「天下を掃除せん」の志
- 陳蕃、字は仲挙、汝南郡平輿の人。祖父は河東太守。15歳のとき、庭が荒れているのを父の友人・薛勤に咎められ、「大丈夫たる者は天下を掃除すべきで、一室にかまけるものか」と答え、勤はその志を奇とした。
- 郡吏を経て孝廉に挙げられ郎中となったが、母の喪で辞官・服喪。刺史周景に別駕従事として辟され、諫争が容れられず節を投げて去った。のち公府の招きにも応じなかったが、太尉李固の表薦により議郎を拝し、楽安太守に遷った。
- 当時、青州刺史李膺の威政を聞き周辺の県令が皆自ら去る中、蕃だけは清廉な治績で郡に留まった。高潔の士・周璆を厚遇し特別に榻(腰掛)を設けて字で呼び、璆が去れば榻を掛けて保管した。一方、母の喪を服さぬまま20余年墓道に住み続けて孝を装った趙宣を、実は喪中に5子をもうけていたことを見抜いて糾弾した。
- 大将軍梁冀の請託の使者が蕃に通じなかったことに怒り使者を偽って笞殺したため、脩武令に左遷され、のち尚書に遷った。
- 零陵・桂陽の山賊討伐に際し、諸州郡に一律に孝廉・茂才を挙げさせる詔が下ると、蕃は上疏して反駁し、賊害は郡守の貪虐によるもので、三府に牧守を厳しく点検させ清廉な人材に代えるべきだと説いた。この諫言が権貴の意に逆らったため、豫章太守に左遷された。性格は方峻で賓客と交わらず、士民にもその高潔さを畏れられた。
- 尚書令に召され、大鴻臚に遷った際、白馬令李雲が桓帝を諫めて誅されそうになると上書して救い、免官・帰郷。再び議郎に召され数日で光禄勲に遷った。
- 封賞が制度を超え内寵(後宮の寵愛)が過ぎることを憂え上疏し、諸侯の封は高祖以来の「功臣にあらざれば侯とせず」の約を破って河南尹鄧万世の父の微功が追録され、近習が義に反して邑を授けられていることを批判し、収斂による民の困窮と数千の采女への浪費とを対比して指弾した。帝はこの言を一部容れ、宮女500余人を出したが、鄧儁・鄧万世への叙爵は止めなかった。
- 延熹6年(163年)、帝が広城苑で校猟した際、蕃は上疏して舜・成王でさえ遊猟を戒められたのに帝がそれ以下でよいのかと諫め、田野・朝廷・倉庫の「三空」の窮乏と兵戎未だ収まらぬ情勢の中で遊猟すべきでないと説き、斉景公が晏子の諫めで海への遊覧をやめた故事、周穆王が祭公謀父の詩で心を止めた故事を引いたが、上奏は容れられなかった。
- 光禄勲として五官中郎将黄琬と選挙を司った際、権貴に偏らなかったため権門の郎に讒訴され免官・帰郷。まもなく尚書僕射に召され、太中大夫を経て延熹8年(165年)楊秉に代わり太尉となったが、自らの徳が太常胡広・議郎王暢に及ばないとして辞退した。帝は許さなかった。
- 中常侍蘇康・管霸らが再び任用され忠良を排斥する中、大司農劉祐・廷尉馮緄・河南尹李膺が帝の意に逆らって罪に問われた際、蕃は朝会でこれを弁護し涙を流して訴えたが聞き入れられなかった。
- 小黄門趙津・南陽の大猾張汜らが宦官に取り入って法を犯し、太原太守劉瓆・南陽太守成瑨がその罪を糾して赦令後も処刑したため宦官が恨み、瑆・瑨は棄市に処されようとした。また山陽太守翟超が中常侍侯覧の財産を没収し、東海相黄浮が下邳令徐宣を誅殺した罪で髠鉗・労役に処されようとした際、蕃は司徒劉矩・司空劉茂とともに諫めたが咎められ、矩・茂は口をつぐんだ。蕃は独り上疏し、斉桓公の内政の故事、春秋が小悪も記す道理を引き、外患より内政の乱れこそ深刻だと訴え、梁氏五侯(&KR1015;・讓・淑・忠・㦸)の禍から日が浅いのに近習が再び権を結んでいること、劉瓆・成瑨の処罰は誠意ある行いに対して過酷すぎること、翟超・黄浮の処罰も文帝が鄧通を罰した丞相申屠嘉、光武帝が湖陽公主の従者を斬った董宣を許し賞した故事に照らせば行き過ぎであることを説いた。帝はますます怒り、これ以降蕃を憎む宦官の勢いが増し、太尉府の属官が譴責される事態が続いたが、蕃が名臣であるため害されずにいた。劉瓆・成瑨はいずれも獄中で没した。
- 延熹9年(166年)、李膺らが党事で下獄すると、蕃は上疏して極諌し、賢明な君主は輔佐の直言を委ねるべきであり、李膺・杜密・范滂らが身を正して忠を尽くしながら罪に落とされたことは秦の焚書坑儒と変わらないと批判し、禹が罪人を見て涙した故事を引き、罪は己にありとする姿勢を説いた。帝はこの言を諱み、蕃が不適格な人物を辟召したとして策免(罷免)した。
- 永康元年(167年)帝が崩じ竇太后が臨朝すると、蕃は太傅・録尚書事に任じられた。新たな喪の中、諸尚書が権官を恐れ病と称して朝せぬのを見て、蕃は書で叱責し「新帝の位も定まらぬ今こそ古人のように節を立てるべきだ」と諭し、諸尚書は畏れて職務に復した。
- 霊帝即位後、竇太后は改めて蕃の忠孝を称える優詔を発し、高陽侯に封じ邑300戸を与えたが、蕃は10度上疏して固辞し、受けなかった。
- 桓帝が寵愛する田貴人を皇后に立てようとした際、蕃は田氏の卑微を理由に強く争い、竇后が立てられる結果となった。竇后の臨朝後、大将軍竇武と心を同じくして名賢を登用し、天下は太平を期待した。しかし帝の乳母趙嬈が太后の側に常にあり、中常侍曹節・王甫らが諂って太后に信任され、その一族が貪虐を行うのを蕃は常に憎み、宦官誅滅を志して竇武とも謀を通じた。
- 上疏して、京師では侯覧・曹節・公乗昕・王甫・鄭飂らが趙夫人(趙嬈)や女尚書と結んで天下を乱していると訴え、順帝即位当初に蘇康・管霸を誅したときの清明さを再び取り戻すべきと説き、この上奏を天下に示して奸を知らしめるよう求めたが、太后は納れなかった。
- 竇武との謀が漏れ、曹節らが矯詔で武らを誅した際、蕃は70余歳ながら官属・諸生80余人と刃を抜いて承明門に突入し、「大将軍は忠をもって国を衛った、黄門こそ反逆ではないか」と叫んだ。折しも出会った王甫に詰られると、蕃は剣を抜いて叱ったが、多勢に囲まれて捕らえられ黄門北寺獄に送られた。宦官の従官に踏みつけられながら害され、家属は比景に流された。宗族・門生・故吏はことごとく罷免・禁錮された。
- 友人の陳留の朱震(字は伯厚)は当時銍令であったが、これを聞いて官を棄て、蕃の遺骸を弔って葬り、その子・逸を甘陵の地に匿った。震は事が発覚し一族が捕らえられ拷問を受けても口を割らず、逸は助かった。のちに黄巾の乱で党人が大赦されると逸は召還され魯相となった。震はかつて州従事として中常侍・車騎将軍朱超の兄の罪を暴いた清廉さで「車は鶏栖のごとく馬は狗のごとし、悪を疾むこと風のごとし、朱伯厚」と諺に称えられた。
史論
- 桓・霊の時代、陳蕃のような人物は世の常識に逆らって高い声を上げ、宦官らと同朝に並び渡り合った末に滅びの禍を招いたが、それは志が汚れていたからではなく、世を離れて高しとする風潮の中でも人心を憐れみ、隠遁を義に反すると考えたゆえの行動だったと評した。竇武と結んで謀を進めたときは「万世一遇の好機」と信じ、伊尹・呂尚の業に匹敵する気概があった。功は成らずとも、その信義は民心をつなぎとめ、漢の世が乱れながらも百余年保たれたのは、こうした人々の力によると評した。