後漢紀巻第七 光武皇帝 建武十三年 37年
春正月 献上物の抑制
- 正月戊子、詔が下った。以前、郡国に対して会計報告の使者にことよせて献上物を差し出すなと命じたのに、今もなお止まっていない、道中の人夫を無駄に使うだけでなく通過する土地にも費用の負担をかける、すでに太官には受け取らぬよう命じた、というもの。ただし遠方の食物で天子の膳に供し宗廟に薦めうるものは従来どおりとした。
- そのころ一日に千里を走る名馬と百金の値打ちのある宝剣を献じた者があった。帝は馬を鼓車を引かせるのに使い、剣は騎士に与えた。
- 帝はもともと音楽を聴くのを好まず、手に珠玉を持たず、出征には常に革張りの車に乗って用が足りればよしとした。公孫述が平定されて鼓を打つ楽人や飾り車が送られてきて、はじめて天子の乗り物と装束の類が次第に整った。
二月以降の人事と封建
- 二月、馬武が下曲陽に駐屯して胡の侵入に備えた。
- 丁亥、太原王の劉章を斉公、魯王の劉興を魯公とした。
- 五月、殷紹嘉公を宋公、周承休公を衛公とした。鄧禹を高密侯に移封して四県を食邑とした。帝は鄧禹の功が大きいことから弟の鄧寛を明親侯に封じた。鄧禹は特進として朝請に列した。
史論(袁宏曰・君臣の遇合)
- 古の明君は必ず自らを低くし虚心に人を求めて輔佐の臣を近づけた。あらゆる方面に通じさせ、天と人を和睦させるためである。古の賢臣も必ず木を選んで棲み、高い世の主を助けた。主は道で勝てないからといって臣を招かぬことはなく、臣は時が困難だからといって進み出ぬことはなかった。両者が出会えば割符が合うようであり、功が高くてもその人を尊んで礼遇し、軍が敗れてもその失敗を咎めなかった。三代の君臣が上下ともに喜び、その徳が天地に比せられたのはこのためである。
- 末世になると道が純粋でなくなり、自分本位で功を尊ぶようになり、外から亀裂が入って、君臣の契りは全うされないことが多くなった。ただ和やかで終始一貫していた例だけが、古の流れになぞらえられる。
- 高祖の興隆は蕭何の力によるものであり、しばらく蕭何を失えば左右の手をもがれたようであった。ところが天下が定まると用いどころがなくなり、鮑生の進言によってようやく身を全うし、虎狼の道を素足で歩んだあげく獄につながれた。
- 張良の深謀は高祖にとって占いのようなものであり、はじめは張良でなければ謀らなかった。しかし天下が安定すると門を閉ざして出ず、神仙にことよせてやっと難を免れた。
- 光武が河北にあったころ、まだ身の置き所も分からなかった。鄧禹は策を携えて天と人の巡り合わせを深く説き、人材を挙げて任じ、帝王の道筋を開いた。このとき君臣は歓びに満ち、千年の隔たりも一瞬のようであった。ところが関中で一度敗れると、生涯三公に列することはなく、うつむいて足踏みし、ただの列侯と同列に甘んじた。
- ああ、この人々はみな竜が雲に乗るような機会に恵まれ、帝王の心にかなった者たちであり、身を慎み謹厳であってもなおこれほどの難しさがあった。まして勢いで従っただけで義によって結ばれていない者ならなおさらである。
陳元・杜詩の上奏
- 山桑侯王常と東光侯耿純が没した。
- このころ、司隷校尉に三公を監察させるべきだという上書があった。司徒掾で蒼梧の人陳元が上疏して反対した。
- その趣旨は、臣を師とする者は帝、臣を賓客とする者は王である、武王は太公望を師とし、斉の桓公は管仲を仲父と呼んだ、これが古の道である、近くは魏の文侯が田子方を友としたので諸侯は境内に侵入しなかった、高皇帝は相国に対し奏事に拝礼を要さず殿中で小走りしなくてよいとして大臣を尊重した、というもの。
- 続けて、新の王莽は漢の衰えに乗じて一人で国政を握り天下を盗んだが、自らを恃んで群臣を信用せず、大臣の職権を奪い宰相の威を損なった、それでも天下の企てを禁じることはできず自身は世に誅殺された、と述べる。
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結論として、君主の患いは自ら驕ることにあって臣が驕ることにはなく、過ちは自ら任せきることにあって人に任せることにはない、今は四方がまだ収まらず民心も一つでなく、人々が耳目を注いでいる時である、陛下は文王・武王の典礼を修め祖宗の徳を継ぎ、節を屈して賢者を待つ姿勢を将来に示すべきであって、担当官が大臣を監察するなどという名目があってはならない、とした。帝はこの意見をよしとした。
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南陽太守杜詩が上書した。唐虞は優れた補佐によって安泰であり、文王は多くの士によって平穏であった、だから『詩』は「済済」とたたえ『書』は「良いかな」と言う、と説き起こす。
- 続けて、元大司徒の伏湛は学問を始めて以来汚点がなく、篤実に学を好み、命がけで善道を守り、その学問は人の師、行いは人の手本であった、平原にあっては官民に畏れ慕われ、世が乱れても城郭は崩れず、節を守って重厚で動かしがたい人物であった、と述べる。
- そして、陛下は善悪をよく見抜かれるが、宰相としてのわずかな過失を明らかにして退けたまま長く用いていない、伏湛の徳は王室を支えるに足り、名声は遠方に示すに足る、以前は諸侯を選んで公卿とすることで藩屏を励まし忠信を勧めた、伏湛こそ宰相輔佐の官に任ずべきである、と論じた。
- 夏、詔により伏湛が召された。到着してすぐ拝謁し、下賜はきわめて手厚かった。任用しようとした矢先に急病で没した。棺を賜り、帝は自ら弔って祭った。伏氏は代々経学と質素な暮らしを受け継ぎ、東方では「伏不闘(争わぬ伏氏)」と呼ばれた。家風による感化のためである。伏湛の兄の子の伏恭は明帝の時に司空となった。
侯霸の死
- 大司徒侯霸が没した。帝は惜しんで自ら弔問に臨み、詔を下した。
- 詔の趣旨は、侯霸の善行を積んだ徳は時が経つほど明らかになり、清廉な節操は白髪になるほど厳しさを増した、漢の旧制では丞相は任命の日に列侯に封じられるが、近年は軍役で野営が続き功臣がまだ封国を受けていないので、忠臣の心を思って先に恩寵を受けさせたくなく封爵しなかった、今こそ追贈の爵と諡を与えその跡を継がせよ、というもの。
- こうして侯霸を則郷侯に封じ、哀侯と諡した。臨淮の官民は侯霸の死を聞いて涙を落とさぬ者がなく、共同で祠を建てて四季に祭った。