後漢紀巻第八 光武皇帝 中元二年 57年

北郊の祭祀と倭奴国の遣使

  • 春正月辛未、初めて北郊を設けて后土を祀った。
  • 丁丑、倭奴国王が使者を遣わして貢物を献じた。

光武帝の崩御と明帝の即位

  • 二月戊戌、皇帝が南宮の前殿で崩じた。遺詔には、朕は民に益するところがなかった、孝文帝の制度にならって節約に努めよ、刺史・二千石・長吏は皆城郭を離れるな、使者を派遣せず督郵に託して上奏せよ、とあった。
  • この日、太子が皇帝の位に即いた。年は二十四。皇后を尊んで皇太后とした。

後宮の称号の制

  • およそ帝の妃は皇后と称し、帝の母は皇太后、祖母は太皇太后と称する。妾臣は昭儀以下、中家人子まで二十等あるのが漢の制度である。
  • 光武の中興後は昭儀・家人の号をすべて廃し、貴人があって金印紫綬を帯びるだけとなった。美人・宮人・綵女はいずれも俸禄がなく、四季の下賜品を受けるのみである。

趙憙による秩序の回復

  • このとき諸王は大喪のため皆召されて還っていた。王莽の乱の直後で国は旧来の典礼を失っており、新帝と諸王は席を同じくして起居し、上下の別がつかず、正す者もいなかった。
  • 太尉趙憙は剣を横たえ顔色を正して諸王を助け降ろし、尊卑の別を正した。そして宮中の警衛を整え礼儀を正したので、百官は粛然とした。
  • 三月丁卯、光武皇帝を原陵に葬った。慎侯劉隆が没した。

明帝の即位の詔と人事

  • 夏四月丙辰、詔を下した。その趣旨は、自分は末子の身で聖なる事業を受け継ぎ、朝夕慎み恐れて怠らぬようにしている、先帝は天命を受けて中興し徳は五帝に並んだ、朕は跡を継いで守成にあたるが農事の困難を知らず、失政によって先代の業を損なうことを恐れる、公卿百官はどうやって朕の至らぬところを補うのか、というものである。
  • 続けて、特進高密侯鄧禹は明察・誠実で第一等の功臣だから太傅とし、拝謁の際は東向きに座らせて格別の礼を示すこと、東平王劉蒼は度量が広く思慮があり、幼君を託すに足り大事に臨んで志を奪われない人物だから驃騎将軍とすることを定めた。あわせて天下の男子に爵位二級、三老・孝悌・力田には三級、身寄りのない者には粟十斛を与えた。
  • 皇帝は即位したばかりで、親族と賢者を重んじ大臣を厚遇しようとし、山陵造営の労をねぎらって太尉趙憙を節郷侯、司空訢を安郷侯、司徒馮魴を揚邑侯に封じた。

劉蒼の辞退

  • 劉蒼は上疏して辞退した。その趣旨は次の通りである。陛下は慈しみをもって臣蒼を憐れみ、即位の日に真っ先に取り立て、薪を負うほどの卑しい才を君子の器に引き上げてくださった。だが今は賞に励むべき士が実行を怠っている。臣は内心愚かさに追い詰められており、輔弼の将の位を汚せば、必ず詩人が官服を諷刺したような謗りを受ける。
  • 今は国内が穏やかで辺境にも警報がなく、上等の徳による無為の政に従うべき時である。文官ですら統合削減すべきで、まして武官の職を新設すべきではない。
  • 昔、虞舜は弟の象とよく和合したが、有鼻の地では政治に関与させなかった。その悪を世に広めるに忍びなかったからである。前の事を忘れないことが後の事の師となる。
  • 漢の成立以来、皇族の子弟で公卿の位に就いた者はいない。どうか陛下には遠く旧来の典礼に従い、最後まで養い育てる恩を垂れていただきたい。願わくは驃騎将軍の印綬を返上したい。皇帝は許さなかった。

劉蒼の輔政と郇恁

  • 劉蒼は同母弟として政を輔け、王室に心を尽くした。賓客として礼遇したのはいずれも当代の名士だった。
  • かつて太原の人郇恁は山沢に隠れ住み、世に仕官を求めなかった。匈奴が太原に侵入した際、かねてその名を聞いていたので郇氏の里には入らず、一族はそのおかげで無事だった。建武年間に召されたが応じなかった。
  • ここに至って劉蒼が改めて郇恁を招き、敬意をもって礼遇した。あるとき朝会で皇帝が郇恁をからかって「先帝が君を召しても来なかったのに、驃騎が招いたら来たのはなぜか」と尋ねた。郇恁は「先帝は徳を執って下の者に恵みを施されたので、来ないでいられました。驃騎は法を執って下の者を検察しますので、臣は行かないわけにいかなかったのです」と答えた。一か月余りで辞去し、家で生涯を終えた。

羌の反乱

  • 秋九月、隴西の羌が反乱した。
  • 冬十一月、中郎将竇固と揚虚侯馬武が羌を征討した。
  • 十二月甲寅、詔して死罪以下は罪を贖うことを認め、それぞれ差等を設けた。