春二月 涼州放棄論と虞詡の反対
- 二月、匈奴が常山を侵した。当時は西北に事が多く、民は飢え、国用も不足していた。
- 大将軍の鄧隲は涼州を放棄して北辺に専念しようとし、家人の衣が破れたとき一枚を取って他を補えばまだ完全なものが残る、そうしなければ両方とも保てない、と説いた。公卿はみな賛同した。
- 郎中の虞詡は太尉の張禹に説き、大将軍の策には三つの不可があるとした。
- 第一に、先帝が開拓した領土を今放棄することになる。
- 第二に、涼州を捨てれば三輔がそのまま辺塞となり、園陵が国外に露出する。
- 第三に、諺に「関西は将を出し関東は相を出す」といい、烈士・武臣は涼州から出る。土地の気風は壮猛で兵事に慣れており、羌胡が三輔に及んで腹心の害とならないのは涼州が背後にあるからである。涼州の士民が鋒を推し鋭を執り、行陣で矢石を浴びながら、父が前で死んでも子が後で戦い、後ろを顧みないのは、漢の臣属だからである。今これを推しやり切り捨てれば、土地に安んじる庶民は移住を望まず、必ず首を伸ばして「中国は我らを夷狄に捨てた」と怨む。義に赴き善に従う人ですら怨恨を抱かずにはいられまい。そこから突如謀反が起こり、天下の飢弊と海内の虚弱に乗じて豪傑が集まり、才を量って将帥を立て、氐羌を駆って前鋒とし、席巻して東進すれば、孟賁・夏育のような者を兵とし太公のような者を将としても防げまい。そうなれば函谷以西、園陵と旧京はもはや漢のものではなくなる。
- 議者は衣を補う喩えでまだ完全な部分が残ると言うが、虞詡は疽が食い進んで際限がなくなることを恐れる、と述べた。
- 張禹は「そこまで考えが及ばなかった。君の大計がなければ危うく失敗するところだった」と言い、では計はどうすべきかと問うた。
- 虞詡は答えた。憂うるところは明公と異なる。涼州にいつか隗囂・公孫述のような変が起こることを恐れる。しばらくその地の雄傑を並べ登用し、有力者を取り込み、牧守の子弟を朝廷に引き入れ、諸府にそれぞれ数人を辟召させるがよい。表向きは勤めを励ますためとし、内実はその謀を分散させる。これが長計である、と。張禹はこれに従った。
虞詡、朝歌長として盗賊を平定
- まもなく虞詡は朝歌長に遷った。当時朝歌には盗賊が多く、何年も鎮まらなかった。親旧はみな彼を労って弔い、「朝歌のような任地を得て何と気の毒な」と言った。
- 虞詡は笑って答えた。難きを避けず易きに就かないのが臣の節である。盤根錯節に出会わなければ刃の切れ味は分からない。これこそ自分が功を立てる時であり、それを気の毒がられるのは心外だ、と。
- 虞詡が河内太守の馬稜に会うと、馬稜は「君は儒者であり廟堂で謀を巡らすべき人なのに朝歌にいるとは、まことに心配だ」と言った。
- 虞詡は答えた。この賊どもは犬羊が寄り集まって温飽を求めているにすぎず、憂えるほどではない。理由は、賊が敖倉から百里と離れていないのにそれを奪って糧としようとせず、青州・冀州の流民が続々と通るのにこれを略取して兵力に加えようとせず、河山に出入りして険阻な要塞を守ることもしない。もしそれらをすれば天下の右腕を断つことになるが、実際はそうしていない。これは大計のない証拠だ、と。
- そこで虞詡は戦闘部隊をすべて解いて計略を用い、たちまち盗賊を平定した。
詔と災異
- 乙亥、詔して、建初元年以来辺境に移された者はそれぞれ本郡に帰らせ、官奴婢に没入された者は免じて庶人とした。
- 三月、西羌が漢中を侵した。戊子、杜陵の園に火災があった。
夏四月 新野君の薨去と鄧氏
- 夏四月丁丑、天下に大赦した。
- 新野君(太后の母)が病になり、太后と天子が自ら邸に赴き、連日泊まり込んだ。太尉の張禹、司徒の夏勤、司空の張敏が固く諫めたので、ようやく還った。
- 甲戌、新野君が薨じた。太后は斉衰、天子は緦麻の喪服を制し、贈送の礼はすべて東海恭王の例に依った。司空が節を持って喪事を監督し、鄧隲らはみな官を棄てて服喪した。
- 服喪が明けると、有司が鄧隲らを再び輔政に復すよう奏したが、固く辞退したので取りやめとなった。以後、朝廷の大議でなければ関与しなかった。
- 元初年間に鄧悝・鄧弘・鄧闓が相次いで卒したとき、大斂の前に天子が揃って封爵を与えようとしたが、太后はそのたびに許さなかった。
- 太后は新野君に服を制し、贈賻はきわめて厚く、九卿に喪事を監督させた。鄧悝の子の広宗が爵を継いで葉侯、鄧弘の子の広徳が西平侯、鄧京の子の宝が安陽侯となり、鄧隲の子の鳳は侍中となった。
- 以前、都護の任尚が鄧鳳に馬を贈ったことがあり、任尚が事件に連座して檻車で召還されると、鄧鳳は自分に累が及ぶのを恐れ、ひそかに中郎の馬融を台閣に置くべきだと働きかけた。事が発覚すると鄧鳳が先に自首し、鄧隲は妻と鄧鳳を髠刑に処して上疏し謝罪した。
- 新野君の薨去の後、太后が崩じてから、天子は白髪の者を見るたびに涙を流さないことがなかった。宗族の老人にはみな手厚い礼を加え、書を読んで孝子が親に仕える条や親を喪う礼のくだりに至ると、いつも書を閉じて嘆息した。
鄧康の諫言と免官
- 太后が長く朝政を執っていたので、従弟の楽安侯鄧康は権勢の盛りすぎることを内心恐れ、たびたび上書して、公室を尊び私権を抑えるべきだと諫めた。その言葉は極めて切実であった。
- 太后は怒った。鄧康はそこで病と称して朝廷に出なくなった。
- 太后は家の旧知の者を遣わして様子を問わせた。もともと宮中の年長の婢を外に出して中夫人と称させる慣例があり、その者は自ら中夫人と名乗って鄧康に取り次いだ。鄧康は「お前は我が家の婢ではないか。どうして中夫人などと自称するのか」と叱った。
- 婢はこれを怒り、鄧康が病と偽り不遜であると告げた。そこで鄧康は免官され、封国に帰され、鄧氏の属籍から除かれた。