後漢書卷九十六 陳王列傳第五十六 王允

董卓誅殺の功と悲劇

  • 王允、字は子師、太原郡祁の人。世々州郡に仕える名家に生まれ、同郡の郭林宗に「王生は一日千里、玉に等しい才だ」と評され交誼を結んだ。19歳で郡吏となった際、小黄門晋陽の趙津が横暴を極めていたのを討ち捕らえて殺した。趙津の兄弟が宦官に取り入って讒訴し、桓帝は激怒して太守劉瓆を召し獄死させた。允は喪を平原まで送り3年の喪を全うしてから郡に戻った。
  • 郡人の路佛は無名の人物でありながら太守王球に登用されようとした際、允は面と向かって固く争い、球の怒りを買い殺されそうになったが、刺史鄧盛が聞いて馳せつけ別駕従事に召して救った。これにより允は名を知られ、路佛は登用されなかった。
  • 三公から辟され、司徒府での高第により侍御史となる。中平元年(184年)黄巾の乱が起こると豫州刺史に選ばれ、荀爽・孔融らを従事に辟して禁党を除き、黄巾の別帥を大破。左中郎将皇甫嵩・右中郎将朱儁らとともに数十万の降者を受け入れる中、中常侍張讓の賓客が黄巾と通じていた書簡を得て、允はその奸を明るみに出した。霊帝は張讓を責めたが罪には問えず、讓は允を恨んで陥れ、翌年獄に送られたが、大赦で復職。旬日で別の罪により再度捕らわれると、司徒楊賜は允が拷問を受けることを望まず自死を勧める使者を送ったが、允は「臣として罪あらば法に伏すべき、毒を仰いで死ぬなど道理に合わぬ」と拒み、檻車で廷尉に送られた。大将軍何進・太尉袁隗・司徒楊賜が共に上疏して救い、死一等を減じられ、その冬の大赦の対象からも当初外されたが翌年ようやく解放された。
  • 宦官の横暴が甚だしい中、允は身の危険を恐れ姓名を変えて河内・陳留の間を転々とした。帝の崩後、喪に赴いて京師に戻ると、大将軍何進が宦官誅殺を謀り允を従事中郎に招いた。のち河南尹に転じ、献帝即位後は太僕、再遷して守尚書令となり、初平元年(190年)楊彪に代わり司徒となった(尚書令は兼務)。
  • 董卓が長安への遷都を命じた際、允は蘭台・石室の図書秘緯の重要なものを収め、長安到着後にすべて条理して上奏し、漢朝の旧事典章を整えて経籍を保全した。董卓が洛陽に留まる間、朝政の大小はすべて允に委ねられ、允は感情を偽って卓に従い、卓もまた允を信頼したため、危乱の中で王室を支えることができた。
  • 卓の禍毒がますます深まり簒逆の兆しが見えると、允は密かに司隷校尉黄琬・尚書鄭公業らと謀を通じ、護羌校尉楊瓚を行左将軍事に、執金吾士孫瑞を南陽太守に任じ、袁術討伐を名目に武関道から兵を出させて実は卓を挟撃し天子を洛陽に還そうとしたが、卓に疑われて留められた。允は瑞を僕射に、瓚を尚書に迎えた。
  • 初平2年(191年)董卓が長安に還ると、允は入関の功で温侯に封じられ邑5千戸を賜ったが固辞。士孫瑞の勧めで董卓と並んで封じられるのは不謙虚だと諭され、2千戸を受けた。
  • 3年(192年)春、60余日続いた大雨の中、允は士孫瑞・楊瓚と台に登って晴天を祈りつつ再び卓誅殺を謀った。瑞は「歳末以来の異変(執法星への月犯、彗星、昼夜の陰陽の乱れ)は好機の迫りを示す、内から発する者が勝つ」と説き、允は董卓の将呂布を内応させることに決した。卓が入朝を賀した機に布が卓を刺殺した。
  • 允は当初、卓の部曲を赦免しようとし呂布も勧めたが、「彼らは主に従っただけとはいえ、悪逆の名を負う者を特赦すれば逆に疑いを招く」と考えを変えた。呂布は卓の財物を公卿に分け与えようとしたが允は従わず、また日頃から布を剣客のように軽んじていたため、功労を誇る布との間に不和が生じた。
  • 允は剛直で悪を憎む性格で、卓在世中は節を折って謀を進めたが、卓の滅亡後は油断が生じ、際会に温潤さを欠き権宜(融通)を用いなかったため、部下の支持を得られなかった。董卓配下の将校や在位者の多くが涼州人であったため、允は軍の解体を議したが、皇甫嵩に涼州の兵を統べさせ関東と通謀しつつ徐々に対応すべしとの進言を退け、「関東の義兵は皆味方であり、涼州にこもって関東の心を疑わせるのはよくない」と主張した。
  • 涼州人を皆殺しにするとの流言が広まると、卓の部曲将李傕・郭汜らは自ら不安に駆られ謀反、長安を攻囲し陥落させた。呂布は逃走する際、青瑣門外で允を招いたが、允は「社稷の霊に恃んで国家を安んじられるならそれが望みだが、叶わなければ身を捧げて死ぬのみ、幼い朝廷を見捨てて難を逃れることは忍びない」と答え、関東諸公に国家を思うよう伝えるよう託した。
  • 允が同郡の宋翼を左馮翊、王宏を右扶風に任じていたが、李傕らは三輔の富強を恐れ、まず翼・宏を召還してから允とともに一族を誅殺した。允は56歳で没した。長子の侍中盖、次子の景ら宗族十余人も誅殺され、甥の晨・陵のみ脱出できた。天子は悲嘆し、百姓も気を落としたが、遺骸を収めようとする者はなく、旧吏の平陵令趙戩だけが官を棄てて葬儀を営んだ。
  • 王宏、字は長文は弘農太守として宦官に賄賂で官位を得た者を厳しく糾弾し数十人を処刑して威を鳴らしたが、司隷校尉胡种との旧怨により獄死に追い込まれ、臨終に「宋翼は豎儒(愚かな儒者)で大計を議するに足らぬ、胡种は人の禍を喜ぶ、禍は必ず自らに及ぶ」と罵った。种はのちに宏の霊に杖で撃たれる幻を見て発病し数日で死んだという。
  • 遷都後、帝は允の忠節を思い改めて殯葬させ、虎賁中郎将を遣わして弔祭し東園秘器を賜り、本官の印綬を追贈、孫の黒を安楽亭侯に封じ邑300戸を与えた。
  • 士孫瑞、字は君策は才謀があったが、允が討卓の功を独占するのを見て自ら侯に叙されることを辞し、のち国三老・光禄大夫となり、楊彪・皇甫嵩がともに三公の位を瑞に譲った。興平2年(195年)東帰の駕に従い乱兵に殺された。
  • 趙戩、字は叔茂は初平年間に尚書として選挙を司り、董卓のたびたびの私的な人事介入を堅く拒み、卓に怒られて殺されそうになっても顔色を変えなかった。長安の乱後は荊州で劉表に厚遇され、曹操が荊州を平定すると招かれ、相国鍾繇の長史となった。

史論

  • 士は正をもって立つが、謀をもって事を済すこともある。王允が董卓を推して権を借り、隙をうかがって罪を暴いたのは、忠義の誠から出た行いであり、権を分けたことも猜疑を招かなかったことも、その本心が忠義にあったからこそ成し得た、と評した。

  • 陳蕃は荒れた部屋にあっても天下を清める志を抱いたが、謀は合っても運命は開けなかった。人が亡くなれば国も衰えるという言葉のとおりであった。王允は難事を謀り心を隠して節を屈し(董卓に迎合したことを指す)、董卓誅滅の功を全うしたが自身と余党の禍を招いた。時に隆盛と衰亡があり、事にも巧拙があった(董卓誅殺は巧、自身の殺害は拙、の意)。