で、隠居して教授し、西方からも門人が集まった。安帝の時に博士や公車で召されたがすべて応じず、今回も重病を理由に固辞したため、郡県が礼を尽くして送り出した。
  • 到着すると天子は壇と席を設けて政治の得失を問い、五官中郎将に任じたが、樊英は重病と称して帰郷を願い出た。改めて詔で光禄大夫として在所の県に住まわせ、穀千斛を賜い、八月ごとに高齢者を見舞い羊と酒を贈る先例どおりに遇した。樊英は辞退したが、詔で意向を諭して受けさせた。

樊英の人となり

  • 樊英は家庭内でも規律正しく、郷里で篤行を通した。陳寔も若い頃その門に学んだ。
  • 樊英が病臥していたとき妻が婢を遣わして見舞わせると、樊英は寝台を下りて答礼した。陳寔が理由を尋ねると、妻は対等の存在で共に祭祀を奉ずるのだから、礼に答えないことはないと答えた。
  • 隣人の子が樊英の家に身を寄せ、酔っては大声で呼ばわったが、その父が臨終に託した子だからと引き取って養った。陳寔はこの二つを常に称えた。

黄瓊らの出仕

  • 公卿大臣の多くが江夏の黄瓊の賢を推薦し、公車で召したが、黄瓊は着くと病と称して進まなかった。
  • 有司が不敬として弾劾し、詔で県ごとに送り継がせたので、やむなく出頭して侍中を拝した。賀純・楊厚もまた篤行の士であった。

生母李氏の追尊

  • 夏六月乙酉、生母の李氏を改葬し、恭愍皇后と追尊した。
  • 李氏はもと宮人として安帝の寵を受けて帝を生んだが、閻后に妬まれて城北で毒殺されていた。即位後に側近から事情を聞いた帝は嘆息して喪を発し、自ら埋葬地に赴いて号泣した。

班勇の焉耆遠征

  • 秋七月丙戌朔、日蝕があった。
  • 西域長史の班勇が焉耆討伐の兵を請い、河西四郡の兵三千が班勇のもとへ送られた。
  • 燉煌太守の張朗は罪を得ており、功で贖おうとして独断で諸郡の兵を率いて塞を出た。
  • 当初の計画では、班勇が西域諸国の兵を動かし、亀茲・鄯善を南道から、自身は車師ら六国の兵を率いて北道から入ることになっていた。
  • ところが張朗が近道をとって尉黎から入り、焉耆王は張朗に降伏した。班勇の軍は間に合わず、漢軍は引き揚げ、焉耆王は結局誅されなかった。
  • 漢は二将の不和を咎めて双方を召還し免職としたため、班勇の功罪は論じられなかった。