後漢書卷一百四上 袁紹列傳第六十四上 袁紹(本初)

出自と若き日の名声

  • 袁紹、字は本初、汝南郡汝陽の人、司徒袁湯の孫。父の成は五官中郎将。壮健で交遊を好み、大将軍梁冀以下と親しく交わった。若くして郎となり濮陽長を経て母の喪で辞官、3年の喪を終えてもさらに幼くして失った父の喪も行い(6年間廬に籠ったと伝わる)、服喪後は洛陽に移り住んだ。
  • 姿貌威容に優れ士を愛し名を養い、代々三公を輩出した家柄も相まって賓客が門に溢れ、身分を問わず抗礼したため、車馬が街路を埋めた。宦官はこれを憎み、中常侍趙忠は「袁本初は死士を養い声価を誇る、いったい何をたくらんでいるのか」と省内で語り、叔父の太傅袁隗が紹を呼んで責めたが改めなかった。
  • 大将軍何進の掾から侍御史・虎賁中郎将となり、中平5年(188年)西園八校尉が置かれると佐軍校尉(あるいは中軍校尉)に任じられた。霊帝崩後、紹は何進に董卓ら諸軍を召して宦官誅殺を太后に迫るよう勧め、司隷校尉に転じた(詳細は何進伝)。

董卓との対立と冀州掌握

  • 董卓が兵を率いて至った際、騎都尉太山の鮑信は「卓が強兵を擁し野心を抱く前に急襲すべき」と勧めたが、紹は卓を畏れて動けなかった。まもなく卓が廃立を議し「霊帝は不快な人物だった、董侯(陳留王)こそ立てるべきだ」と紹に言うと、紹は「今上はまだ若く不善もない、嫡を廃し庶を立てれば衆議は治まらぬ」と反対した。卓が剣を按じ「天下の事は私の思うままだ」と怒鳴ると、紹は「これは国の大事、太傅と相談を」と偽って答え、卓が「劉氏の血統ももはや惜しむに足らぬ」と重ねて言うと、紹は「天下の強者は董公だけではない」と言い放ち刀を横たえたまま去った。節を上東門に懸けて冀州へ奔った。
  • 董卓は懸賞をかけて紹を追ったが、卓に信頼されていた侍中周珌・城門校尉伍瓊が、袁氏4代の恩と門生故吏の広がりを説き「急いで追えば必ず変が起こる、赦して郡守に任じれば免罪を喜び問題を起こさぬだろう」と進言、卓は勃海太守・邟郷侯に任じた。
  • 初平元年(190年)紹は勃海で挙兵、従弟の後将軍袁術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、広陵太守張超、河内太守王匡、山陽太守袁遺、東郡太守橋瑁、済北相鮑信らが同時に各数万の兵で董卓討伐を掲げ蜂起した。紹は王匡と河内に、伷は潁川に、馥は鄴に屯し、他は酸棗に屯し盟を結び紹を盟主に推した。
  • 董卓は激怒し紹の叔父袁隗ら京師の一族を皆殺しにした。大鴻臚韓融・少府陰循・執金吾胡母班・将作大匠呉循・越騎校尉王瓌を送って和解を図らせたが、紹は王匡に胡母班・王瓌・呉循らを殺させ、袁術も陰循を殺した(韓融のみ名徳により免れた)。
  • 家禍を受けた豪傑の多くが紹に同情し州郡は「袁氏」を掲げて蜂起した。冀州牧韓馥は紹の人望に脅威を感じ従事に紹を監視させ発兵を許さなかったが、橋瑁が三公の名を偽って董卓の罪を訴える文書を回したことで馥もようやく紹の挙兵に理解を示した。治中の劉恵は「国のために兵を興すのになぜ袁だ董だと論ずるのか」と馥を叱った。
  • 馥はなお紹を疑い軍糧を絞って離散を図ったが、麴義が馥に叛くと紹はこれと結び、客の逢紀の献策で、公孫瓚を誘い冀州侵攻を装わせつつ、外甥の高幹・潁川の荀諶らに馥を説かせた。荀諶は「寛仁で衆望を得る点、危機に対処する智勇、恩徳の広さ、いずれも袁氏に及ばない、公孫瓚の鋭鋒にも耐えられない、冀州を袁氏に譲れば厚遇され禍も免れる」と説き、馥はこれに従った。長史耿武・別駕閔純・騎都尉沮授が「冀州には百万の甲兵と10年分の穀物がある、紹は孤客の窮軍に過ぎない、なぜ州を譲るのか」と諫めたが、馥は「私は袁氏の旧吏、才も本初に及ばない、賢に譲るのは古人も貴んだ道」と応じ、印綬を紹に贈った。
  • 紹は冀州牧を承制で兼ね、馥を奮威将軍としたが実権はなく、沮授を別駕とし「桓公も夷吾なしに覇を成さず、句践も范蠡なしに国を存せなかった、共に社稷を安んじたい」と語りかけた。授は「弱冠で朝に登り海内に名を馳せ、廃立に際し忠義を奮って単騎で脱出し卓を懼れさせ、いま勃海一郡から冀州を得て威は河朔に及ぶ、軍を東に向ければ黄巾を掃い、黒山に転じれば張燕を滅ぼし、公孫瓚を撃てば北も定まり、四州を合わせて長安に大駕を迎え洛邑に宗廟を復せば天下に号令できる」と説き、紹は「まさに我が心だ」と喜んだ。
  • 沮授は奮武将軍に任じられ諸将を監護。魏郡の審配・鉅鹿の田豊は正直さゆえに馥に用いられなかったが、紹はそれぞれ別駕・治中として重用した。馥は疑心暗鬼になり紹の元を離れ張邈のもとに身を寄せたが、後日、紹の使者と邈の密談を自分への謀と誤解し厠で自殺した。

公孫瓚との抗争

  • 中平6年(189年)冬、公孫瓚が黄巾を大破し槃河に屯すると威名は河北に轟いた。紹は自らこれを迎え撃ち、麴義の精兵800と強弩1千を伏兵とし、瓚の油断した突撃を破って冀州刺史嚴綱を斬り甲首1千余を獲た。麴義は界橋まで追撃し瓚の牙門を抜いた。紹自身は後方で瓚の残兵に囲まれる危機に陥ったが、田豊に守られ弩を集中させて凌ぎ、麴義の援軍で救われた。
  • 初平3年(192年)瓚が龍湊に再挑戦するも紹が撃破、瓚は幽州に退いて出てこなくなった。4年(193年)太僕趙岐の仲介で瓚は書を送り和解を求め、紹は軍を南に還した。
  • その頃、魏郡の兵が反し黒山賊于毒らと結んで鄴を襲い郡守を殺す事件が起きたが、紹は動じず容儀を保った。賊将の陶升だけが独り紹の家族と衣冠の人々を守って斥丘に送り届け、紹は陶升を建義中郎将とした。
  • 紹は自ら軍を率い朝歌鹿腸山蒼巌谷口で于毒を5日で破り首魁と1万余級を斬った。さらに左髭丈八・劉石・青牛角・黄龍・左校・郭大賢・李大目・于氐根らを次々討ち数万級を斬った。黒山賊張燕とその連合軍とは常山で十余日連戦したが、双方疲弊し兵を退いた。麴義が功を恃み驕慢に振る舞ったため紹は召し出して殺し、その兵を併合した。
  • 興平2年(195年)右将軍に拝された。この冬、車駕(献帝)が李傕らに追われ曹陽に至った際、沮授は「朝廷は今こそ帝を迎え鄴に都し天子を挟んで諸侯に令する好機」と説いたが、潁川の郭図・淳于瓊は「漢室の衰えは久しい、英雄が並び立つ今、迎帝は権を軽んじ命に逆らうリスクがある」と反対、紹は結局これに従わず帝を迎えなかった。

三子への割拠と檄文

  • 紹には3人の子があった。譚(字は顕思)・熙(字は顕雍)・尚(字は顕甫)。譚は年長で聡明、尚は幼くして容貌が美しく、後妻の劉氏が尚を寵愛して幾度も紹に推し、紹自身も尚の姿を愛でて後継にしたい意向を持ち、譚は兄(早世した長子)の後を継がせる形で青州刺史に出した。沮授は「万人が兎を追い一人が得れば争いは止む、分が定まっているからだ、年功と徳を基準にすべし」と諫め、改めなければ禍の元になると警告したが、紹は「子らにそれぞれ一州を治めさせその能を見たい」と述べ、次子の熙を幽州刺史、外甥の高幹を并州刺史に任じた。
  • 建安元年(196年)曹操が天子を許に迎えて都すると、紹に対し地広く兵多くとも自ら党を樹てるだけで勤王の軍を出さず討伐にばかり熱心だと責める詔書が下った。紹は上疏し、鄒衍・杞梁の妻の故事を引きつつ自らの忠誠を訴え、何進のもとで宦官誅殺に働いた功績、董卓の乱に際し一族が誅されながらも国を安んじる義から出奔した経緯、韓馥討伐と冀州獲得の経緯、董卓討伐同盟での盟誓、公孫瓚討伐での功、太僕趙岐の和解要請への応諾など、自らの忠を長々と弁明し、逆に「自分の将校の功が記録されず、二端を持つ日和見の州郡が土地を得ている」ことへの不満を述べ、爵位や恩賞に固執はしないと強調しつつ「腹心の遠謀ではなく讒慝の邪説がこうさせているのでは」と暗に曹操を非難し、太傅馬日磾が袁術に節を奪われ憂憤死した例を引いて、自分の与えられた地位が適切でないことを訴えた。この上疏の結果、太尉に封じられ鄴侯に改封されたが、大将軍たる曹操の下に置かれることを恥じて辞退、操は驚いて位を紹に譲った。
  • 建安2年(197年)将作大匠孔融が持節で紹を大将軍に拝し、弓矢・節鉞・虎賁百人を賜り冀・青・幽・并四州の督を兼ねさせてようやく受けた。紹は詔書が自分に不便なたびに天子を近くに移そうと図り、曹操に許の低湿と洛陽の荒廃を理由に甄城への遷都を説いたが操は拒んだ。田豊は「遷都が容れられぬなら、早く許を襲い天子を奉じるべき、そうしなければ後に人に先を越される」と説いたが紹は従わなかった。
  • 4年(199年)公孫瓚を討ち幽州を平定(詳細は瓚伝)。四州を併せ数十万の兵を擁するとますます驕慢になり、貢献も粗略になった。主簿耿包が「赤徳(漢)は衰え袁氏は黄胤(黄帝の裔)、天意に従うべき」と密告したが、幕僚は妖妄として誅殺を求め、紹は世評の統一のため包を殺してこれを収めた。
  • 精兵10万・騎1万で許都攻撃を計画、審配・逢紀に軍事を統べさせ田豊・荀諶・許攸を謀主に、顔良・文醜を将帥に据えた。沮授は「公孫瓚討伐の疲弊が回復していない今は農を進め民を休ませるべき、まず献捷して天子に奏し、それが叶わねば曹操が王路を塞いだと表して黎陽に進屯、河南に営を築き舟船・器械を整え精騎で辺境を掠め敵を疲れさせるのが上策」と説いたが、郭図・審配は「10倍で囲み5倍で攻めるという兵法通り、明公の武威と河朔の強兵で曹操を討つのは容易い」と反論した。授は「救乱誅暴を義兵、恃衆憑強を驕兵と言い、義は無敵、驕は先に滅ぶ、曹操は許都に宮を立て天子を奉じている、これを討つのは義に反する、彼の兵は精練、公孫瓚のように籠城で滅びる相手ではない」と重ねて反対、郭図らは「武王が紂を伐したのも不義ではない」と反論し紹は郭図の言を採り、授を讒言して「監軍の権が過大」として軍を三分し授の権限を削った。
  • 建安5年(200年)左将軍劉備が徐州刺史車冑を殺し曹操に背くと、田豊は「操が東征している隙に許を襲うべき好機」と説いたが紹は子の病を理由に動かず、田豊は杖で地を打ち「得難い好機を子の病で逃すとは」と嘆き、紹はこれを恨み疎んじた。操は紹を恐れ急ぎ備を破り、備は紹のもとへ奔った。紹はさらに許への進軍を図り、田豊は再び「今の許は空虚ではなくなった、操の用兵は変幻自在で侮れない、山河の要害と四州の民を擁し外は英雄と結び内は農戦を修め、精鋭を分けて奇兵とし虚を突いて河南を乱すのが上策、廟算を捨てて一戦で成否を決するのは危うい」と諫めたが、紹はこれを衆を沮喪させる言として田豊を投獄した。
  • 紹は先に檄文(原文は文選にも収録される陳琳の作。ここでは要旨のみ)を発し、曹操の祖父曹騰が宦官として横暴を極めたこと、父曹嵩が賄賂で官位を得たこと、操自身の姦計・専横(張讓誅殺の功を横取りしたこと、董卓の乱後に自ら諸悪を働いたこと、九江太守辺讓を無実の罪で殺したこと、陶謙・呂布との戦で敗れたこと、太尉楊彪を不当に拷問したこと、梁孝王の陵墓を暴いて盗掘したこと、発丘中郎将・摸金校尉なる役職を設けて盗掘を組織的に行わせたこと等)を糾弾し、天子を挟んで諸侯に命ずる不当を訴え、諸州の兵を集めて許都に迫る大義名分とした。

官渡の戦い

  • 紹はまず顔良に曹操の別将劉延を白馬で攻めさせ、自らは黎陽に至った。沮授は出発に際し宗族に資財を分け「勢いが続く限り威は加わるが、勢いを失えば身も保てない」と述べた。弟の沮宗は「曹操の兵馬は敵わない、何を恐れるのか」と言ったが、授は「操の明略と天子を奉じる資源を思えば、公孫瓚に勝ったとはいえ我が軍は疲弊している、主は驕り将は怠っている、この一戦で敗れよう、揚雄の『六国は蚩蚩として嬴を弱め姫を弱めた』の言そのものだ」と憂えた。
  • 曹操は白馬を救援し顔良を斬った(蜀志によれば関羽が万軍の中で良の首を取ったという)。紹は河を渡り延津南に陣を布いた。沮授は舟上で「上(紹)は志が満ち下(将)は功に走る、この黄河を渡り切れるだろうか」と嘆き、病と称して退こうとしたが許されず、部を削られ郭図に付けられた。紹が劉備・文醜に挑戦させると操はまた撃破し文醜を斬り、2将を失った紹軍は動揺、操は官渡に退いて陣を布いた。
  • 紹は陽武に進み、沮授は「北兵は多いが勁果さでは南軍に劣り、南軍は兵糧が乏しいため急戦を欲するが北は持久が利、じっくり対峙すべき」と再び説いたが紹は従わず前進、官渡で合戦となり操軍は一旦不利になるも堅壁に籠った。
  • 紹は高い櫓と土山を築き営中を射させたが、操は投石車(霹靂車と呼ばれた)で破壊、紹は地下道で襲おうとしたが操は長い塹壕で防いだ。操の奇兵が紹の輸送車を襲い穀食を焼くと100余日の対峙で河南の民は疲弊し紹に叛く者が増えた。
  • 紹が淳于瓊らに1万余の兵で兵糧を北から運ばせた際、沮授は「蔣奇に別動隊を編成させ表に置き操の奇襲を防ぐべき」と進言したが用いられなかった。許攸は「操の主力は許にほとんど残っていない、軽兵で急襲すれば許を落とせる」と進言したが、これも用いられなかった。まもなく許攸の家人が法を犯し審配に捕らえられたことで許攸は失意し曹操に投降、淳于瓊らが烏巣に屯していることを密告した。操は自ら歩騎5千で夜襲し瓊らを斬り兵糧を焼いた。
  • 紹は「操が瓊を攻めている隙に操の本営を落とせる」と考え、高覧・張郃らに操の本営を攻めさせたが落とせなかった。張郃は「操の本営は堅く烏巣の瓊らこそ危うい」と主張したが郭図が反論し重装備で本営を攻める策を推した。案の定瓊らは破れ、郭図はこれを恥じて張郃を讒言、張郃は恐れて曹操に降った。
  • 2将の投降を知った紹軍は動揺し大潰走。紹と譚は幅巾姿で騎馬に乗り800騎で黄河を渡り黎陽の将軍蔣義渠の営に逃げ込み「わが首をあなたに預ける」と手を握って告げた。義渠は自らの帳を譲り軍令を発した。紹の存在を知って離散した兵が集まったが、投降した8万人は操に生き埋めにされた。
  • 捕らえられた沮授は「授は降っていない、捕らえられただけだ」と叫んだ。操は「そなたと私は立場を異にしたが、今日再び会えるとは」と語りかけたが、授は「冀州の失策で自ら敗走を招いた」と応じ、命乞いをする様子はなく「叔父母や弟の命が袁氏に懸かっている、公の恩情で速やかに死なせてくれるのが幸い」と述べた。操は「もっと早く得ていれば天下を憂えずに済んだものを」と嘆き、赦して厚遇したが、授が袁氏への帰還を謀ったため結局誅殺した。
  • 紹は外見寛雅で局度あるようでも、実は矜愎で自負が強く善言を容れる度量に乏しく、それが敗因となった。帰陣後、ある人が「田豊は重用されるだろう」と言うと、豊は「公は表向き寛大でも内心は猜忌深い、私の直言が図星を突いたため、戦に勝てば恥じて赦されようが、負ければ内なる猜忌が表に出て私は殺されるだろう」と予見した。案の定、紹は「田豊の言を用いなかったばかりに笑われることになった」と語り、豊を殺した(逢紀の讒言も一因とされる)。
  • 官渡の敗戦で審配の2子が操に捕らわれた際、孟岱が「審配は権を専らにし一族が兵権を握り、子2人が敵地にいる以上、反心を疑うべき」と讒言し、郭図・辛評も同調、紹は孟岱を監軍として審配を鄴の守りから外そうとした。しかし逢紀は審配の烈直さを弁護し、紹はこれに従い審配を留めた。冀州の城邑の多くが叛くと紹は再びこれを平定した。
  • 官渡敗北後、紹は発病し吐血、建安7年(202年)夏に薨じた(後妻劉氏の酷妒により死後に紹の寵妾5人が惨殺されたという逸話も伝わる)。嗣子が定まらぬ中、逢紀・審配は常々譚に嫌われていたため、譚を立てれば辛評・郭図に害されると恐れ、紹の遺命を偽って尚を嗣子に立てた。