羌討伐に生涯を捧げた将軍
- 叚熲、字は紀明、武威郡姑臧の人。その先祖は鄭の共叔段に出る。西域都護叚会宗の従曾孫。
- 若くして弓馬を習い遊侠を好み財貨を軽んじたが、長じて節を折り古学を好むようになった。孝廉に挙げられ憲陵園丞・陽陵令となり治績を上げ、遼東属国都尉に遷った。
- 鮮卑が塞を犯した際、熲は自ら軍を率いて赴いたが、賊が驚いて逃げることを恐れ、駅騎に偽の璽書を持たせて自らを召還させ、道中で偽って退却し、伏兵を設けて虜を誘い込み、大いに兵を放って撃滅した。璽書を偽った罪で重刑に処されそうになったが、功により司寇(労役刑)に減じられ、刑期を終えて議郎に召拝された。
- 太山・琅邪の賊・東郭竇・公孫挙らが3万の衆で郡県を破壊し、連年討伐が功を奏さない中、永寿2年(156年)桓帝が文武の将を選ばせ、司徒尹訟の推挙で熲は中郎将として竇挙らを大破、1万余級を斬獲し、列侯に封じられ、銭50万と一子の郎中登用を賜った。
- 延熹2年(159年)護羌校尉に遷り、燒当・燒何・当煎・勒姐ら八種の羌が隴西・金城を侵した際、湟中義従羌1万2千騎を率いて撃破し、南に渡河して追討、羅亭でも大破して2千級を斬り1万余人を捕虜とした。
- 翌春、余羌が再び張掖を侵し鉅鹿塢を攻め落として属国の吏民を殺したが、熲は日中まで激戦し、刀が折れ矢が尽きても虜を追い、河首積石山まで塞外2千余里を進んで燒何の大帥を斬り5千余人を獲た。石城羌も撃ち1600人余りを斬溺させ、燒当種90余口が降った。
- その後も白石の雑種羌、允街を囲んだ勒姐零吾種などを次々破ったが、延熹4年(161年)冬、涼州刺史郭閎が功を貪って熲の軍を留め進ませなかったため、義従羌が反乱し、閎は罪を熲になすりつけ、熲は徴されて左校での労役に処された。羌はますます猖獗を極めたが、吏民数千人が闕に訴え、朝廷は熲が郭閎に誣告されたことを知り、熲は謝罪のみで一切弁明せず、長者として評された。
- 議郎から并州刺史に遷り、滇那ら諸種羌が武威・張掖・酒泉を侵し勢いを増す中、再び護羌校尉に拝され、封僇・滇那ら355人の酋豪、3千落を降し、当煎・勒姐種も撃破。延熹8年(165年)春には湟中で敗れ3日間包囲されたが、隠士樊志張の策により夜襲で大破し、数千級を斬獲した。
- 春から秋まで戦い続け、西羌をついに破り尽くし、斬首2万3千級、捕虜数万人、牛馬羊800万頭を獲て降者は1万余落に及び、都郷侯に封じられた。
- 永康元年(167年)当煎諸種の再叛を鸞鳥で大破し、3千余級を斬って西羌は平定されたが、東羌先零らは度遼将軍皇甫規・中郎将張奐の招降にもかかわらず降っては叛くを繰り返した。桓帝が熲に意見を問うと、熲は皇甫規への降者2万落に対し張奐が久しく進まないのは「羌の狼子野心は恩をもって懐柔しがたい」との見解を示し、東羌3万余落が塞内に近く、并・涼を長年侵し続けている「癰疽」のごとき害であることを説き、騎5千・歩1万・車3千両、3冬2夏で54億銭をもって根絶することを進言、帝はこれを許した。
- 建寧元年(168年)春、彭陽から高平を経て逢義山で先零諸種と戦い、鏃・利刃・長矛を三重に備え強弩を挟んで奇襲、大勝し8千余級を斬り牛馬羊28万頭を獲た。竇太后は詔で熲の功績を称え銭20万と一族一人の郎中登用を与え、破羌将軍に拝した。
- 夏、橋門から走馬水、さらに奢延澤へと羌を追撃し、輕兵で一昼夜200余里を進んで撃破。落川で再結集した敵に対し田晏・夏育を分遣して撃破、令鮮水で自ら先登し士卒とともに三日三夜の追撃を敢行し、涇陽に至った。
- 中郎将張奐は「東羌は破れたが余種を尽くすのは難しく、熲は軽率で敗北しやすいので招降による寛恕を」と上言したが、熲は自らの策の正しさを重ねて主張し、周秦以来の羌害の歴史、趙充国・馬援の先例を引いて招降が結局叛乱を繰り返すことを説き、詔は熲の策を許した。
- 建寧2年(169年)春、羌の残党を包囲殲滅する作戦を実行し、田晏・夏育に5千人を率いて山上に拠らせ、羌の総攻撃を誘い出して大破。射虎谷に逃れた羌を木柵で包囲し、山を挟んで撃破、渓谷を追撃して1万9千級を斬り、牛馬・氈裘・帳幕など数え切れぬほどの戦利品を得た。馮禅らの招降した4千人は安定・漢陽・隴西の三郡に分置され、東羌はことごとく平定された。
- この討伐は全180戦、斬首3万8千600余級、獲た牛馬羊駱駝42万7500余頭、費用44億銭、戦死者400余人に及んだ。熲は新豊県侯に改封され、邑万戸を得た。行軍中は士卒に仁愛深く、病者には自ら手当てをし、辺境在任10余年、一日も安眠せず将士と苦楽を共にしたため、皆が喜んで死戦した。
- 熹平3年(174年)春、京師に召還され秦胡歩騎5万余人・汗血千里馬・捕虜1万余人を率い、大鴻臚が持節で鎬にて労った。侍中に拝され執金吾に転じ、河南尹のとき馮貴人の墓が盗掘された事件で諫議大夫に左遷、司隷校尉に再遷。宦官に取り入って富貴を保ち、中常侍王甫と結んで中常侍鄭颯・董騰らを枉げて誅し、邑4千戸を加増(合計1万4千戸)。翌年太尉に代わり就任、その冬病により罷免され再び司隷校尉、潁川太守を経て太中大夫に召拝。光和2年(179年)再び橋玄に代わり太尉となったが、在位1か月余りで日食に際し自劾、印綬を取り上げられ廷尉に送られた。
- 司隷校尉陽球が王甫を誅する上奏に熲も連座させ、獄中で詰責されて熲は鴆を仰いで死んだ。家属は辺境に移された。のちに中常侍呂強が熲の功を追訟する上疏をし、霊帝は熲の妻子を本郡に帰すことを許した。
- 熲は皇甫規(威明)・張奐(然明)とともに京師で名を知られ、「涼州三明」と称された。
賛
- 山西には猛将多く、三明はその中でも並び立つ存在であった。皇甫規・張奐は策を審らかにして凶を鎮め、文武で相補い合った。叚熲は両狄を追い詰め、その戦いぶりは疾風のごとく激しく、終には谷も山も静まり返った。