後漢書卷一百十六 南蠻西南夷傳第七十六 南蠻

盤瓠伝説と南蠻の起源

  • 高辛氏(帝嚳)の代、犬戎の侵寇に苦しんだ帝は、犬戎の呉将軍の首を得た者に黄金千鎰・邑万家・少女を与えると布告した。帝の飼っていた五色の犬「槃瓠」がその首を咥えて闕下に現れたため、帝は娘を犬に嫁がせることはできぬと悩んだが、娘は「帝の命は違えられぬ」と自ら望んで槃瓠に嫁ぎ、槃瓠は娘を背負って南山の石室に籠り三年で12人の子(男女各6人)を生んだ。槃瓠の死後、子らは互いに夫婦となり、木皮を織り草の実で染めた尾のある衣服を作った。母が帝にこれを報告すると帝は子らを迎え、名山広沢を与えた。以後この一族は「蛮夷」と呼ばれ、外は愚かに見えるが内は狡猾で、父の功・母の帝女の縁により田作・商売に租税を免じられ、邑君長には印綬を賜り渠帥を「精夫」、互いを「姎徒」と呼んだ。これが今の長沙・武陵蛮である。

南蛮と歴代王朝の関係

  • 唐虞の代は「要服」として盟約が結ばれたが、夏商の頃から辺患となり、周の宣王が方叔に南征させた(『詩経』小雅「蠢爾蛮荊、大邦を讎とす」の句はこれを指す)。平王東遷後は蛮が上国を侵し、晋の文侯が蔡と共にこれを破った。楚の武王の代、蛮は羅子と共に楚軍を破り将の屈瑕を殺したが、荘王の代に楚が国力を回復すると服属した。鄢陵の役では蛮が楚の恭王と共に晋を攻めた。楚の吳起が悼王を輔けると南方の蛮越を併合し洞庭・蒼梧に及んだ。秦の昭王は白起に楚を伐たせ蛮夷の地を略取し黔中郡を置き、漢が武陵郡と改めた。歳ごとに大人は布一匹、小口は二丈(賨布)を納めるのみで、時に寇はあっても郡国の大患とはならなかった。
  • 光武帝の中興以後、武陵蛮夷は特に盛んで、建武23年、精夫の相単程らが険阻に拠って郡県を大いに寇し、武威将軍劉尚が万余の兵で討伐に赴いたが糧食尽きて敗れ全軍を失った。建武24年、単程らは再び臨沅を攻め、翌年、伏波将軍馬援・中郎将劉匡らが臨沅で撃破、単程は飢困して降伏を乞うたが援が陣中で病没、謁者宗均が降伏を受け入れ諸蛮を平定した。以後、章帝の建初元年に武陵澧中蛮の陳従らの反乱、建初3年に漊中蛮覃児健らの反乱(後に降伏を受け入れ武陵の屯兵を廃した)、和帝の永元4年に漊中・澧中蛮潭戎らの反乱、安帝の元初2年に澧中蛮の反乱(賦役の不公平への怨恨から)、順帝の代にも度々の蛮の蜂起があった。
  • 順帝の永和元年、武陵太守が「蛮夷は既に服従したので漢人並みに租賦を増やすべき」と上言し議論となったが、尚書令虞詡は「古の聖王は異俗を臣とせず、徳・威が及ばぬ地は羈縻して綏撫するのみ、貪婪な蛮夷を礼で率いるのは難しい、旧来の貢税を無理に増やせば必ず怨みを買い、得るところより費やす方が多い」と反対したが帝はこれを容れず、案の定その冬、澧中・漊中蛮が旧約に反する貢布を巡り反乱、鄉吏を殺した。翌年、蛮一万人が充城を、八千人が夷道を攻めたが武陵太守李進が討破し、良吏を選んで慰撫し治めた。
  • 桓帝の元嘉元年、武陵蛮詹山らの反乱(永興元年、太守応奉の恩信で降伏)、永寿3年から延熹3年にかけ長沙蛮の反乱が拡大し武陵蛮六千余も江陵を寇し、荊州刺史劉度・謁者馬睦・南郡太守李肅が皆逃走した際、肅の主簿胡爽が「明府は国の大臣、なぜ守るべき任を放棄して逃亡するのか」と馬前で諫めたが肅は爽を斬って逃げた。帝はこれを聞き肅を棄市とし、度・睦は死一等を減じ、爽の家門を表彰した。その後、右校令度尚が荊州刺史として長沙の賊を平定し、車騎将軍馮緄が武陵蛮を討伐、さらに武陵太守陳奉が三千余級を斬り二千余人を降した。霊帝の中平3年にも武陵蛮の反乱が起き州郡が討破した。

交阯以南の蛮夷(西甌・雕題国など)と越裳・南越

  • 『礼記』に南方の「蛮」は雕題(額の刺青)・交阯(男女が同じ川で沐浴する風習ゆえの名)と記される。西には人食いの噉人国があり長子を食べる風習があるとされる(今の烏滸人がこれにあたる)。交阯の南には越裳国があり、周公摂政6年、天下太平の時に三たびの重訳を経て白雉を献じ、「道遠く重訳をもって朝す」と語った。周公は「徳が及ばねば君子はその贄を受けず、政が施されねば君子はその人を臣としない」と述べ、使者が国の長老の言として「久しく暴風雷雨がない、中国に聖人がいるのでは」と伝えたことで周公はこれを王(成王)に献じ宗廟に薦めた。周の徳が衰えると交流も絶え、楚が覇を称すると百越が朝貢、秦の統一で嶺外に南海・桂林・象郡が置かれた。漢初、尉佗が自立して南越王となり五世続いたが、武帝の元鼎5年これを滅ぼし九郡を置き交阯刺史が統括した。

珠崖・儋耳

  • 珠崖・儋耳の二郡は海洲上にあり、渠帥は長い耳(垂れ下げて穴を開ける風習)を貴んだ。武帝末、珠崖太守孫幸が広幅布の献上を命じ蛮が耐えかね反乱を起こし幸を殺したが、子の孫豹が討ち平定し治政を敷いたが、貪欲な官吏の侵害で数年ごとに反乱が続き、元帝の初元3年に郡は廃止された(設置から65年)。王莽の代、日南の南の黄支国が犀牛を献じた。交阯統轄下は郡県を置いても言語が異なり重訳を要し、頭髻・裸足の風であったが、次第に中国の罪人が移住して言語風俗が伝わった。光武帝の代、錫光が交阯、任延が九真の太守となり、耕作・冠履・媒妁婚姻・学校の制度を伝えた。

徴側・徴貳の乱

  • 建武12年、九真の徼外の蛮里の張游が漢化を慕い内属、翌年に南越の徼外蛮夷が白雉・白兎を献じた。建武16年、交阯の女性・徴側とその妹徴貳が郡を攻めて反乱を起こした。徴側は麊泠県の雒将の娘で朱䳒の詩索に嫁いだ勇猛な女性で、交阯太守蘇定の法による処罰に憤って反乱を起こし、九真・日南・合浦の蛮里も応じて六十五城を略し自ら王を称した。光武帝は長沙・合浦・交阯に舟車・道路の準備を命じ、建武18年、伏波将軍馬援・楼船将軍段志に一万余の兵で討伐させ、翌年、援は交阯を破り徴側・徴貳らを斬り、九真の賊都陽らも破って渠帥300余人を零陵に移し、嶺表を平定した。

日南・九真の蛮夷とその後の反乱

  • 肅宗(章帝)の元和元年、日南徼外の究不事人が犀・白雉を献じ、和帝の永元12年、日南象林蛮夷の反乱を鎮圧、象林に将兵長史を置いた。安帝の永初元年、九真徼外の夜郎蛮夷が内属(境域千八百四十里拡大)、元初2年に蒼梧蛮夷の反乱、鄧太后が侍御史任逴を遣わし赦して降伏させた。延光元年・3年に九真・日南徼外の蛮の内属が続いた。順帝の永建6年、日南徼外の葉調王便が貢献し金印紫綬を賜り、永和2年、日南象林徼外の区憐らの反乱では交阯刺史樊演の徴発した兵が逆に反乱に加わり戦況が悪化、朝廷が荊揚兗豫四州から4万の大軍を送ろうとした際、大将軍従事中郎李固が七つの不可(遠征の困難、士卒の逃亡懸念、瘴気による死亡率、士気の低下、輸送の困難、防衛力の空洞化、酷使の不公平)を挙げて反対し、代わりに勇略ある人材(祝良・張喬)の派遣と蛮夷の懐柔策を提言、これが採用され祝良が九真太守、張喬が交阯刺史となり招撫に成功、嶺外は再び平定された。
  • 建康元年にも日南蛮夷の反乱が起き交阯刺史夏方が招撫して功を挙げ桂陽太守に昇進。桓帝の永寿3年、居風令の暴政に怒った朱達らの反乱で九真太守兒式が戦死、九真都尉魏朗が討破。延熹3年、夏方が再び交阯刺史となり日南の宿賊二万余人が投降。霊帝の建寧3年、鬱林太守谷永の招撫で烏滸人十余万が内属、熹平年間・光和年間にも貢献と反乱が交錯して続いた。

巴郡・南郡蛮(廪君伝説)

  • 巴郡・南郡蛮には元来五姓(巴氏・樊氏・瞫氏・相氏・鄭氏)があり、いずれも武落鍾離山に発祥した。山には赤黒二つの穴があり、巴氏の子は赤穴、他の四姓の子は黒穴から生まれた。君長を決めるため剣を石穴に投げ的中させた者を王とすると、巴氏の子・務相のみが的中し、次に土船で浮くかを試すと務相のみが浮いたため共立され「廪君」となった。廪君は土船で夷水を下って鹽陽に至った際、鹽水の神女が「ここは魚塩が豊かゆえ共に留まってほしい」と求めたが廪君は許さず、神女は夜ごと訪れて朝には虫と化し多くの虫と共に日を覆い天地を晦冥にした。十余日続いた後、廪君はこれを射殺し天が再び開けた。廪君は夷城に君臨し、四姓はこれに臣従した。廪君の死後、その魂魄は代々白虎となり、巴氏は虎に人血を捧げて祀った。
  • 秦の恵王が巴中を併合すると巴氏を蛮夷の君長とし代々秦の女を娶らせ、民の爵は不更に准じ、罪を得ても爵で贖えた。君長は年に賦2016銭、3年ごとに義賦1800銭を出し、民戸は幏布八丈二尺・雉羽三十鍭を出した。漢興以後も南郡太守靳彊の建言で秦の旧制が踏襲されたが、建武23年、南郡潳山蛮の雷遷らが反乱、武威将軍劉尚が討破し種人七千余口を江夏に移した(今の酒中蛮)。和帝の永元13年、巫蛮許聖らが税の不公平に憤り反乱、討伐後に降伏を受け江夏に移された。霊帝の建寧2年・光和3年にも江夏蛮の反乱が続き、光和3年には廬江の賊黄穰と結んで十余万に及んだが太守陸康が討破した。

板楯蛮夷

  • 秦の昭襄王の代、秦蜀巴漢の境を荒らす白虎に対し、巴郡閬中の夷人が白竹の弩で射殺したことで昭王はこれを嘉し、夷人の望みにより「秦を犯せば黄龍一双、夷を犯せば清酒一鍾を贖いとする」との盟約を結び、租税を免じた(一戸一頃の田租免除、十妻あっても口算を課さず)。高祖が漢王として三秦を討つ際、夷人を発して先鋒とし、蜀漢平定後は租賦を免じ渠帥七姓に賨銭のみを課した。これが「板楯蛮夷」で、閬中の渝水沿いに住み勁勇な性で歌舞を好み、高祖が「これぞ武王が紂を伐った歌」と評した舞(巴渝舞)は代々伝わった。
  • 桓帝の代、板楯が度々反乱したが太守趙温の恩信で降伏。霊帝の光和3年、板楯が再び反乱し三蜀・漢中を寇し数年討伐できず、大軍動員が検討された際、漢中の上計吏程包が「板楯七姓は白虎討伐の功で義人と称された勇猛の民、永初の羌の侵入も板楯の助けで撃退した『神兵』、羌人も畏れて南下を避けたほど、馮緄の武陵征伐や李顒の益州平定にも功があった、悪心はなく重税と苛酷な使役に苦しんだ末の反乱、明能な牧守を選べば自然に治まる」と説き、帝はこれに従い太守曹謙が赦令を伝えると降伏した。中平5年、巴郡黄巾の蜂起に伴い板楯も再び反乱し、趙瑾が討平した。

西南夷――夜郎

  • 蜀郡の徼外に夜郎国があり、東は交阯、西は滇国、北は卭都国に接し各々君長を立てた。人は椎髻左袵で邑聚し耕田を能くする。その外には巂・昆明の諸落が西は同師、東北は葉榆に至り、地方数千里、君長なく辮髪で牧畜と共に移動する。巂の東北には莋都国、東北には冉駹国があり土着または遊牧、冉駹の東北には白馬国(氐種)があり、これら三国にも君長がいる。
  • 夜郎の起源伝説によれば、遯水で洗濯していた女性の足元に三節の大竹が流れ着き、中から声が聞こえたため割ると男児が得られ、成長して竹王を名乗り夜郎侯となった。武帝の元鼎6年に南夷を平定し牂柯郡が置かれ、夜郎侯は迎降して印綬を賜ったが後に殺され、夷獠らは竹王が血肉から生まれたのではないと重んじ後継を求め、牂柯太守呉霸の上奏で三子が侯に封じられた。楚の頃襄王の代、将の荘豪が沅水から夜郎を伐ち且蘭に軍船を繋いで陸戦、夜郎を滅ぼして滇池に留まり王となったことから、船を繋いだ地に因み「牂柯」と改名された。牂柯は雨が多く巫鬼を尚び蚕桑がなく郡中最貧、句町県には桄桹木があり麫(粉)が採れ百姓の食料となる。
  • 公孫述の代、大姓の龍・傅・尹・董氏と郡功曹謝暹が境を保ち漢に貢を送り続けたことを光武帝は嘉した。桓帝の代、尹珍が汝南の許慎・応奉に経書図緯を学び帰郷して教授し南域に初めて学問が興った。

滇国

  • 滇王は荘蹻の後裔。元封2年、武帝が平定し益州郡を置き、後に昆明地も併合した。滇池は周回二百余里、上流は深広で末は浅く倒流するように見える。土地は平らかで鸚鵡・孔雀を産し、塩池・田漁・金銀畜産の富があり、風俗は豪奢。王莽の代、益州郡夷の棟蚕・若豆らが反乱し郡守を殺したが、莽が派遣した廉丹の大軍も鎮圧できず撤退、代わりに広漢の文斉が太守となり水利開拓・防塞修築で羣夷を懐柔した。公孫述の招誘にも斉は屈せず、光武帝即位後は間道で使いを送り帰属を伝え鎮遠将軍・成義侯に封じられたが道中で没し、郡人が廟を建てて祀った。
  • 建武18年、夷の渠帥棟蚕らの反乱に対し、建武19年、武威将軍劉尚が瀘水を渡り益州に入り討伐、建武21年に平定、7000余の首級・生口5700人・馬3000匹・牛羊3万余頭を得た。肅宗(章帝)の元和年間、蜀郡の王追が太守となり神馬・甘露・白烏の瑞祥のもと学校を興し、風俗を移した。霊帝の熹平5年、諸夷が反乱し太守雍陟を捕らえたが討伐に難航し、大尉掾の李顒が益州太守となり刺史龐芝と共に板楯蛮を発して破り平定、後に景毅が太守となり仁恩の治政で栄えた。

哀牢夷

  • 哀牢夷の起源伝説では、牢山に住む沙壹という女性が水中で沈木に触れて感じ懐妊し十人の男児を産んだ。沈木が龍に化して現れ「私が生ませた子はどこにいるか」と鳥語で問うと九人の子は驚いて逃げたが末子だけが龍を背にして座り舐められた。「背」を「九」、「座」を「隆」と呼ぶ鳥語から「九隆」と名付けられ、龍に舐められたことで賢いとされ王に推された。後に牢山下の一夫一婦が十人の娘を産み九隆兄弟が娶り、子孫は龍の文様を刻む風習を持つようになった。九隆から代々王位が継がれ小王に分かれて谿谷に散在し、中国とは長く交流がなかった。
  • 建武23年、哀牢王賢栗が兵を出し塞に近い鹿茤を攻めたが、暴風雷雨と逆流で軍船が沈没、数千人が溺死し、続く六王の遠征も鹿茤に討たれた末、埋葬した六王の遺体を虎が食い荒らす凶事もあり、賢栗は「中国に聖帝がいるのでは、天が我らを罰している」と恐れをなした。建武27年、賢栗は種人17,659人を率い越巂太守鄭鴻に降伏し内属を求め、光武帝は賢栗らを君長に封じた。永平12年、哀牢王柳貌が子に種人を率いさせ内属し、邑王を称する者77人、戸5万1890、口55万3711という大集団であった。顕宗(明帝)はその地に哀牢・博南の2県を置き益州郡西部の6県と合わせて永昌郡とし、博南山を越え蘭倉水を渡る道が開かれた(「漢徳広く開き服さぬ者なし、博南を越え蘭津を渡り蘭倉を渡るは他人のためなり」との歌が伝わるほど難路だった)。
  • 哀牢人は鼻に穴を開け耳を垂らし、渠帥は自ら「王」と称して耳を肩の下三寸に、庶人は肩まで垂らす。土地は肥沃で五穀・蚕桑に適し、染色・文繍・毛織物(罽毲・帛畳・蘭干細布など)を織り、梧桐の花からも布を作る。竹(濮竹)・銅鉄鉛錫・金銀・光珠・琥珀・水晶・瑠璃・貝殻・真珠を産し、孔雀・翡翠・犀象・猩猩・貊獣も棲む。雲南県には毒草を食べる神鹿がいたと伝わる。西部都尉の広漢の鄭純は清潔な政治で夷貊の心を得、永昌太守として哀牢夷と定めた「邑豪は歳ごとに布・貫頭衣二領・塩一斛を納める」という常賦は夷俗に受け入れられ十年間務めて官に没した。
  • 建初元年、哀牢王類牢が守令と争って殺害し反乱、翌年、肅宗が発した9000の夷漢連合軍が博南で類牢を大破し首級を洛陽に送った。永元6年、9年に徼外の敦忍乙王・撣国王雍由調らが犀・大象などの珍物を貢献、和帝は金印紫綬を賜った。永初元年、僬僥種夷が内属、永寧元年、撣国王雍由調が使者を送り楽人と幻術師(吐火・自らの解体を見せる曲芸、跳丸の妙技)を献じ「我は海西人(大秦=ローマの意)」と称した逸話も記される。安帝は雍由調を「漢大都尉」に封じた。

卭都夷

  • 武帝が卭都県を開いたが、まもなく地が陥没し「卭池」(南人は卭河と呼ぶ)となったとの伝承がある。元鼎6年、越巂水から漢兵が伐ち越巂郡が置かれた。土地は平原で稲田があり、青蛉県の禺同山には碧鶏・金馬の瑞光が時に見られたという。風俗は遊蕩で歌謡を好み、豪帥は放縦で制御しがたい。王莽の代、郡守枚根が卭人の長貴を軍候としたが、更始2年、長貴は枚根を殺して自立し卭穀王を称し、後に公孫述に降ったが、光武帝も長貴を卭穀王に封じた。建武19年、劉尚の益州夷討伐の途上、長貴が謀反を疑われることを恐れて毒酒で劉尚を襲おうとしたが尚が先に卭都を占拠し長貴を誅殺、家属を成都に移した。永平年間、姑復夷の反乱を益州刺史が討破、太守巴郡の張翕は清平な政治で夷人の心を得て17年間治政、没後は蘇祈叟200余人が牛羊を携え本県まで送葬し墳を築いて祭った。安帝の元初3年、郡徼外夷大羊ら8種が内属、その後の煩雑な賦斂への不満から反乱が広がり十余万に及ぶ蜂起もあったが、益州刺史張喬の遣わした従事楊竦が大破し(斬首3万余、生口1500人、資財4千余万)、竦の病死を惜しんだ張喬が碑を刻んで功を讃えた。張翕の子・張湍が太守となった際は当初歓迎されたが後に人心を失い、順帝・桓帝間には広漢の馮顥が善政で称された。

莋都夷

  • 武帝が莋都県を開いたが、被髪左袵で言語も多く比喩を好み、汶山夷と似た風俗を持つ。長寿の薬草を産し、仙人山図が住んだ地と伝わる。元鼎6年に沈黎郡、天漢4年に蜀に併合され旄牛・青衣の二都尉が置かれた。永平年間、益州刺史朱輔が漢の威徳を宣揚し、汶山以西の未服属の地(白狼・槃木・唐菆ら百余国、戸130余万、口600万以上)が挙って内属を願い出た。輔の上奏文では『詩経』の「岐に夷(たいらか)な道あり」の句を引き、王化の証として白狼王唐菆らが慕義して作った歌詩三章(「大漢是治…」で始まる遠夷楽徳歌、遠夷慕徳歌、遠夷懐徳歌)を、犍為郡掾田恭の通訳を介して収録し朝廷に上呈した。これらは原語音写と漢訳が対照して東観記に残された。
  • 肅宗の代、輔は事に坐して免官。和帝の永元12年、旄牛徼外の白狼・楼薄蛮夷王唐繒らが種人17万口を率いて内属、安帝の永初元年、青衣道夷らも大挙内属した。延光2年、旄牛夷の反乱を刺史張喬が破り蜀郡属国都尉を置いた。桓帝の永寿2年、延熹年間にも蜀郡夷・犍為属国夷の反乱が相次いだ。霊帝の代、蜀郡属国は漢嘉郡と改められた。

冉駹夷

  • 武帝が開いた汶山郡は宣帝の地節3年、賦重を理由に廃され蜀郡北部都尉に併合された。六夷七羌九氐の部落があり王侯は文書に通じ法は厳しく婦人を貴んだ。母族が死ねば遺体を焼く風習を持ち、山地は寒く盛夏も氷が解けない。冬は寒を避けて蜀で傭役し夏は帰郷する。石を積んだ高層の「卭籠(雕)」に住み、土地は痩せて麦を主食とし牧畜(角のない旄牛「童牛」、毒を癒す霊羊、五角羊、麝香、毼鶏など)に適し、旄氈・班罽などの織物を作る。西には三河・槃于虜、北には黄石・盧水胡があり、その外が徼外にあたる。霊帝の代、蜀郡北部が汶山郡として分立した。

白馬氐

  • 武帝の元鼎6年、広漢西部を分けて武都郡が置かれた。険阻な土地で名馬・牛羊・漆蜜を産し、氐人は勇猛だが利を貪る性で、河池(仇池、方百頃の要害の地)に居住した。度々辺境を寇し討伐されると要害に籠って自守した。元封3年、氐人の反乱を平定し酒泉郡に一部を移し、昭帝の元鳳元年にも反乱があり執金吾馬適建・龍額侯韓増・大鴻臚田広明らが討破した。王莽簒位に伴う反乱を経て、建武初年に隗囂配下となったが隗囂滅亡後は公孫述に背いて漢に降伏、隴西太守馬援の上奏で王侯君長の印綬が復された。後に隗囂の族人隗茂の反乱で武都太守が殺されたが、氐人の大豪斉鍾留が郡丞孔奮と共に討破した。

史論(論)

  • 論じて言う。漢氏の戎狄征伐は辺境の事とはいえ王業の始終と共にあった。敗軍失地の事例もあったが、結局は四夷の境を開き殊俗の帰附を得た。文書の及ぶところ、風声の周流するところは日出没の地に及ぶほどであり、山経水志に著された記録もほぼ網羅している。服叛は常ならず威沢も時に及ばぬこともあったが、王化が行われれば、緩耳雕脚(儋耳や刺青の風習を持つ辺境の民)や穴居鳥語の輩ですら種を挙げて帰服を請い、海を渡り険を越えて重訳をもって内属した。中郎将・校尉の記録に載る名は都護・郡守の管轄に編入され、数百万を数えるほどであった。また山海に隠れた霊物、砂中陸上の珍宝(珠玉金碧珊瑚琥珀の類)は宮殿を飾る貢物として献じられ、賨布・幏布・火浣布・馴禽(鸚鵡)・封獣(象)の貢納が内府に積まれ、夷歌巴舞の異音異節の技も外門に演じられた。柔服の道はこれに尽きるものではないが、遠きを致す実効は十分にあったと言えよう。
  • ただし蛮夷は巌谷に阻まれて散居し、荊交の地から巴庸の外まで広がり量り知れぬほどだが、その凶勇は羌狄に比べれば薄く、その害も深刻には至らなかった。西南の徼はとりわけ制御しがたく、永昌郡が遠く離れた地に置かれたのも、哀牢夷が鹿茤討伐に失敗して初めて中国に帰属した経緯によるものである。

  • 賛に曰く。百蛮は蠢めき蟠り、遥かなる辺徼に居し、体に刺青を彫り草の衣を纏い、深く険しい地に拠る。また別の夷が蜀の外に屯し、参差たる聚落が岐路のように連なる。往きて教化がひとたび信を得れば、襟を改めて宝を貢ぐ、永昌郡を建てさせ、億兆の民と同じ籍に編み入れた、と。