後漢書卷九十五 皇甫張叚列傳第五十五 張奐

羌・匈奴・烏桓との戦いと党錮の悲劇

  • 張奐、字は然明、敦煌郡酒泉の人。父の惇は漢陽太守。奐は若くして三輔に遊学し、太尉朱寵に師事して『欧陽尚書』を学び、繁雑な牟氏章句45万余言を9万言に圧縮した。
  • 大将軍梁冀府に辟され、桓帝にその章句を上奏し東観に下されたが、病により辞職。のち賢良方正の対策で第一に挙げられ議郎に拝され、永寿元年(155年)安定属国都尉に遷った。
  • 着任早々、南匈奴左薁鞬台耆・且渠伯徳ら70余人が美稷を侵し、東羌も呼応した。奐の陣営には200人ほどしかいなかったが、直ちに兵を率いて出撃し、長城に屯して兵を集め、王衛を遣わして東羌を招誘し、龜兹に拠って南匈奴と東羌の連絡を断った。東羌の諸豪は奐と和親を結び、共に薁鞬らを撃破。伯徳は恐れて郡界に降り、羌の豪帥は奐の恩徳に感じて馬20匹を、先零の酋長は金鐻8枚を贈ったが、奐はこれらを羌の前で酒を地に注いで誓い「馬が羊のように多くとも厩に入れず、金が粟のように多くとも懐に入れぬ」と述べ、すべて返還した。羌は貪欲な吏を嫌うが清廉な吏を貴んだため、以前の8人の都尉が財貨を貪り患いとなっていたのに対し、奐の清廉と威化は大いに行われた。
  • 使匈奴中郎将に遷ると、休屠各・朔方の烏桓が反乱し度遼将軍の陣営を焼いた。奐は赤阬に屯し、烽火が相望む中で軍中が動揺したが、奐は帷の中で従弟らと講誦し平静を保ち、軍を安定させたうえで密かに烏桓を誘って和し、休屠各の渠帥を斬って衆を破り、諸胡はことごとく降った。
  • 延熹元年(158年)、鮮卑が辺境を侵すと南単于とともに撃ち数百級を斬ったが、翌年梁冀が誅されると奐は旧吏として免官・禁錮された。友人の皇甫規は奐が禁錮されたのち誰も推挙しない中、7度上奏して推薦した。
  • 4年の禁錮ののち武威太守に拝され、徭賦を均しくし戦後の疲弊を回復させ、常に諸郡随一の治績を上げ、河西を保全した。当地の風俗に「2月・5月に生まれた子や父母と同月生まれの子を殺す」という妖忌があったが、奐は義方を示し賞罰を厳正にしてこれを改めさせ、百姓は生きているうちから祠を立てて奐を祀った。
  • 度遼将軍に遷り数年で幽・并の地を清静に保った。9年、大司農に召還されるとその夏、鮮卑が南匈奴・烏桓を誘って数道から侵入し、九郡を荒らした。秋には鮮卑が再び東羌と盟を結んで上郡沈氏・安定先零諸種を誘い武威・張掖を侵した。朝廷は憂え、再び奐を護匈奴中郎将に拝し、九卿の秩をもって幽・并・涼三州と度遼・烏桓二営を督させた。匈奴・烏桓は奐の到来を聞いて相率いて降り、その数は20万口に及んだ。奐は首悪のみを誅しほかは慰撫し、逃れた鮮卑を除いて服させた。
  • 永康元年(167年)春、東羌先零の5、6千騎が関中を侵し祋祤を囲み、両営を攻め殺すなど猖獗を極めたが、奐は司馬尹端・董卓を遣わして大破し、酋豪以下1万余を斬獲した。三州が平定され、功に対する封が議されたが、奐は宦官に仕えなかったため賞は行われず、銭20万と一族一人の郎官登用のみが与えられ、奐は辞退して弘農華陰への転籍を願った(辺境出身者の内地移住は本来禁じられていたが功により特例が認められた)。
  • 建寧元年(168年)軍を凱旋させた際、竇太后臨朝のもと大将軍竇武が太傅陳蕃と宦官誅殺を謀ったが事が漏れ、中常侍曹節らが宮中で反乱を起こし、召還されたばかりで事情を知らない奐に少府周靖とともに五営の兵で竇武を包囲させる矯詔を発した。竇武は自殺し陳蕃も殺害された。奐はこの功で少府に遷り大司農にも拝され侯に封じられたが、節らに欺かれたことを深く恥じ、封を固く辞退し印綬を返上した。
  • 翌年夏、青蛇が御座前に現れ、大風雨雹雷が木を抜く異変が起こると、奐は上疏し、大将軍竇武・太傅陳蕃が忠貞・方直でありながら讒言によって誅されたことを民が悲憤していると述べ、周公が礼に外れた葬儀をされた際に天が怒りを示した故事を引き、武・蕃を改葬し、連座して禁錮された者を赦すよう求めた。また皇太后(竇太后)が南宮に幽閉されたまま礼遇されていないことを憂えた。帝はこの言を深く納れたが、宦官らに阻まれ実現しなかった。
  • のち太常に転じ、尚書劉猛・刁韙・衛良とともに王暢・李膺を三公に推薦したが、曹節らはこれをさらに憎み、詔で切責され、奐らは廷尉に自ら収監されたのち3か月分の俸で贖罪した。司隷校尉王寓が宦官の威を借りて公卿に推挙を求めた際、皆が畏れて応じる中、奐だけが拒んだため、王寓は怒って党罪を着せ、奐は禁錮されて帰郷した。
  • 奐はかつて度遼将軍として叚熲と羌討伐の方針で争った経緯があり、熲が司隷校尉となり奐を敦煌に追放して害しようとした際、奐は記を上げて謝罪し、淳于髠の故事や、朽ちた骨を葬った文王、死馬の骨を買った燕昭王の故事を引いて温情を乞うた。熲は剛猛な性格ながらこの書を見て哀れみ、ついに害さなかった。
  • 禁錮の間、奐は門を閉ざし千人の徒を養い、『尚書記難』30余万言を著した。若くして「大丈夫たる者は国家のため辺境で功を立て、将帥として勲名を残すべきだ」と語っていた。董卓が奐を慕い兄を通じて絹百匹を贈ったが、奐は董卓の人柄を嫌って受け取らなかった。
  • 光和4年(181年)、78歳で没した。遺命で「自分は仕進の中で幾度も銀艾(印綬)を得ながら、和光同塵できず讒邪に忌まれた。通塞は命であり、地下に葬られるならば、綿で包み釘で固めるような厚葬を望まない。ただ幅巾のみで簡素に葬れ」と述べ、晋文公のような奢りも楊王孫のような倹も避け、子らはこれに従った。武威の民は多くの祠を立て世々絶えなかった。銘・頌・書・教誡・述志・対策・章表など著作は全24篇。
  • 長子の芝、字は伯英は草書の名手として最も知られ(張有道と号された)、弟の昶、字は文舒も草書に優れ今に伝わる。奐が武威太守だった当時、妻が奐の印綬を帯びて楼に登り歌う夢を見て「必ず男子を生み、再びこの地に赴任し、この楼で命を終えるだろう」と占われた。その子・猛は建安中に武威太守となり刺史邯鄲商を殺したため州兵に包囲され、捕らわれることを恥じて楼に登り自ら焼身して死んだ。占いの通りとなった。

史論

  • 鄛郷侯に封じられて以来、宦官の世が数十年にわたり暴虐を極め、天下の人々が歯噛みして憤り、陳蕃・竇武が義を奮って謀を企てたことは天下の名士の知るところであった。しかし張奐は豎子(宦官)に欺かれて忠烈を断つ道具にされ(曹節らの矯詔により五営士を率いて陳蕃・竇武を包囲・殺害する結果になったことを指す)、心に恨みを抱きながらも爵位を辞して罪を謝したと評した。