後漢紀巻第八 光武皇帝 建武二十七年 51年

趙憙の太尉就任と辺境策

  • 夏、太僕趙憙が太尉となった。このころ南単于が藩臣を称したばかりで、烏桓も初めて入朝していた。皇帝は趙憙に辺境を安んじる長期の方策を考えさせた。
  • 趙憙は、代郡・朔方・五原・雲中・定襄・雁門の各郡を復置し、諸王をそれぞれの封国に赴かせることを提案した。

趙憙の来歴

  • 趙憙は字を伯陽といい、宛の人である。従兄が人に殺され跡継ぎがなかったため、十五歳で仲間を集めて仇討ちをした。
  • 更始の初め、舞陰の豪族李氏が兵を擁して自衛していた。更始が将を送って降伏させようとしても応じず、「趙氏に孤児の孫の趙憙という信義で名高い者がいると聞く。彼にならば降りたい」と言った。
  • 更始が趙憙を召したとき、彼はまだ二十歳前だった。更始は笑って「乳離れしたばかりの子牛に重荷を負って遠くまで行けるか」と言いつつ、すぐ偏将軍として舞陰に行かせ、李氏を降伏させた。続いて潁川に入り、まだ降っていない勢力を次々に討った。更始は大いに喜び「そなたは名家の駿馬だ。励め」と言った。
  • 昆陽の戦いでも功績が多く、中郎将に任じられ勇功侯に封ぜられた。更始が敗れると郷里に帰った。

鄧奉の乱と趙憙の潔白

  • 趙憙はもと鄧奉と親しかった。鄧奉が叛くと、趙憙はたびたび手紙を送って厳しく責めた。ところが趙憙が鄧奉に策を授けていると言って中傷する者が現れた。
  • 詔により趙憙は建威将軍の配下に属し、功を立てて罪を贖うこととされた。趙憙は自ら弁明しなかった。
  • 鄧奉の死後、皇帝は趙憙の書簡を手に入れて驚き、「趙憙はまことの長者だ」と言い、召し出して公車で待機させた。

簡陽の帰服

  • 当時まだ江南との交通が開けておらず、趙憙を簡陽侯相として兵騎を付けて赴任させようとした。趙憙は自ら願い出て、兵騎は不要で単騎で駆けつけ情勢を見て臨機に処したいと述べ、兵騎を率いて行けば必ず現地の役人や民に疑われると説いた。皇帝は許した。
  • 趙憙が簡陽に着くと、民は城門を閉ざして受け入れなかった。趙憙は城門の外にとどまり、国中の大夫で日ごろ住民に信頼されている者を探し出して召し、事情を尋ねた。答えは「兵を集めたのは自衛のためだったのが賊のようになってしまい、恐ろしくて自分から引き返せないだけです」というものだった。
  • 趙憙は、混乱の時期の行動は朝廷が咎めるところではない、自ら疑ってためらうなと伝え、懇切に恩と信義を説いた。賊はついに自ら縄をかけて趙憙のもとに降った。
  • のちに平原太守となって治績を大いに挙げ、住民は歌にして讃えた。