俸禄の増額
- 春正月、官吏の俸給を増やした。三公から下級の佐吏まで、それぞれ差等を設けた。
馬援の武谿遠征と進路の選択
- 二月、馬援は臨郷に至って蛮軍を大破し、千余の首級を挙げた。
- 蛮の地への道は二筋あり、一つは壺頭で近道だが険しく、もう一つは充中で遠回りのうえ糧食の輸送が困難だった。当初、皇帝と諸将はどちらを先に攻めるか議論したが決まらなかった。
- 軍が長沙に着くと中郎将耿舒は充中の賊を先に討つべきだと上申したが、馬援は日数と糧食を空費するとして壺頭への進攻を選んだ。
- 賊は高所に拠って隘路を守り、船は進めなくなった。夏の酷暑に見舞われて兵士の疫死が相次ぎ、馬援自身も病に倒れた。岸を掘って室を作り暑気を避けた。賊が高所から太鼓を鳴らして騒ぐたび、馬援は人に支えられて見物し、その気概に左右の者は皆涙を流した。
耿舒の書簡と馬援の失脚
- 耿舒は兄の好畤侯耿弇に手紙を送り、充中の賊を先に討つよう進言したこと、糧食は運びにくくとも兵馬は働け数万の将兵が奮って戦おうとしていたこと、壺頭ではついに前進できず大軍が疫病に苦しんでいることは自分の言った通りだ、と訴えた。
- 耿弇がこの書簡を奏上すると、皇帝は梁松を早馬で送って馬援を問責させ、代わって監軍とした。梁松が到着する前に馬援は死去した。梁松は馬武らとともに馬援を皇帝の前で誹謗した。皇帝は激怒し、馬援の将軍印と侯の印綬を取り上げた。
宋均の独断による招降
- このとき兵士の大半が死に、謁者宋均は軍を引き揚げられなかった。諸将と相談して詔命を承ったことにして賊を降伏させようとしたが、諸将は誰も応じなかった。宋均は「忠臣は国境を出れば、国家を安んじうる措置は独断で行ってよい」と述べた。
- 宋均は兵を整列させ、詔と称して降伏を促した。蛮夷は恐れおののき、自分たちの大帥を斬って宋均に降った。宋均は長吏を配置して引き揚げ、自ら詔を偽った罪を申し出た。天子はその功績をたたえて金帛を下賜し、以後、四方で異論が生じるたびたびたび宋均に諮問した。
馬援家の困窮と朱勃の上書
- 馬援の遺族は恐れて先祖の墓所に帰ることができず、城の西に数畝の土地を買って葬った。賓客や旧友も葬送に加わろうとしなかった。
- 元の雲陽令朱勃が宮門に赴いて上書した。その趣旨は次の通りである。
- 徳ある王者の政治は人の功績を忘れず、その献策を採用して一人に完璧を求めない。高祖は蒯通を赦し田横を王の礼で葬ったので、大臣たちは晴れやかな気持ちで誰も自分の身を疑わなかった。大将が外にあって讒言が内で行われれば、わずかな過失は記録され大功は数えられない。これは国として慎むべきことである。だからこそ章邯は誅殺を恐れて楚に走り、燕の将は聊城に拠って降らなかった。彼らが好んでそうしたのではなく、巧言が同類を傷つけることを悼むのである。
- 馬援は建武四年の冬に初めて正朔に帰した。当時、公孫述は益州で僭号し、隗囂は隴・冀に兵を擁し、豪傑は目を怒らせて各自勝手に政をしていた。馬援は西州から身を投じ、徳を慕って命を捧げ、権門の間で孤立して味方の一言もなかった。十郡の使者の任や封侯の幸運を求めたわけではない。
- 建武八年の西征では衆議が定まらなかったが、馬援は西州を破る策を強く進言し、隗囂の平定に力があった。隴右が片づかず羌の賊が辺境を騒がすと、隴西への使者となって身を顧みず奮闘し、関山や谷間を進み、先零の野で戈を振るった。兵を動かせば戦果があり、軍を進めれば勝った。
- 虎賁の任に召されては誠実な策と善き謀が国に用いられ、南のかた交阯を征しては一州を平定し、王府に越裳の貢納をもたらし、辺境から戦乱の憂いを除いた。
- 近ごろは南に赴いて臨郷で敵を陥れ、戦果は挙がっていたのに、事を成し遂げないまま死んだ。将兵が疫病にかかったのに、馬援一人が無事でいられようか。
- 戦いには長期戦で功を立てる場合も、速戦で軍を失う場合もある。深入りが必ずしも正しいとは限らず、退かないことが必ずしも誤りとも限らない。人情として、誰が遠地に長く留まり生きて帰らぬことを望もうか。
- 馬援は朝廷に仕えて二十二年、北は塞を出て遠征し、再び南して長江を渡り、悪疫の気に触れて陣中に屍をさらした。それなのに名は消され爵位は絶え、封土は伝えられない。天下の人はその過失を知らず、民衆はその罪を聞かないまま、讒言者の言葉に遭って冤罪を着せられ、遺族は門を閉ざし、葬っても墓所に帰れず、恨みが集まって一族は震えおののき、死者は自ら弁明できず、生者はそのために訴え出る者もない。
- 孤立無援の忠誠を守りながら讒言から身を守れないのは、義士の悲しむところである。陛下がつまらぬ儒者の言葉を顧み、功臣に黄泉で恨みを抱かせないようにと願う。
- 上書は取り上げられず、朱勃は郷里に帰った。当時、梁松・竇固らが宮中にいた。皇帝が朱勃を知っているかと尋ねると、「元の雲陽令です」と答えた。皇帝がその上書を読ませると、梁松と竇固は驚いて「これでは陛下は伏波をひどく罪されまい」と語り合った。
史論(袁宏曰・馬援)
- 馬援の才気と志略は時代を動かす器量に足るもので、馬を躍らせて身を捧げ功臣の列に名を連ねたのは、時機に恵まれたからである。しかし天下が定まってゆったり休むべきときに、なお白髪で鞍にまたがり意気込んだのは行き過ぎではないか。
- 才を宝とするのは智があってこそである。才智の働きは物事に通じることを尊ぶ。才の大きい者は世を救い、智の小さい者はわが身を修めるにとどまる。広く通じ救う者ほど智は広い。
- 精緻な仕掛けの働きを見れば名工の巧みさがわかり、太平の業績を見れば聖人の明察が悟れる。それより下は千差万別で、智が一官に足り功が一もっこ分を覆う程度でも、それぞれ才力の及ぶところである。
- 昔の君子が事を為すべき時代に遭って黙っていられず、勢いよく駆け回って四方に働いたのはこのためだ。だがそれは賢達でなければ見極められない。
- 時代を代表する君主に出会い、その威光のもとで盛衰の指示を受け、方針を授かってこそ、功名は保たれ身に余裕が残る。ふさわしい主君に出会わず自分の思いだけで仕えれば、一部隊を得れば一邑を狙い、一邑を得れば一国を図る。それゆえ成功すれば攻撃する者が増え、功が立つほど日ごとに困難に近づく。まして挫折や危険、予測できない事態が加わればなおさらである。
- 才智が余っていても功名の足りない者があり、事業が半ばに至らぬうちに功が過ぎる者もある。乗る勢いが違えば、同じ働きでも難易と成果が異なる。
- 積極的な人物がたまたま機会をつかみ、一時の功で世の注目の的になっても、外には人を驚かす災いがあり、内には気苦労を抱える。やがて中途で気落ちしても退く道がない。勢いが自然にそうさせるのである。
- 上手に功を立てる者はそうではない。ふさわしい主君に出会わなければ動かず、やむを得ないときは必ず力量を測ってから身を処す。力が一戦にとどまれば事は容易で功は完全に保たれ、労が一邑で足りれば心労は少なく身は安泰である。この筋道を推し進めれば、身を滅ぼす禍いなど起こりようがない。
- 馬援は明主に親しく仕え、動けば手綱に応じるようだったが、死後に恨みと誹謗が沸き起こったのは、才の限度を越えて働きを止めなかったためではないか。
寿陵の造営と皇帝の日常
- 夏四月、初めて寿陵の造営を始めた。孝文帝の先例にならって節約に努め、代が改まったのちには自然の丘と一体になるようにさせた。およそ帝が即位すれば必ず寿陵を営み葬具を整えるのが漢の制度である。
- 皇帝は日が傾くまで政務を聴き、夜半まで経書を講じ、群臣と政事を論じたり、古今の言行や郷里の旧事を語ったりした。忠臣・孝子・義夫・節婦の話に及ぶと、侍る臣下は皆胸を打たれ奮い立ち、満ち足りた気分になった。大きな政策でなくとも、進退の適否は必ず人を遣って問わせた。有能な者を励ますためである。
- 皇太子がくつろいだ折に「陛下には禹や湯のような明察がありますが、黄老の養生の道を欠いておられます。今や天下は安らかです。どうか思案を減らし、精神を養い、ゆったりとお過ごしください」と述べた。皇帝は「私はこれを楽しみとしているのだ」と答えた。