後漢紀巻第十六 孝安皇帝 永初三年 109年

春正月 元服と大赦

  • 庚子、皇帝が元服した。天下に大赦し、公卿以下および天下の男子にそれぞれ爵を賜った。
  • 騎都尉の任仁が兵を率いて涼州を討った。

三月 飢饉と魯恭の罷免

  • 三月、京都が飢え、人が互いに食い合うほどであった。
  • 癸巳、司徒の魯恭が災異の責を負って策免された。

魯恭の人となりと学問

  • 魯恭は二度宰相となり、その掾属から卿大夫に至った者は数十人にのぼった。
  • 門下の老学者たちが魯恭の議論を聞きたがっても、魯恭は「学の講じられぬことこそわが憂いだ」「郷挙があるではないか」と言うだけで、ついに何も語らなかった。
  • 学ぶ者が業を受けるときには必ず自ら核心を問い質させ、道が成ってから送り出した。学者たちは「魯公は議論を交わすことに謝するのだから、その学は空しく得られるものではない」と評した。
  • 謙退して自らの功を誇らず、善行があっても表に出さなかったので、その地位にありながら剛直をもって称されることはなかった。
  • 三公となってからは常に病と称して政務を見ず、天子はそのたびに小黄門を遣わして病を問い、強いて起きるよう諭すことが何度もあった。この時ついに重病と称し、銭二十万を賜った。八十余歳で家において没し、極めて手厚い贈り物があり、二人の子が郎に任じられた。

弟の魯丕とその対策

  • 弟の魯丕、字は叔陵は、篤学かつ質直で知られ、侍中・三老にまで至った。
  • 章帝の初め、対策して次のように論じた。
  • 政治は民の望むところに従い、民の憎むところを除くことに勝るものはない。教化を先にして刑罰を後にし、近きを先にして遠きを後にせよ。
  • 君は陽、臣は陰。君子は陽、小人は陰。京師は陽、諸夏は陰。男は陽、女は陰。楽和は陽、憂苦は陰。それぞれがその所を得れば調和し、精誠の発するところ感応しないものはない。
  • 官吏に良からぬ者が多いのは、徳を賤しみ功を貴んで速効を求め、長久の道を修められないからである。
  • 古くは士を推挙して人を得れば賞があり、得なければ譴責があった。だから推挙する者は努めて実行に励んだ。選挙が実に伴わない咎は刺史・二千石にある。書に「天工、人それ之に代わる」とある。
  • 人を見る道は、幼ければ孝順で学を好むかを見、長ずれば慈愛があり人を教えられるかを見る。難題を設けてその謀を見、煩雑な事を任せてその治める力を見、窮したときには守るところを見、達したときには施すところを見る。これが人を吟味する方法である。
  • 民に貧困が多いのは急かされるからで、急かされれば寒に至り、寒であれば万物が実らない。本業を捨てて末業に走るのは奢侈のもたらすところである。制度が明らかであれば民の用は足り、刑罰が中を得なければ名が正しくならない。名を正す道は上下の称を明らかにし、爵号の制を定め、卿大夫の位を定めるためのものである。
  • 訴訟が絶えないのは争奪の心が絶えないからである。法は民の手本であり、法が正しければ民は誠実になる。
  • 官吏と民の疲弊は久しく続いており、その根本を求めなければますますひどくなる。吏政は速効を求めがちで、また州官は秩が低いのに任務が重いため、小さな功を競って昇進を求め、疲弊の風俗を生んでいる。
  • 弊を救うには忠に及ぶものはない。孔子は「孝慈なれば則ち忠なり」と言った。姦詐を治める道は必ず刑罰を明らかにし慎むことにある。孔子は「これを導くに礼楽をもってすれば民は和睦し、難に赴いて死を忘れる。死すら忘れるのだから、まして礼義を行わせることなど容易である」と言った。

魯丕の刺史・趙相としての事績

  • 魯丕はのちに青州刺史となり、趙相に遷った。門下の弟子は数百人にのぼり、官吏や民に愛された。
  • 趙王が病を避けて時を待つため学官に滞在しようとしたが、魯丕は許さなかった。王が上書して訴え、詔が魯丕に下されると、魯丕は上言した。礼では諸侯は露寝で薨じ、大夫は適室で卒する。死生には命があり、もともと避けるべき場所などない。学宮は先王の礼楽を伝え教化を行う場であり、これを塞ぐべきではない、と。詔はこれに従った。
  • 魯丕は論難のたびに、経とは先師の言を伝えるもので自分から出たものではないから互いに譲ってはならない、譲れば道が明らかにならない、規矩や権衡を曲げられないのと同じだ、と説いた。難ずる者は必ずその根拠を明らかにし、説く者はその義に力を尽くし、浮華で無用の言は前に並べない。だから精神を労せずして学術がいよいよ明らかになる、と述べた。

夏四月以降 財政難と諸事

  • 夏四月丙寅、大鴻臚の夏勤を司徒とした。
  • 財政が不足したため、吏民に銭や穀を納めさせて関内侯とし、上林苑・広城苑のうち開墾可能な土地を貧民に与えた。
  • 五月丙申、楽安侯の子である劉延平を清河王に立てた。
  • 六月、烏桓が代郡を侵した。

秋七月 人身供犠を退けた太后

  • 太后が病を得たとき、側近が人を身代わりに立てて祈祷したいと願い出た。太后は怒り、ただちに掖庭令に対し、なぜこのような不吉な言葉が出るのかと責め、今後の祭祀は過ちを謝するだけにとどめ、二度とこのようなことを言ってはならないと命じた。

冬 南単于の叛乱

  • 冬十月、南単于の擅が叛いた。行車騎将軍・大司馬の何熙が兵を率いて征討し、擅は降伏した。
  • 十二月辛酉、九の郡国で地震があり、天苑に彗星が現れた。