後漢書卷一百十一 獨行列傳第七十一

総序――独行列伝の趣旨

  • 孔子は「中庸を得られなければ必ず狂狷(進取か固守)を取る」と言い、また「狂者は進取、狷者は為さざる所あり」とも言う。これは周全の道を失いながらも一芸に徹する人物を指す。金石も剋つ剛志(劉茂・衛福)、厳冬の霜にも甘んじる小さな信義(戴就・陸続)、生死を共にする交友(范式・張劭)、義を貫き死生を等しく見る節(繆肜・李善)など、道理は多様だが操行はいずれも卓絶しており、条理立てて分類しがたいため、これらを総じて「独行篇」とし、正史の漏れを補う。

譙玄

  • 譙玄、字は君黄。巴郡閬中の人。若くして好学、易・春秋を能く説き州郡に仕えた。成帝の永始2年、日食の災を機に敦朴遜譲の士を挙げよとの詔で州が玄を推薦、対策高第で議郎に拝された。成帝が微行を好み趙飛燕を皇后に立て後宮の専寵により皇太子が横死しがちな状況を憂い、上疏して「継嗣こそ王者の急務、後宮で皇子が生まれても育てられずにいると聞く、警衛を怠れば非常の患いも生じる」と諫めたが容れられず、久しく郎官に留め置かれた末に太常丞に遷り、弟の喪で去官。
  • 平帝の元始元年、再び日食を機に大鴻臚左咸の推薦で対策し議郎、中散大夫に遷り、元始4年には「明達政事、風俗を化す」8人の一人として繍衣使者に選ばれ持節で天下を巡察したが、王莽の摂政に伴い使者の車を捨てて姓名を変え隠遁した。後に公孫述が蜀で僭号し玄を召し出したが応じず、述は毒薬を持たせた使者を送り「起たねば死を賜る」と迫った。玄は「唐堯の聖に対しても許由は仕えることを恥じ、周武王の徳に対しても伯夷は餓死を選んだ、志を守り高きを全うできれば死も悔いなし」と天を仰いで嘆じ毒を受けた。子の譙瑛が身代わりの銭千万を申し出て太守が取り次いだが述はこれを許さず、玄は述の治世が終わるまで田野に隠れ子らに経書を学ばせ、建武11年に没した。翌年天下平定後、弟の譙慶が事情を光武帝に訴え、帝は本郡に中牢の祭祀と没収された家財の返還を命じた。同時代、犍為の費貽も述への出仕を拒み漆で身を汚し狂を装って山藪に隠れ、述の滅亡後に合浦太守となった。瑛は易に長じ顕宗(明帝)に授け北宮衛士令となった。

李業

  • 李業、字は巨游。広漢梓潼の人。若くして志操あり魯詩を博士許晃に学び元始年間、明経に挙げられ郎となった。王莽の摂政に際し病と称して官を去り、太守劉咸の強召にも病篤と偽り出頭、咸は激怒して業を殺そうとしたが、客の諫言(孔子が賢者を脅すことを避けた故事)で赦された。方正に挙げられたが王莽の酒士の任は病で赴かず、山谷に隠れて莽の代を終えた。
  • 公孫述が業の賢を聞き博士に招こうとしたが固辞し続け、述は大鴻臚尹融に毒酒を持たせ「起てば公侯の位、起たねば死を賜う」と迫らせた。融が「天下分崩の時、なぜ試すべき身を賭すのか、朝廷は7年も官を空けて待っている」と説いても、業は「危国には入らず乱国には居らず、義に反する君には従わず、危うきを見ては命を捧げるのが君子」と拒み、妻子を呼んで相談せよとの勧めにも「大丈夫の決断は久しい前より定まっている」として毒を仰いで死んだ。述は業の死に驚き、賢を殺した悪名を恥じて弔慰の使者と百匹の贈物を送ったが、子の李翬は辞退した。蜀平定後、光武帝は詔でその閭を表彰し、益部の記録にその高節と肖像が残された。
  • 同時期、蜀郡の王皓・王嘉も莽簒位に伴い官を棄てて帰郷し、公孫述の召しに応ぜず、使者が妻子を人質に脅した際、皓は自ら首を刎ねて使者に届け、述は怒って皓の家族を誅殺、嘉は「後れを取った」と嘆じ使者の前で剣に伏して死んだ。同時期の犍為の任永・馮信も述の招聘を目盲を装って避け、述誅殺の報を聞いてようやく目を開け「世が正されたので目も清くなった」と語った(永の妻の不貞、信の侍婢の姦通が発覚し自殺したとの逸話も伝わる)。光武帝が召したが両者とも病没した。

劉茂

  • 劉茂、字は子衛。太原晋陽の人。若くして孤独の身で母と暮らし、家貧しく筋力で孝養を尽くした。長じて礼経を教授し常に数百人を擁した。哀帝の代に孝廉に察挙され五原属国侯に遷るも母の喪で去官、後に沮陽令となるも王莽簒位に伴い官を棄て弘農山中で教授した。建武2年、郡門下掾に戻った際、赤眉20余万の攻撃で太守孫福を背負い塹壕に隠れて難を逃れ、盂県で百余日潜伏し食を求め続けた末に帰還した。翌年、詔で天下の義士を求めた際、福が茂の忠義を訴え、茂は議郎に徴され宗正丞、侍中を経て官に没した。
  • 元初年間、鮮卑数百騎が漁陽を寇した際、太守張顕の追撃に伏兵を懸念して諫めた兵馬掾厳授が容れられず戦死、顕自身も落馬したところを主簿衛福が身を挺して庇い殺された事件があり、朝廷はその節を惜しみ子を郎中に任じた。また永初2年、劇賊畢豪らを追った県令劉雄が敗れ矛で刺されようとした際、小吏の所輔が身代わりを願い出て刺殺され、雄が助かった事件も記され、所輔の父も郎中に任じられた。

温序

  • 温序、字は次房。太原祁の人。州従事を経て建武2年、騎都尉弓里戌の北州平定に従い太原で英俊を訪ね策謀を献じ、戌の推薦で侍御史・武陵都尉を経て謁者・護羌校尉となった。行部の途中、隗囂の別将苟宇に拘束され「共に力を合わせよ」と迫られたが「国の重任を受けた身、義として貪生を許さぬ」と拒み、大怒して叱責し節杖で数人を打ち殺したところを、義士として剣を賜り自刎して死んだ。主簿韓遵・従事王忠が遺体を収め、光武帝は憐れんで洛陽近くに冢地を賜り穀千斛・縑五百匹を下賜、三子を郎中とした。長子の温寿は喪明け後鄒平侯相となったが、父が「久しく客にあり故郷を思う」と夢に告げたため官を辞して帰葬した。

彭脩

  • 彭脩、字は子陽。会稽毘陵の人。15歳の時、父が郡吏として休暇で帰郷する道中、盗賊に襲われ脩は佩刀を抜いて「父が辱められれば子は死す、貴殿らも死を恐れぬのか」と迫り、賊は「これは義士の子だ」と引き下がった。後に郡功曹となり、西部都尉宰鼂が些細な過ちで獄吏を殺そうとした際、諫めた主簿鍾離意まで罰しようとしたのを脩が「任座・朱雲の諫言あってこそ賢君に忠臣ありと言える」と正論で説き、鼂は意を赦した。後に州従事となり、賊張子林らの乱の討伐で太守を庇い流矢に当たって死んだ。賊はその恩信を慕い脩を射た者だけを処刑して降伏、「彭君のために降るのだ、太守に服するのではない」と語ったという。

索盧放

  • 索盧放、字は君陽。東郡の人。尚書を教授し千余人を擁した。郡門下掾在任中、更始帝の使者が郡国を巡察し太守を処刑しようとした際、「天下が王莽を憎み漢に帰服するのは寛仁の政ゆえ、太守を誅せば人心が動揺しかねぬ」と身代わりを申し出て前に進み出、使者は義とし太守を赦した。これにより名を知られ、建武6年、洛陽令に徴され治績を挙げ、病で辞した後は諫議大夫として忠言を重ねた。建武末に再徴されても応ぜず、光武帝は輿で迎えて雲台で謁見させ穀二千斛を賜り帰し、子を太子中庶子とした。自宅で没した。

周嘉

  • 周嘉、字は恵文。汝南安城の人。高祖父の周燕は宣帝の代に郡決曹掾、太守の枉法な処刑を諫めて聞かれず、罪を着せられ免職された際、囚人の家族の訴えで再調査となったが、燕は「自分一人の罪として太守の名を出すな」と自ら罪を引き受け、宮刑を前に「周平王の後裔の身で刀鋸を受けて先祖に見えられぬ」と絶食して死んだ。子は5人皆刺史・太守に至った。
  • 嘉は郡主簿となり、王莽末の乱で太守何敞が賊に包囲され流矢に当たった際、身を挺して庇い「賊となっても主君を害してよいのか」と一喝、賊は「これは義士だ」と車馬を与えて送り出した。太守寇恂の推挙で孝廉となり尚書侍郎に至り、光武帝から「太守の危機に命を賭さなかったのは駑怯」との謙遜を「これぞ長者の言」と評され、公主との縁談も固辞し零陵太守として7年治政、没後も遺愛を頌され吏民が祠を建てた。従弟の周暢(字伯持)は河南尹として永初2年の旱魃時、洛陽の客死者一万余人の遺骸を収葬したところ雨が降り豊作となり、光禄勲に至った。

范式

  • 范式、字は巨卿、一名は汜。山陽金郷の人。太学で汝南の張劭(字元伯)と友となり、帰郷の際「二年後に必ず訪ね貴殿の母君と子を拝見する」と約した。約束の日、劭の母が「千里の約束をなぜ信じるのか」と問うと劭は「巨卿は信士、必ず違わぬ」と答え、果たして式は約束通りに訪れた。後に劭が病篤くなった際「死友(式)に会えぬのが心残り」と嘆き、見舞う友を「生友」に過ぎぬとし、式こそ「死友」と語って没した。式は夢で劭の訃報を知り太守に無理を言って葬儀に駆けつけ、柩が動かなくなった葬列の前に素車白馬で現れると柩が自ら進み出し、葬儀に参列した千人が涙したという。
  • 太学在学中、面識のなかった長沙の陳平子が病没に際し「山陽の范巨卿こそ死を託せる烈士」と遺言し遺体を式の戸口に埋めるよう妻に告げて死んだ。式は書状でこれを知り、平子の妻子を助け自ら柩を臨湘まで送り届けた。荊州刺史となった式は、友人の南陽孔嵩が貧しさから姓名を変え新野県の里卒として仕えているのを見出し、代役を用意しようとしたが嵩は「先の雇用を全うする」と辞退、その正身厲行に街の子弟が感化された。式は後に廬江太守となり官に没した。

李善

  • 李善、字は次孫。南陽淯陽の人。同県の李元の家僕。建武年間、疫病で李元一家が次々に没し、生まれて数旬の孤児李続だけが残された際、他の奴婢が財産目当てに続を殺そうと謀ったが、善は独り李氏を哀しみ、力及ばぬと見て続を背負って山陽瑕丘に逃れ、自ら乳を出して育て艱難を尽くした。10歳になった続と共に故郷に戻り家業を再興、悪事を働いた奴婢を訴え処刑させた。瑕丘令鍾離意の上書で光武帝は善と続を共に太子舎人に任じた。善は日南太守として赴任の途上、李元の墓に立ち寄り朝服を脱いで草を刈り、涙ながらに祭祀を執り行った。愛恵の政で異俗を懐柔したが、任地に着く前に病没した。続は河間相に至った。

王忳

  • 王忳、字は少林。広漢新都の人。京師に赴く途中、空舎で病篤い書生に出会い、書生は「腰に金十斤あり死後これを贈る、遺骸を葬ってほしい」と言い残して死んだ。忳は一斤で葬儀を行い残りは棺の下に隠して誰にも知らせなかった。数年後、大度亭長となった忳の元に馬が駆け込み、繍被まで風に運ばれてきた。馬でその地を訪ねると牽かれて別の家に入り、主人は失われた馬と被の由来(それは死んだ息子・金彦のものだった)を知り、忳の陰徳(見知らぬ書生を葬った善行)に対する天の報いだと悟った。忳は被と馬を返そうとしたが彦の父は受け取らず厚く報いた。
  • 忳は後に郡功曹・州治中従事を経て茂才に挙げられ郿令となり、斄亭で「亭に鬼が出て旅人を殺す」との忠告にも「仁は凶に勝り徳は不祥を除く」と泊まり、夜中に女の泣き声を聞いて事情を尋ねると、涪令に嫁ぐ途中この亭で亭長に一族十余人を殺され財貨を奪われた霊であった。忳は亭長(游徼)を捕らえて処罰し、その霊の遺骸を故郷に送り届け、以後亭は平穏になった。

張武

  • 張武は呉郡由拳の人。父の張業は郡門下掾として太守の妻子を送る途中、河内の亭で盗賊に襲われ戦死し遺骸も失われた。武は幼くして父を知らなかったが、太学で学ぶ間も節句ごとに父の遺剣を携え遭難の地で祭祀を行い涙して帰った。太守第五倫はその行いを嘉して孝廉に挙げたが、母の喪に際して哀毀のあまり、父の魂が帰らぬことを悲しんで絶命した。

陸続

  • 陸続、字は智初。会稽呉の人。祖父の陸閎(字子春)は建武年間、尚書令として越布の単衣を好み、光武帝がこれを気に入り以後会稽郡に越布の献上を命じるようになった。続は幼くして孤児となり郡戸曹史となった。凶作の年、太守尹興が続に都亭で民に粥を配らせた際、続は全員の氏名を記憶し、後で名を尋ねられると600余人の姓名を一人も間違えず答え、興を驚かせた。楚王英謀反事件に連座し尹興が召喚された際、続は主簿梁宏・功曹史駟勲らと共に洛陽の詔獄に引かれ、他の吏の多くが拷問に耐えかね死ぬ中、続らは五毒の拷問にも屈せず一切証言を変えなかった。
  • 続の母が京師まで様子を見に来た際、獄中の続は取り調べには気丈だったが、母の作った差し入れの羹を口にした途端泣き出した。使者が理由を問うと「母が来たのに会えぬのが悲しい」と答え、羹の切り方(肉は方形、葱は寸法通り)から母の調理法と分かったと説明、使者が謁舎に確かめると本当に母がいたため、その孝を密かに評価し、上書で続の潔白を訴え、興らは赦免された。禁錮終身となった続は老病のうちに没し、長子の陸稠は広陵太守として治績を挙げ、次子の陸逢は楽安太守、末子の陸襃は力行好学で徴召に応ぜず、襃の子の陸康は既に別伝がある。

戴封

  • 戴封、字は平仲。済北剛の人。15歳で太学に入り鄮令の申君に師事、師の死に際し柩を東海へ送る道中、実家に立ち寄ると父母が既に嫁を娶らせていたが、拝礼だけして留まらず京師に戻り学業を終えた。同学の石敬平が客死した際、遺品を売って小棺を購い実家に送ったところ、棺に敬平の遺品がすべて収められていたことに人々は驚いた。後に賊に財を略奪された際、隠していた縑七匹を自ら差し出し「不足していると思って渡す」と告げ、賊は「これは賢人だ」とすべて返却した。
  • 孝廉に挙げられ光禄主事となるが伯父の喪で去官、賢良方正の詔挙で公卿郡守が推挙する中、郡と大司農の双方から推薦され対策第一で議郎に抜擢され西華令に遷った。汝南・潁川で蝗害が起きても西華だけは入らず、督郵が来た日に蝗が押し寄せ督郵が去った日に消えたことも人々を驚かせた。大旱の年、祈雨がかなわぬと薪を積んで自ら焼身しようとしたところ、正午前に暴雨が降ったため人々はその至誠に感服した。中山相として四百余人の死刑囚を一旦帰宅させ、期日に全員が戻った逸話も伝わる。永元12年、太常に徴され官に没した。

李充

  • 李充、字は大遜。陳留の人。家貧しく兄弟6人が衣食を共にしていたが、妻が別居と財産分与を求めたため、充は偽って承諾し酒宴を設けて親族一同を集め、席上で「妻が母と兄弟を離間しようとした、これは罪であり追い出すべし」と母に訴え妻を叱責して家から追い出した。母の喪に服する際、墓の樹木を盗む者を自ら手にかけて処罰した。太守魯平の功曹辟召を拒んだため溝に投げ込まれる辱めを受け都亭長に左遷されたが職務を全うした。後に隠士大儒を求める詔で博士に徴された際、かつて充を辱めた魯平も同僚の博士となり、常に充の高節を嘆服した。
  • 侍中に遷り、権勢を誇る大将軍鄧騭が高節の充を敬い宴を設けた際、隠逸の士について語ると鄧騭の意に合わぬ点があり、騭が肉を勧めて話を打ち切らせようとしたのに対し、充は肉を地に叩きつけ「士の話が肉より甘い」と席を蹴って去った。友人の張孟挙に「昨日の言動は行き過ぎではないか」と諭されても「大丈夫たるもの意を貴んで生きるべし、子孫のために遠く配慮するには及ばぬ」と答え、権貴に疎まれつつも左中郎将に遷り、80歳で国の三老となり安帝の厚遇を受け自宅で没した。

繆肜

  • 繆肜、字は豫公。汝南召陵の人。若くして孤児で兄弟4人が財産を共にしていたが、それぞれ妻を娶ると分割と争いを求める声が出た。肜は嘆いて戸を閉じ自ら打って「聖人の法を学びながら己の家を正せぬとは」と自責し、弟妻らは謝罪して家は再び睦まじくなった。県主簿となり、県令が弾劾された際、他の吏が畏れて自誣する中、肜だけは真実を証言し拷問で蛆が湧くほどの苦痛を受けながらも五獄・四年に及ぶ取り調べに屈せず、県令は結局免官で済んだ。
  • 太守梁湛の決曹史となり、湛が任地で病没すると柩を隴西に送り届け、埋葬直後に西羌が反乱を起こすと湛の妻子は避難したが肜一人残り、墓の傍らに窟室を掘って昼隠れ夜に土を運び墳墓を築いた。乱が収まった後、生きて戻った肜に妻子は驚喜し、関西の人々はその義を称え車馬衣資を贈ったが受け取らず帰郷した。公府に招かれ中牟令となり、京師に近く権豪の多い地で姦吏や貴戚の名を借りる賓客百余人を誅し威名を上げ、官に没した。

陳重

  • 陳重、字は景公。豫章宜春の人。若くして同郡の雷義と友となり共に魯詩・顔氏春秋を学んだ。太守張雲が重を孝廉に挙げようとしたが重は十余度も辞退の書を送り義に譲ろうとし、雲が聞かなかったため翌年重・義が共に孝廉となり郎署で共に仕えた。同僚の郎の借金数十万を密かに肩代わりし、真相を後で知られても「同姓同名の別人だろう」と恵みを言わなかった逸話、他の郎の絝(袴)を誤って持ち帰った際に疑いを受けたまま弁明せず新しい絝を買って弁償した逸話などが伝わる。義と共に尚書郎から、義が身代わりに罪を受けて退けられた際は自ら病と称して免職し、後に細陽令として治績を挙げ会稽太守に上る直前、姉の喪で去官、司徒の辟召で侍御史となり没した。

雷義

  • 雷義、字は仲公。豫章鄱陽の人。郡功曹として善人を推挙してもその功を誇らなかった。ある時死罪を免れさせた人物から謝礼の金二斤を贈られたが受けず、相手が留守を見計らって密かに天井裏に投げ入れたところ、後に屋根を修理した際に見つかり、贈り主は既に死んでいたため県の役所に届けた。孝廉に挙げられ尚書侍郎となった際、同僚の郎が罪に問われ刑を科されようとした時、義は黙って自ら罪を引き受けて刑に服したが、これに気づいた本人が自首して罪を分かち合ったため、順帝の詔で共に赦された。義は茂才の推挙を陳重に譲ろうとしたが刺史が聞かず、髪を振り乱し狂人を装って命に応じなかった。郷里では「膠漆自ら堅しと言うも雷と陳には及ばず」と語られた。三府から同時に招かれた二人は共に灌謁者となり、義は持節で郡国を巡察し、太守・令長で罷免された者は70人に及んだ。侍御史を経て南頓令となり官に没した。子の雷授は蒼梧太守に至った。

范冉

  • 范冉、字は史雲(一に丹とも)。陳留外黄の人。若くして県の小吏となり督郵を迎える使いを命じられたのを恥じて逃げ、南陽で樊英に、後に三輔で馬融に学んだ。時流に逆らい俗を絶つ激越な行いを好み、梁伯鸞・閔仲叔を慕い、漢中の李固・河内の王奐とは親しくしたが賈偉節・郭林宗を鄙しんだ。王奐が考城令となった際、しばしば招かれても応ぜず、奐が漢陽太守として遠く赴任する日、弟の范協と共に麦酒を道端に用意して待ったが、奐の車馬の壮麗な行列を見て名乗らず、弟と語らうふりをして通り過ぎようとした。奐は声で気づいて下車し語ろうとしたが、冉は「賤しい身から豪友を絶っただけ、今日は今生の別れを惜しみに来ただけ、追いかければ貴顕を慕う謗りを招く」と告げて去った。
  • 桓帝の代、萊蕪長に任じられたが母の喪で赴任せず、太尉府の辟召にも「狷急で俗に従えぬ」と佩韋(西門豹の故事に倣い自戒の意)で朝廷を避け、侍御史に推されそうになると逃げて梁沛の間に身を隠し、素足に敝服で市で占いを売って生計を立てた。党人の禁錮に遭うと鹿車を推して妻子と麦拾いで自活し、十余年、客舎や樹陰を転々とした後、草の庵に住んだ。窮乏の中でも言動を変えず、郷里では「甑(こしき)に塵が生じ釜に魚が湧く(何も炊けぬほど貧しい)范史雲、范萊蕪」と歌われた。党禁が解けて三府から辟召され司空府に応じたが、西羌反乱・黄巾の乱で掾属の異動が制限されていた際は自ら弾劾して退き、詔で特に赦された。中平2年、74歳で自宅に没する際、子に「暗愚の世に生まれ淫侈の俗に遭い、世を匡す働きもできなかった、死してなお世に阿るまい、簡素な葬儀で墳の高さも肘を隠す程度に、我が心を知るのは李子堅(李固)・王子炳だが今はいない」と薄葬を遺言した。大将軍何進が令史を弔問に遣わし、諡は「貞節先生」と定められ、会葬者は二千余人に上り、刺史・郡守が各々碑を立てて墓を表した。

戴就

  • 戴就、字は景成。会稽上虞の人。郡倉曹掾を務めた。揚州刺史欧陽参が太守成公浮の贓罪を奏上し、部従事薛安が倉庫簿の調査で就を銭塘県獄に収監、五毒の拷問を加えたが、就は慷慨として辞色を変えなかった。焼いた斧を肘に挟ませられても平然と獄卒に「よく焼いて冷まさぬように」と言い、焼け焦げた肉が地に落ちればそれを拾って食べ、船の下に伏せて馬糞で燻され二日一夜「もう死んだ」と思われたが、船を開けると目を見開いて「なぜ火を強めて絶やさぬのか」と大罵し、大針で爪を刺されても屈しなかった。薛安が直接問うと就は「太守が罪を犯したなら審理すればよい、なぜ忠良を誣告し骨肉に虚偽の証言をさせようとするのか」と答え、安はその壮節に驚嘆して械を解き厚遇、郡の事件を釈明し浮を京師に送還した。就は釈放され帰郷、太守劉寵の推挙で孝廉となり光禄主事として病没した。

趙苞

  • 趙苞、字は威豪。甘陵東武城の人。従兄の趙忠は中常侍だったが、苞はその宦官の家門を恥じ交わりを絶った。孝廉から広陵令を経て遼西太守となり厳威で治政を敷いたが、赴任翌年、母と妻子を迎える途中、柳城で鮮卑1万余の侵攻に遭い母妻子が人質に取られ攻城に利用された。苞は騎兵二万を率いて対陣、母を盾に取られた際「子として不孝、微禄を得て孝養しようとした矢先に母に禍を招いた、しかし今は王臣の身、忠節を害するわけにはいかぬ、万死をもって罪を償う」と号泣した。母は遠くから「威豪よ、人にはそれぞれ天命がある、私にこだわって忠義を欠いてはならぬ、昔の王陵の母のように」と励まし、苞はただちに進撃し賊を打ち破ったが母妻子は殺された。埋葬を終えた苞は霊帝から慰問の使者と鄃侯の封を受けたが、「禄を食みながら難を避けず母を殺して義を全うするのは孝ではない、この身に何の面目があろう」と語り、血を吐いて死んだ。

向栩

  • 向栩、字は甫興。河内朝歌の人。向長の後裔。若くして書生でありながら卓詭不倫(常軌を逸した)性格で、常に老子を読み学道の風でありながら狂生のようでもあった。髪を乱し絳綃頭(赤い布の頭巾)をつけ竈の北の板床に長年座り続けた跡が残るほどで、あまり口をきかず長嘯を好んだ。弟子には「顔淵」「子貢」「季路」「冉有」と名付けた者たちがおり、ロバに乗って市で物乞いしたり乞食を家に招いて酒食を与えたりと、当時の人々にも計り知れない人物であった。
  • 郡の礼請・孝廉・賢良方正・有道の徴召にも応ぜず、姜肱・韋著と共に招かれても応じなかったが、後に趙相に特に徴されて赴任する際、質素であろうとの予想に反し華美な車馬で世を驚かせた。任地では文書もろくに見ず官舎に蒿萊が生い茂ったが、侍中に召されると朝廷の大事に侃然と正論を述べ百官に憚られた。張角の乱の際、栩は「軍を興さず、河上に将を派遣して孝経を読ませれば賊は自滅する」との便宜策を上便したが、これが左右の意向に反する諷刺と取られ、中常侍張讓が「国家の出師を妨げ角と内応するつもりだ」と讒言、黄門北寺の獄に送られ殺された。

諒輔

  • 諒輔、字は漢儒。広漢新都の人。郡の五官掾に仕えた。夏の大旱で太守自ら山川に祈っても効なき折、輔は庭に自ら身を晒し「股肱の任にありながら諫言・薦賢・退悪を尽くせず天地を隔絶させた罪はこの身にある、太守が服を改め自省して祈っても徹しない、日中までに雨が降らねば我が身をもって咎を塞ぐ」と誓い薪を積んでその中に座り自焚しようとした。日中前に雲が湧き大雨が降ったため、世人はその至誠を称えた。

劉翊

  • 劉翊、字は子相。潁川潁陰の人。家は豊かで常に施しを行いながら恩に着せなかった。汝南で師の喪に急ぐ陳国の張季礼が氷道で車を壊し立ち往生していた際、姓名を告げずに車を貸して立ち去り、季礼が後に潁陰まで礼を尽くしに来ても会わなかった。河南尹种拂に功曹として招かれ、拂の子の申甫のためを思って助言し(豪族程氏への山沢占用の可否を巡る相談で、原則を貫くよう答えた)拂に重んじられたが孝廉には就かなかった。黄巾の乱で郡県が飢饉に陥った際、数百人に食を与え、貧しい郷族の葬送・婚礼を援助した。
  • 献帝の西京遷都に際し上計掾に挙げられ、賊が横行する道を昼隠れ夜行して長安に至り、忠勤を賞され議郎、陳留太守に遷った。帰路、貴重品を分け与え自身は車馬のみで東帰する途中、病死した士大夫を見れば馬を棺に代え自らの衣で殮い、知人が飢餓で困窮していれば駕牛を殺して救い、「困窮を見て救わぬのは志士ではない」として最後には自らも共に飢えて死んだ。

王烈

  • 王烈、字は彦方。太原の人。若くして陳寔に師事し義行で称された。牛盗人が捕らえられ「刑罰は甘んじて受けるが王彦方にだけは知られたくない」と言ったと聞いた烈は、恥じ入る心を持つ者は改心できるとして布一端を贈った。後日、老父が道に落とした剣を見張っていた人物こそ、かつての牛盗人であったという逸話も伝わる。人々は争いを烈に裁いてもらうべく向かう途中で恥じて引き返すほどその感化は大きかった。孝廉・三府の辟召にも応ぜず、黄巾・董卓の乱を避けて遼東に移ると夷人にも尊崇され、太守公孫度は昆弟の礼で遇し州の長史に任じようとしたが、烈は自ら商売に身をやつしてこれを免れた。曹操も高名を聞いて招いたが応ぜず、建安24年、78歳で遼東に没した。

史論(贊)

  • 賛に曰く。方正を守って過たず、義に臨んで惑わず、剛潔をもって果断な行いにより徳を育んだ、と。