後漢紀巻第一 光武皇帝 更始元年 23年

春正月 甄阜・梁丘賜の敗死

  • 正月、甄阜と梁丘賜を斬り、死者は一万余に及んだ。
  • 嚴尤と陳茂は甄阜らの死を聞き、宛を押さえようと駆けつけた。伯昇は蓄えを焼き釜甑を破って背水の構えを取り、育陽で陳茂と戦って大破し、二千余級を斬った。嚴尤・陳茂は汝南へ逃げた。
  • 漢兵はそのまま宛を包囲した。
  • 伯昇は自ら柱天將軍と号し、聖公は更始將軍と称した。
  • 王莽は伯昇を憎み、その首に五万戸と黄金十万斤の懸賞をかけた。長安の諸宮署と天下の郷亭に伯昇の像を描かせ、朝ごとに起きてこれを射させた。

更始帝擁立をめぐる議論

  • 甄阜・梁丘賜の死後、降る者は十余万に上ったが統一の指揮者がなかった。諸将は君主を立てるよう請い、南陽の英雄も王常もみな伯昇に心を寄せていた。
  • しかし漢兵は新市・平林の勢力を基盤としており、その将帥は草野から起こって放縦を好み、国を治める方略がない。彼らは伯昇を憚り、御しやすい聖公になれ親しんでいた。
  • 二月辛巳、朱鮪らは濟水のほとりに壇場を設けて聖公を天子に立てることとし、その議を諸将に示した。
  • 伯昇は反対して論じた。
  • 宗室を尊ぶ心は厚いが益はない。赤眉は青・徐で数十万を擁し、その中に必ず劉氏がいる。もし南陽が別に君を立てれば、必ず内輪の争いになる。王莽がまだ滅びぬうちに宗室が攻め合えば、天下を疑わせ自ら権を損なうことになり、莽を破る道ではない。
  • また最初に兵を挙げて旗印を唱えた者が事を成し遂げた例は少ない。陳渉と項羽がそれだ。
  • 舂陵から宛まではわずか三百里、功徳もまだ施していない。それで急に自ら天子に立てば後人の的となり、こちらの疲弊に乗じられる。良策ではない。
  • 将軍のためには、ひとまず王を称するのがよい。王の勢でも諸将を斬るには足りる。いま赤眉が立てた者が賢者なら、率いて従えばよく、我らの爵位が奪われることはない。誰も立てないなら、莽を破り赤眉を降してから尊号を挙げても遅くはない。
  • 多くの将が「もっともだ、ひとまず更始王でよい」と言った。ところが將軍の張斤が剣を抜いて地を撃ち、「事を疑えば功なし。今日の議に二つはない」と言い、ついに聖公が立てられた。
  • 聖公はもともと気弱で、汗を流して物も言えなかった。
  • 順に諸将が任じられた。劉良は國三老、王匡は定國上公、王鳳は成國上公、朱鮪は大司馬、劉縯は大司徒、陳牧は大司空、世祖は太常卿、その他は九卿・將軍。改元して更始元年とした。
  • これに豪傑は失望した。

伯昇をめぐる緊張

  • 劉稷は魯陽を攻めていたが、更始が立ったと聞いて怒り、「もともと宗室として王莽を討ち社稷を復そうと謀ったのは伯昇兄弟だ。更始が何をした」と言い、宛に出頭しようとしなかった。更始の大臣たちは不快に思った。世祖はこれを危ぶみ、伯昇に「事は良くない方に向かいそうだ」と告げたが、伯昇は笑って「いつもこんなものだ」と言った。
  • 李軼ははじめ世祖と親しかったが、のちに新たな貴顕に諂って世祖から疎遠になった。世祖は伯昇に「この男を近づけてはならない」と戒めたが、伯昇は従わなかった。
  • 平林の兵が新野を囲んだが落とせなかった。その宰の潘臨が城壁に登り、「劉公の一言の保証がほしい」と言ったので、伯昇が降伏を受け入れた。
  • 伯昇の威名が日ごとに高まると、更始の君臣は内心穏やかでなくなった。あるとき詔で縯に七尺の宝剣を示し、続いて申屠建が玉玦を献じた。樊宏はこれを見て、昔の鴻門の会で范増が玦を挙げて項羽に示したのは高祖を指したものだ、申屠建にも良からぬ意があるのではないか、と告げたが、縯は応じなかった。
  • 世祖が潁川へ向かうにあたり、あらためて深く伯昇を戒めた。

三月 潁川の経略と諸将の来属

  • 三月、世祖は諸将とともに潁川で地を略した。父城の馮異、内鄕の銚期、潁陽の王霸、襄城の傅俊、棘陽の馬成がみな世祖に従った。
  • 馮異は字を公孫。『左氏春秋』に通じ、『孫子』の兵法を好んだ。郡功曹として五県の事を監し、父城令の苗萌とともに城を守っていた。属県を巡行中に漢兵に捕らえられ、「老母が城中にいる。一人の働きなどたいした力にはならない。五城を挙げて功に代えたい」と申し出た。世祖はこれを善しとした。
  • 馮異は帰って苗萌に語った。諸将はみな荒々しい壮士だが、劉將軍は凡人ではない。身を寄せて生死を共にできる、と。苗萌も「公の計に従おう」と答えた。
  • 銚期は字を次況。身の丈八尺二寸、容貌は堂々として人並みでない。父が没すると三年の喪を行い、郷里は義とした。世祖はその気勇と志義を聞いて召し、掾とした。
  • 王霸は字を元伯。家は代々獄官で、霸も獄吏となったが法文を好まず、気概があって大志を抱いた。父はこれを異とし、長安に学ばせた。数年で帰ったところ、ちょうど世祖が潁陽を通ったので、賓客として面会し、「将軍が義兵を興して簒逆を誅すと聞き、身のほどもわきまえずその威徳を慕い、行伍に加わりたく参上した」と述べた。
  • 世祖は「いま天下は乱れ兵革が並び起こっている。士を得た者が栄え、失った者が滅びる。賢士とともに功業を成すことを夢に見るほどだ、二心などあろうか」と答えた。王霸の父は「わしは老いて軍旅に耐えぬ。お前は行って励め」と言った。
  • 傅俊は字を子衞、馬成は字を君遷。それぞれ縣吏・亭長の身から従った。

夏五月 昆陽の攻防

  • 夏五月、王莽は大司徒の王尋、大司空の王邑に四十万の兵(号して百万)を率いさせて潁川に至らせた。嚴尤・陳茂もふたたび二公と合流した。
  • 莽が二公を遣わしたのは威武を盛んに示して山東を震え上がらせるためで、猛獸や車甲、攻城の道具を携え、輜重は千里に及んだ。
  • 世祖は下江・新市・平林の兵数万とともに陽關でこれを撃ち、二公の兵は反転して逃げた。世祖は昆陽に入った。
  • 諸将はおびえ、それぞれ自分の取った城に帰って守ろうとした。世祖は「昆陽が破られれば一日のうちに諸将も滅びる。力を合わせて救わず、妻子や財物を守りに帰るのか」と説いた。諸将は怒って「劉將軍はどうしてそんな口をきけるのか」と言った。世祖は笑って席を立った。ただ王常だけが世祖の計に賛成した。
  • そこへ斥候が戻り、大軍が数百里にわたって続き頭も尾も見えず、すでに城の北まで達したと報じた。諸将はあわてて改めて劉將軍に計を請うた。世祖はふたたび互いに救い合う形勢を説いた。諸将は平素世祖を軽んじていたが、切迫すると世祖が示した成敗の見通しにことごとく従った。
  • 当時、城中の漢兵は八、九千人。世祖は王鳳・王常を残して昆陽を守らせ、夜に宗佻・李軼・鄧晨ら十三騎とともに城を出た。城下に迫った敵はすでに十万近く、世祖はかろうじて脱出した。
  • 嚴尤は王邑に説いた。昆陽は小城だが堅い。いま尊号を称する者は宛にいる。大軍を宛に向ければ相手は必ず逃げ、宛が敗れれば昆陽は自ずと降る、と。王邑は聞かなかった。
  • 王邑は昆陽を取り巻いて営を作り、幾重にも囲んだ。雲車は十余丈、旗幟は野を覆い、金鼓の音は数十里に聞こえた。地下道を掘り、衝車を作り、弩の矢は雨のように城中に降り、城内の者は戸板を背負って水を汲んだ。
  • 二公は勝利を時間の問題と考え、校尉や司馬は郡県に口利きをして賄賂を受け取り、軍事を憂えなかった。
  • 流星が営中に落ちた。また白昼、山が崩れるような雲気が営めがけてまっすぐ落ち、地上一尺のところで消えた。吏士はみな押しつぶされたように倒れ伏した。
  • 世祖は定陵に至ると、夜明けに諸営の精兵をことごとく発して昆陽を救おうとした。諸将は輜重に未練を残し、兵を留めて守らせようとした。世祖は「いま心を一つにして二公を破れば珍宝は万倍になり大功が成る。もし敗れれば身も首も残らぬ。財物どころではない」と言った。
  • 諸将は二公の兵の盛んなのを聞いて震え恐れた。世祖は天命と暦数を説いてその心を励まし、自ら先陣を願った。諸将はやむなく世祖に従った。
  • 世祖は歩騎千余を率いて諸将の前に立った。二公も歩騎千余を出して合戦し、数十級を斬った。諸将は喜び、「劉將軍は日ごろ小敵を見ては臆病なのに、大敵を前にすると勇ましい。不思議なことだ」と言った。
  • 世祖がさらに進み、諸将もこれに乗じて数百級を斬った。連戦連勝で諸将はいよいよ奮い立った。

宛城の陥落

  • 棘陽の岑彭は字を君然。郡吏として嚴說とともに宛城を守っていた。伯昇が数か月攻め、城中では食人が起こるに至った。
  • この月、岑彭と嚴說は城を挙げて降った。諸将は彼らを誅そうとしたが、伯昇は「彭は郡吏として心を固く守り抜いた。それが彼の節義だ。大事を挙げるには義士を表彰すべきで、封じて後の人を励ますほうがよい」と言った。更始は岑彭を歸德侯に封じた。
  • 更始は宛に入って太守府を都とし、宗室や諸将を封じ、列侯となった者は百余人に及んだ。

六月 昆陽の大勝

  • 宛城の陥落を昆陽ではまだ知らなかった。世祖は城中宛ての書を作り、宛からの兵がまた来ると書いて、昆陽の付近にわざと落とした。二公はこれを手に入れて恐れた。
  • 六月己卯、世祖は精兵三千を選び、城の西の水沿いから二公の陣に突撃した。二公の兵は北へ敗走し、司徒の王尋が討たれた。
  • 昆陽城中の兵も鼓を打ち喚声を上げて出撃し、内外から挟み撃ちにした。
  • おりしも大風と雷雨が起こって滍水が増水し、二公の大軍はついに潰えた。逃げて水に飛び込み溺死した者は数万に及び、滍水は流れが塞がるほどだった。
  • 王邑・嚴尤・陳茂は軽騎で逃げ去った。漢軍が獲た輜重・車甲は数か月かかっても片づかず、残りは焼き捨てた。

劉伯昇の誅殺

  • そこへ劉稷が宛に出頭した。李軼らがそろって讒言し、更始は兵を並べて劉稷を捕らえた。伯昇が強く争ったため、伯昇までも殺された。光祿勲の劉賜が大司徒とされた。
  • 当時世祖は父城にいたが、宛に出向いて謝罪し、昆陽の功を誇らなかった。更始はそのため恥じ入り、世祖を破虜大將軍に任じ、武信侯に封じた。

秋八月 劉望の自立

  • 秋八月、もとの鍾武侯であった劉望が汝南に拠り、自ら定漢王と称した。嚴尤・陳茂もみなこれに帰した。

九月 王莽の滅亡

  • 王莽は太師の王匡と國將の襃章を遣わして洛陽を守らせ、更始を防ごうとした。
  • 更始は西屛將軍の申屠建、司直の李松を遣わして関を攻めさせ、定國上公の王匡に洛陽を攻めさせた。三輔は震動し、長安でも兵が起こって共に莽を攻めた。
  • 九月丙子、東海の公孫賔就が王莽の首を斬った。折しも申屠建と李松が到着し、莽の首と璽綬を宛に送った。
  • 更始はこれを見て「莽もこんなことをしなければ霍光と並ぶ者だったろう」と言った。更始の韓夫人は「そうしなかったら陛下がどうしてこれを手に入れられましょう」と言った。
  • この月、王匡もまた洛陽を抜き、太師公の王匡と國將の襃章を捕らえ、宛に送って斬った。

冬十月 劉望の滅亡

  • 冬十月、劉望が自ら天子に立ち、嚴尤を大司馬、陳茂を丞相とした。
  • 更始は劉信を遣わして攻めさせた。劉望の兄の子の囘が望を殺して降り、嚴尤・陳茂は朗陵へ逃げたが、もとの部下に殺された。

更始政権の東遷と漢官の威儀

  • 更始は北へ洛陽に移ろうとし、世祖を司隸校尉とした。
  • はじめ三輔の官府の吏が東へ出迎えたとき、更始の諸将数十輩が冠幘をかぶりながら婦人の衣を着ているのを見て、長安ではひどく笑い者にした。心ある者は辺郡へ逃げ込むほどだった。
  • ところが司隸の官属が到着すると、衣冠も制度もすべて旧儀のとおりであった。父老や旧吏はこれを見て涙を流し、悲しみと喜びを込めて「今日ふたたび漢官の威儀を見られるとは何という幸い」と言った。

赤眉の再離反

  • 更始は洛陽に至り、使者を遣わして樊崇らを降らせた。樊崇は渠帥二十余人とともに洛陽に来て降り、みな列侯に封ぜられた。
  • しかし残された部衆が相率いて背いたため、樊崇らはみな逃げ去り、ふたたび衆を率いて二隊に分かれた。樊崇は開封から南陽へ出、徐宣・謝祿らは陽翟から河南を撃った。

群雄の割拠

  • このころ豪傑が各地でいっせいに起こった。廬江(李憲)、琅邪には張歩、安定には劉芳、東海には董憲、黎丘には秦豐。そのほか赤眉・銅馬・青犢・高湖・董逹らが各々数万の衆を擁し、旬月のうちに天下じゅうに広がった。

隗囂の挙兵と漢の宗廟

  • 隗囂は字を季孟、天水成紀の人。若くして郡吏となり涼州で名を知られた。
  • 季父の隗崔は豪俠で人心を得る力があった。莽の兵が昆陽で敗れ、更始が宛で立ったと聞き、兵を挙げて漢に応じようと謀った。隗囂は「兵は凶事だ、宗族に何の罪があろう」と止めたが、崔は聞かず、数千人を集めて莽の鎮夷大尹李育を攻め殺した。
  • やがて一同は隗囂を主に推した。囂はやむなくこれを受け、平陵の人方望を招いて軍帥とした。
  • 方望は隗囂に説いた。いま天に承け民に順って漢を輔けて立つ者は南陽にいる。莽はなお長安に拠っている。漢のために働くと言っても命を受けていないのでは、どうして衆の信を得られよう。急ぎ漢の高廟を立て、臣を称して祭祀を奉ずるべきだ。これがいわゆる神道に託して教えを立て、民と神の助けを求めるということである。礼には損益があり、質と文とに定まりはない。茅葺きの屋根と土の階でも敬意さえ尽くせばよく、供物が備わらずとも神明が見捨てることはない、と。
  • 隗囂はその言に従い、漢の祖宗の廟を立てた。祭祀が終わると一同は盟った。我ら同盟の者はまことに天道を承け、劉氏の宗室を興し輔ける。もし邪心を抱く者があれば神明がこれを殺せ、と。
  • 隗囂は十万の兵を整え安定を攻めようとした。安定太守の王向は莽の從弟である譚の子で、郡中に威を振るい、属県はまだ背けずにいた。
  • 隗囂が天命を説いても王向は従わない。囂は重ねて説き、兵を交えて刃に血を塗り吏士を傷つけることを嫌ったが、ついに聞き入れられなかった。そこで兵を進めて王向を捕らえ、百姓に引き回してから誅した。安定はことごとく降った。
  • また長安でも兵が起こって莽が誅された。隗囂は諸将を分け遣わして隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・燉煌を巡り、すべて下した。

公孫述の益州掌握

  • 公孫述は字を子陽、茂陵の人。成帝の時に清水長となり五県を兼ね治めたが、悪事が起こる余地もなく、郡中では神業だと言われた。王莽の時には導江卒正となり、ここでも有能の名を得た。
  • 更始が立つと、南陽の宗成が自ら將軍と称し、漢中で兵を集めて数万となり、成都まで至った。
  • そのころ導江の治所は臨邛にあった。公孫述は県中の豪傑を召して言った。天下はひとしく新室に苦しみ劉氏を慕っている。だから漢の将軍が来たと聞いて道に馳せ出て迎えたのだ。ところがいま罪なき百姓が父子ともに捕らわれ、家は焼かれている。これは冦賊であって義兵ではない。私は郡を押さえて自ら守り、真の主を待ちたい。力を合わせる者は留まり、望まぬ者は去れ、と。
  • 豪傑はみな叩頭して死力を尽くすと願った。そこで城中の兵千余人を発し、人に漢の使者が東から来たと偽らせて印綬を受け、輔漢將軍兼益州牧と号した。北して成都に至るころには衆は数千となり、宗成を攻めて大破し、益州をすべて手に入れた。

その他の群雄

  • 李憲は潁川の人。王莽の時、廬江で賊が起こって十余万となると、莽は憲を偏將軍として年を重ねて撃ち平らげさせた。莽が敗れると郡を占拠して守り、自ら淮南王と称した。
  • 張歩は琅邪の人。漢兵が起こると千余人を集め、近隣の県数十城を攻めた。
  • 劉芳は安定三川の人。もとの姓は盧。王莽の末、天下がこぞって漢を慕ったので、これに乗じて武帝の後裔と詐称し、名を劉文伯と改めた。莽が敗れると、三川属国の羌胡とともに北辺で挙兵した。
  • 董憲は字を僑卿、東海朐の人。父を人に殺されたので客を集めて仇を報じ、次第に衆が増えて属県を攻めた。
  • 秦豐は南郡黎鄕の人。若いころ律令を学んで縣吏となった。漢兵が起こると同郷の蔡張・趙京らと挙兵して数千人となり、宜城・襄陽など諸県を攻め下し、自ら黎丘王と称した。
  • 更始は劉永を舉王に封じた。永はもとの梁王の子で、王莽の時に廃されて庶人となっていたが、更始が立つと洛陽に赴いたので封を得た。

世祖の河北派遣

  • 更始が大将を遣わして河北を平定させようとしたとき、劉賜のほか宗室に使える者がなく、ただ世祖だけがいた。朱鮪らは反対したが、左丞相の曹竸父子が権を握っており、馮異が世祖に彼らと厚く結ぶよう勧めた。こうして世祖は大司馬とされ、河北平定に派遣された。
  • 馮異・銚期・堅譚・祭遵・臧宫・王霸はみな掾吏として従って河北に至った。賓客には去る者が多かった。世祖は王霸に「潁川から私に従った者はみな去ってしまった。疾風にこそ勁草を知る。お前は励め」と言った。
  • 堅譚は字を子汲、襄城の人。縣吏の身から世祖に従った。
  • 祭遵は字を弟孫、潁陽の人。家は富裕だったが粗末な衣を着て身を飾らず、経学を好んだ。母が死ぬと自ら土を運んで墳を築き、孝謹をもって知られた。かつて亭長に辱められると、客を集めて亭長を殺した。県中では「学があってしかも勇がある」と評した。世祖が昆陽で二公を破って潁陽に帰ったとき、遵は縣吏としてたびたび拝謁した。世祖はその姿を愛して「私に従う気はあるか」と問い、遵は従いたいと答えたので、門下吏に任じられた。
  • 臧宫は字を君翁、郟の人。縣亭長となり、賓客を率いて下江の兵に入った。昆陽の戦いで諸将はその勇を称えた。世祖は宫が勤勉で口数が少ないのを見抜き、ひとり親しく受け入れた。

馮異の献策と河北の撫循

  • 伯昇が殺されたとき、世祖は喪服を着ることもできず、飲食も笑いも言葉も平常どおりにしていた。
  • 馮異は、世祖が独りでいるときは酒肉を口にせず、寝具に涙の跡があるのを見て、ひとり世祖を慰めた。世祖は「妄りなことを言うな、そんなことがあるものか」と答えた。
  • そこで馮異は説いた。天下はひとしく王氏に苦しみ漢家を慕っている。いま下江の諸将は縦横に振る舞い、行く先々で財物を略奪し婦女をさらうので、百姓はまた失望して戴く者がない。いま公は一方面を専任されている。広く恩徳を施すべきだ。桀紂の乱があってこそ湯武の功が現れる。民が飢え渇いているときは食べさせやすい。まさに今がその時だ。急ぎ官属を分け遣わして冤罪を裁き直し、恩恵を施されよ、と。
  • そこで馮異と銚期を伝馬で遣わして百姓を撫循させた。行く先々で二千石・長吏・三老がみな食事を用意した。囚人を赦し、苛政を除き、漢の官制に戻し、旧来の法章を明らかにしたので、吏民は大いに喜び、牛と酒が道にあふれたが、みな辞退して受けなかった。

鄧禹の来投と河北の献策

  • 南陽新野の鄧禹は字を仲華。若くして德行で知られた。かつて長安に遊学して世祖を見、尋常の人でないと見抜いた。更始が立つと多くの人が禹を推挙したが、彼は応じなかった。世祖が河北を平定していると聞いて杖を突いて追い、鄴で世祖に追いついた。
  • 世祖は禹を見て大いに喜び、「仕えたいのか」と問うた。禹は「望みません」と答えた。ではどうしたいのか、と問うと、「明公の威徳が海内に及び、私も寸尺の功を尽くして名を竹帛に垂れたい。それが願いです」と答えた。
  • 世祖は禹を泊まらせた。禹はそこで進言した。
  • 古人の言に、聖人も時に背くことはできず、時もまた失ってはならないとある。往古を通覧すれば、聖明の君主が興るのは時に因って功を立てるからで、要は天事と人事の二つだけである。
  • いま天事から見れば、更始は立ったばかりなのに変乱がまさに起こりつつある。人事から見れば、帝王の大業は凡人に担えるものではない。更始はもともと庸才であり、その輔佐にも忠良・明智で深謀遠慮をもち主を尊び民を安んじようとする者がいない。古人に照らせば、その敗亡はいま既に見えている。
  • 公は誠をもって士に接し英雄を総覧している。天下の人が喜んで駆け回るのは、公の德に衆が帰しているからだ。
  • 初戦の昆陽で王莽の四十万を破り、天下でこれを聞いて震え伏さぬ者はなかった。公の武に衆が服しているのだ。
  • 軍政は整い粛然として、老いも若きも礼を保ち、善に報いるには追いつかぬかのようにし、悪を討つには遠く及ばぬかと気を配る。公の文に衆が安んじているのだ。
  • 聡明神武、まさに天下の聖人である。民が善政に帰するのは水が海に向かうようなものだ。
  • 公の威德で民の望みに応え、天下の英雄を収めてそれぞれに任を分かち授けられよ。河内は山を負い河を帯び、堅固とするに足り、土地は豊かで殷の旧都でもある。公がここを得るのは、高祖が關中を得たのと同じである。
  • 進んで冀州を定め、北は幽・幷を取って胡馬を用い、東は青・徐を挙げて海に臨む利を引き、この三州がまとまってから南面して天下に号令すれば、天下を定めるのは難しくない。
  • 世祖は笑って「まあ私と一緒に北へ行こう」と言い、左右に命じて禹を「鄧將軍」と呼ばせた。

耿純・朱祐・賈復・陳俊の来属

  • 鉅鹿宋子の耿純は字を伯山。李軼に説いた。将軍は龍虎の姿をもって風雲の時に勢いよく起こり、一年のうちに兄弟そろって富貴となった。だが德も信も士民に聞こえず、功労も百姓に及んでいないのに寵禄だけが急に盛んになった。これこそ智者の忌むところである。びくびくと自らを危ぶんでもなお終わりを全うできぬかと恐れるべきなのに、まして満ち足りてもう成功したと思い込むようでは、と。
  • 李軼は彼を奇特に思い、耿純に符節を授けて趙・魏を安集させた。当時世祖は邯鄲にいた。耿純は世祖が長者であり官属も整粛であるのを見て、自ら身を寄せたいと願い出た。
  • 南陽宛の朱祐は字を仲先。世祖の旧友で、伯昇が挙兵したときは護軍となった。伯昇が敗れてのち、祐はひとり恨みごとを言い続け、世祖はそのつど言葉を遮った。
  • 祐が洛陽から河北へ行こうとしたとき、劉嘉が「どこへ行くのか」と問い、祐は「長安へ」と答えた。嘉はかねて世祖を非凡と見ており、祐に旧交があるのを知って、「君は劉公と親しいのに、なぜ北へ行かないのか」と言った。嘉には苦労している吏がいて、これを劉公に託したかったのである。祐が「それならご一緒したい」と言うと、嘉は車馬を与え、賈復・陳俊を祐とともに北へ行かせた。
  • 一行は栢人で世祖に会った。世祖はふたたび祐を護軍とし、つねに側近くに置いて親しんだ。祐がくつろいだ折に「更始の政は乱れています。公には日角の相があり、天が命じたものです」と言うと、世祖は怒って捕らえようとしたので、祐は二度と口にしなかった。
  • 賈復は字を君文、南陽冠軍の人。はじめ武陰の李生に学び、李生は彼を奇特として門人に「賈生は容貌も志気もあのとおりで、しかも学に勤める。将相の器だ」と語った。
  • かつて縣吏として河東へ塩を受け取りに行った際、盗賊が起こり、同輩十余人はみな塩を捨てて去ったが、賈復ひとりが県まで届けた。県中はその信を称えた。
  • 漢兵が起こると数百人を羽山に集め、やがてその兵を率いて劉嘉に属し、校尉となった。
  • 賈復は更始の綱紀が日ごとに衰えるのを見て、劉嘉に先を慮らせようと説いた。堯舜の事を図って及ばぬ者が湯武であり、湯武の事を図って及ばぬ者が桓公・文公であり、桓文の事を図って及ばぬ者が六国であり、六国の事を図って及ばぬ者が滅んだ六国である。いま漢氏は中興し、大王は親戚として輔佐の任にある。天下がまだ定まらぬのに、どこに安んじられるのか。保っているものも保てなくなるのではないか、と。
  • 劉嘉は「公の言うところは大きすぎて私の任ではない。大司馬の劉公が河北にいる、そこへ行って身を投じるがよい」と答えた。賈復は世祖に会い、世祖もまた彼を非凡と認め、鄧禹も將帥の才があると称した。そこで賈復を都督に任じ、自分の車の左の添え馬を解いて与えた。
  • 陳俊は字を子昭、南陽西鄂の人。若くして長安に学び、帰って郡吏となった。漢兵が起こると劉嘉の長史となり、世祖に出会うと曲陽長に補された。しかし世祖に「あなたのお側に仕えたい。小県の長ごときで引き留められるものではありません」と言い、その場で印綬を解いて去った。
  • 世祖は俊を彊弩將軍として中堅の士を率いさせた。俊が訓練すると進退はすべて旗鼓に応じ、敵に臨んで奮い撃てば向かうところ皆破った。世祖は「諸将がみなこうであれば何を憂えることがあろう」と言った。

王郎の挙兵

  • 王昌は字を郞、邯鄲の人。はじめ河間で赤眉の大衆が迫って百姓が騒然としたとき、郞は星暦に明るく、河北に天子の気があると考えた。かねて趙繆王の子の林と親しく、林は趙で豪俠であったので、これに乗じて挙兵しようとした。
  • かつて王莽の時、成帝の子の子輿と称した者がいて莽に殺されていた。郞はそこで子輿を詐称して林らを動かした。林らも乱を起こしたかったので、趙國の大豪である李育・張參とともに、まず赤眉が来る、劉子輿が立った、と言い触らして人心を動かし、車騎数百を率いて明け方に邯鄲へ入り、王宮に居座った。
  • 十二月壬辰、郞は自ら天子に立ち、将帥を外に遣わして幽・冀を従わせ、こう称した。
  • 朕は孝成皇帝の子の子輿である。趙氏の禍に遭い、王莽が簒奪・弑逆したが、天命を知る者が朕の身を守り、河のほとりで姿を変え、趙・魏で足跡を消した。
  • 王莽は位を盗んで天に罪を得た。天命は漢を祐けるゆえ、東郡太守の翟義と嚴鄕侯の劉信に兵を擁して征討させたのである。朕は胡と漢の間を出入りし、天下あまねく朕が民間に隠れていることを知っている。
  • いま南嶽の諸劉が朕の先駆けとなっている。朕は天文を観てここに事を起こしたが、聖公はまだこれを知らないので、しばらく帝号を保っているのだ。すでに聖公と翟太守には、功臣を伴って速やかに朕の行在所に参るよう詔した。
  • 荆州の刺史・太守はみな聖公と翟義が置いた者である。強い者は力を頼み、弱い者は疑い惑い、兵はとどまり士は傷つき、民は気力を失っている。朕はこれを深く痛む。ゆえに使者を遣わして詔書を頒下する。
  • 当時、百姓は漢を慕い、翟義は死んでいないと語り合っていた。だから郞は翟義を持ち出し、民望に従ったのである。こうして趙國から東、遼左に至るまでが風になびくように従った。

耿弇の来投

  • 茂陵の耿弇は字を伯昭。父の耿况は王莽の時に朔調連率であった。更始が立つと地を略する諸将が次々と来たので、耿弇は父に別れを告げて京師へ向かい、貢物を献じて身を固めようとした。弇はこのとき二十一歳であった。
  • 宋子に至ったところで王郎の反乱に遭った。従っていた縣吏の孫倉と衞苞は、邯鄲に降るよう弇に勧めた。
  • 弇は剣に手をかけて叱った。困難を冒して長安へ行こうとしたのは劉氏を輔けるためだ。いま京師に至って上谷・漁陽の兵馬を使う策を申し述べ、太原・代郡から出て往復数十日で帰り、突騎を発して烏合の衆に当たれば、枯れ木を折るようなものだ。お前たちの一族が滅ぶのも遠くあるまい、と。
  • 孫倉と衞苞は従わず、逃げ去った。
  • 弇は世祖が盧奴にいると聞き、北へ行って謁見した。世祖は弇を門下吏とした。弇は護軍の朱祐を通じて帰郷して兵を発する許可を求め、世祖は彼を壮とした。
  • 弇はまた父の耿况に手紙を送り、世祖の度量と方略を詳しく述べて速やかに会うよう勧めた。况は昌平まで馳せ、末子の耿舒を遣わして馬を献上した。